ギリシア神話における死後の世界
貧富や貴賎にも、また生前の功徳や悪行にも関係なく、ほとんどすべての人のプシュケ(魂、PsychologyのPsych部分に相当)つまり魂は肉体を出た後ハデスの館に向かう。けれどもきわめて例外的であるが、人生の終末に、死の代わりにエリュシオンで永遠の生を授けられる者もいた。エリュシオンは雪も雨も降らず、嵐もない最高の楽園である。極楽系パラダイスはもう一つある。ヘシオドスはそれをマカロン・ネソイと呼び、やはり世界の遥か彼方に想定した。つらい涙も労働もなく、1年に3度も実りがもたらされ、あたたかい陽光がふりそそぎ、美しい花々が咲き乱れている。
>東南アジアのこと? 
キリスト教の終末論との違いを一瞥しておくと、ギリシア神話における死後のユートピアは、キリスト教の天国のように垂直方向に向かうのではなく、この世界の延長線上に水平方向に向かって想定された。またエリュシオンの至福の島も、存命中に善行を積んだ有徳の人のためのパラダイスではなく、婚姻関係によって神界に連なった者だけ約束される理想郷であり、永遠の安楽という特権を神から分与される場所なのである。
そこに道徳・倫理観の押し付けがないところが、「神話」であり、行動規範を定めるものだと「経典」になるのだろうな。
ギリシア神話で地獄に近いものとしてはタルタロスがあげられる。キリスト教では存命中に大罪を犯した人間が地獄で懲罰を科されるのに対して、ギリシア神話のタルタロスは、本来は罪人に暴力的な制裁を加える場ではなかったのである。神統記によると、宇宙は三層構造をなしていた。神々の住む天上と、人間の住む大地と、大地の奥底にあるタルタロスである。これら3つの場所は垂直的にとらえられていた。天から地上までの距離、大地とタルタロスまでの距離は「青銅の鉄床が9日9夜落ち続けて10日目に届く」だけ離れていた。タルタロスは陰湿な奈落の底であり、そのまわりには青銅の垣根がめぐらされている。ここに最初に閉じ込められたのは、オリュンポス神族と戦って敗北を喫したティタン神族であった。タルタロスは本来単なる隔離場所に過ぎなかった。ホメロスとヘシオドスにおけるタルタロスは暴力的な制裁の場ではなく、ましてや使者が生前の悪行を償う地獄ではなかった。しかし後代になるとタルタロスは大罪人が死後に厳罰を科せられる仕置き場に変貌していた。
終末論の変容
死生観の変化に伴って終末論も変容するが、その変容もピンダロスには反映されている。ホメロスの世界の人々は、光溢れる地上での生を、この世の苦痛や苦悩も含めて深く愛した。けれども時代が下るとともに、生を全面的に肯定する姿勢に翳りが見え始めた。ピンダロスは「ピュティア祝勝歌」第8歌に次の一節を残した。人間は影の見る夢にすぎない、だが、神の授ける光が射せば、人の世は輝き、甘美な人生が訪れる。生はつかのまの幻影のようなものであって、無条件に喜ばしきものではない。ピンダロスのライバルとされる抒情詩人バッキュリデスは、ヘラクレスが冥界でメレアグロスの亡霊と出会う神話的場面を描いた。ヘラクレスは「人の身に最善は生まれぬこと、陽の光を目にせぬこと」と口にする。この箴言めいた言い回しにはヘロドトスと会い通じるペシミズムが影を落としている。ペシミズムの度合いはソポクレスに比べるとまだそれほど深くない。悲劇詩人ソポクレス「コロノスのオイディプス」(前401年)になると生に対する悲壮感はさらに深まる。生まれて来ないのが何よりもましだ。が、この世に出てきてしまった以上はもとのところになるべく早く帰ったほうがそれについでずっとましだ。
 人生観に正反対と言ってよいほど大きな相違が生じた原因は何だったのだろうか。それは、時代状況の推移とともに古代ギリシアの政治・経済・社会などが変貌をとげたことと決して無縁ではなかったであろう。