アメリカ式食事
アメリカ農務省やカーギルやコンチネンタルの戦略家たちにとって、余剰穀物問題を解決する方法は明らかだった。他の国々に
もアメリカ式の食習慣をつけさせれば良いのだ。世界の経済機構の中で、アジアの何億という米食民族をパン食に切り替えさせ
たことで、毎年決まって出るアメリカの余剰小麦のいく分かは処理できた。新たにアメリカへの依存度を高めたことが政治上、
経済上、どんな深い意味を持っているかを問い直そうとした者はほとんどいなかった。ひとたび合衆国が諸外国に熱心に穀物を
押し付け始めるやそれを正当化する理由にはこと欠かなかった。パンには栄養があったし肉を含む偏りのない食事でアジア人は
見る見るうちに身長が伸び、体格が良くなった。食糧輸入は開発途上国内での食糧価格の高騰を押さえ、労働力と資本を産業
化の方へ廻すことを可能にした。アメリカは世界への食糧供給者としての自然的利点に恵まれていた。
戦後、パン食に親しむようになった国の多くは、その気候風土が小麦栽培に適さない国々であった。もしパン食を続けるとすれ
ば、小麦か粉を輸入せざるを得なかった。征服民族はつねに被征服民族の文化と生活習慣に影響を与えるものだが、第二次世
界大戦後のアメリカのように敗戦国の食習慣まで変えてしまったのは歴史上あまり例を見ない。だが、アメリカ政府が余剰農産
物を処理するのに絶好の道具となったのは、1954年に議会を通過した公法第480号だった。これによりちびちびとやってい
た食糧援助が恒久的な農業政策となり同時に対外政策ともなって固定化した。コーンや木綿産業をバックにした議員たちは、も
しアメリカの食糧があまりやすやす入手できれば、外国の農民はその生産対象を食用穀物から他の輸出可能な産物に切り替えて
それが外国市場で、”アメリカ”の商品を脅かすことになりかねない、として、不安を表明した。だが永久的食糧援助計画は、
保守派を圧倒するだけのアピールを持っていた。彼らはこの計画によって、農民がいくら余剰農産物を生産しても支払いを受け
続けられることを知っていた。人道主義的に見ても、イデオロギー的見地からもこれが一挙両得な政策であると見た。1953
年、干ばつの危機にさらされたパキスタンに、食糧援助をすることを主張した。パキスタンがソ連から南アジアへのルートの要
所であるカイバル峠の人口を握っており、対外政策上の意味を持っていた。公法480号は諸外国への援助計画として宣伝された
が、それは何よりもまず、アメリカの農民と穀物貿易に対する援助であった。
ケネディが大統領に就任した1961年この国は莫大な量の余剰コーンを抱え込んでいたので、もしその年の夏が豊作だった
ら貯蔵する場所がないだろうと心配された。そこで緊急行政措置が取られ、もし例年より20%から50%作付面積を減らすこ
とに同意するなら、1ブッシェルあたり、最低1ドル20セントでコーンを買い上げよう、との提案がなされた。ほとんどの農民
と経済学者が、政府の経費とその在庫を減らすこの計画を妙案だと思ったがカーギルの幹部はそれを大災害と受け取った。彼ら
は1ブッシェル1ドル20セントもの価格支持ではアメリカのコーンは高すぎて世界市場で太刀打ちができないと主張した。こ
れではコーンは政府の助成金つきでしか輸出できない。「ミデンツ・プラン」、価格支持は世界の標準価格まで下げるべきであ
りコーンの輸出助成金は打ち切るべきである。支持の切り下げは農民に政府小切手を与えることで補いをつける。このエピソー
ドはケネディ政権の農業問題へのアプローチを暗示している。それは援助の施しより貿易を重視していた。小麦貿易を圧倒的に
支配していたカナダとアメリカはその政策と国際価格の点で足並みを揃えていた。事実上、両国は、二ヶ国小麦カルテルを結ん
でいた。価格を低く抑えておけば他の国々が自国用の生産を増やしたりもっと悪くすれば、小麦輸出を始めたりするのを防ぐこ
とができ、長い目で見れば利益になる、と考えていた。だが公法480号の登場で、他の小麦生産諸国から合衆国が「ダンピン
グ」をやっているのではないか、という声が上がり始めた。その通り、やっていたわけである。
奴らの喉にぎゅうぎゅう詰めこめ 「これは確かに世界史上、もっとも大きな穀物取引である。もちろん我々にとっては最大の
ものだ。」 農務長官 アール・バッツ、1972年7月、ソ連の穀物輸出に関して。
1964年、カーギルとコンチネンタルはいち早く黒海への輸送を開始していた。この同じ年にコンチネンタルの例の精力的な
オランダ人、ノーデマンは、マトヴィエフに5万トンの袋詰めの米を売った。翌1965年にはソ連はまた凶作で、ノーデマン
は9万トンのアメリカ大豆をマトヴィエフに売りつけた。だがそれきりだった。ソ連とアメリカの穀物取引はほんの僅かになり、
やがてストップした。アメリカ側では労働組合は、共産諸国への穀物輸出に対しイデオロギー上の偏見を持っていた。
1960年代に、ソビエトが取り入れ始めたのは、まさにアメリカ式食事の型であった。それは家畜部門の着実な伸びを維持
するためのレオニード・ブレジネフ政府の政策となった。ブレジネフは断固、ロシア人の食卓にもっと多くの豚肉や鶏肉をのせる
つもりだった。そして、それとともにソビエト農業の問題も国際化した。というのはソ連の農業では、とてもこの政策を長らく
支え続けるだけの穀物は生産できなかったからである。
キッシンジャーの思惑
アメリカの貿易、および国際収支の赤字を埋め、ドルを強化する必要にかられたからとはいえ、政府が共産主義国への穀物輸出
への穀物輸出にあらゆる制限を除いてしまったことは思い切った処置だった。それは工業技術の輸出を、他の分野でのソ連の譲
歩と結びつけた、ニクソン=キッシンジャーの政策とは矛盾するものであった。議会において大統領が他の米ソ間の問題全般に
関する合意が得られるまでは、ソ連との輸出拡大に反対。ソ連が第二次大戦中の13億ドルに上る貸与を返済していないことを
指摘し、当時米ソ貿易は1年に2億ドル程度。1972年キッシンジャーは国務省、商務省、農務省に「対ソ貿易増大の見込み
のある分野の一つは農産物と商品融資公団の製品に関連している」と書き送った。コンチネンタルと接触中、ソ連はたびたび、
合衆国と長期に及ぶ契約を結びたいとの意向を表明したが、この取引を信用貸しでやって欲しいとほのめかしたことはなかった。
10億ドル程度のカネなら金を売るか、ユーロダラーマーケットから借り入れとあわせれば何とか作れた。だが、キッシンジャー
は明らかにこの穀物の絆を緊張緩和にひっかけたいという気持ちを少なからず持っていた。
1971年と72年に世界は連続して凶作に見舞われた。ニクソンは1971年にドルの切り下げを行い、このためアメリカの
穀物は前にもまして、外国にとってお買い得商品となった。1972年まで国際的な穀物取引は、徐々に増加してきていたが脅
威的な伸びはなかった。1971年から75年の間に国際貿易の増加はそれまでの戦後全期間の増加に等しいくらい急成長した。
取引条件も合衆国経済に有利な方向へ、1972年以後の輸出のほとんどが現金取引だった。
世界食糧経済のこの著しい変化は、ほんの部分的にはロシア人の仕業であった。だが大部分は世界が全般的に豊かになって、
穀物の輸入が増えたためであり、多くの国々で食生活が変わったためである。また諸外国の支配者たちは膨れ上がった都市人口
を満足させるだけの食糧の輸入する必要があった。こうした変化は徐々に起こってきたものだが、いったん穀物価格が上がりは
じめると客たちは恐慌をきたし、多くの国々が高いせり値をつけた。これこそ、農務省の熱心な市場開拓者たちと穀物の企業が、
10年以上も前から待ち望んでいたチャンスだった。あらゆる種類の穀物の値が政府の支持価格より上がって市場は完全に商業
的な取引となった。
「どの家族もすべて、根本的には偏執狂である。君はどうかね?」 前カーギル社員
【脅しのバイブル】
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2011.01.04: ※注:アジア系の怖い人は来ません!
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