戦局を一変させた戦法と兵器 「新兵器開発とその集中的投入」
ジオン軍のコロニー落とし戦略を支えていたのはモビルスーツの存在だった。モビルスーツの大量投入により、ジオン
軍は迎撃を図る地球連邦軍艦隊を一蹴したのだ。そのことは連邦軍がその後、慌ててモビルスーツの実戦配備
に乗り出したことでも明白だろう。新しい戦術が戦場の勝敗を決め、歴史さえ動かした例は多い。古くは紀元前
330年頃のアレクサンドロス三世(アレキサンダー大王)の東征
である。
アレクサンドロス三世は、マケドニア・ギリシア連合軍を率いて東に隣接していたアケメネス朝ペルシア帝国に攻撃
をかけた。連合軍はペルシア軍より数の上で劣勢であったが、ことごとく勝利をおさめ、ついにペルシア帝国を紀元
前334年、滅亡させた。勝利に導いたのは、彼の父フィリッポス二世が考案した“ファランクス”と呼ばれる重装
歩兵部隊
だった。彼らは4メートル弱の長槍で武装し、縦横16メートルの陣形を組んでいた。この計256名の
部隊は、大王の命令で自在に動けるように厳しく訓練されていた。連合軍は騎兵隊と軽装歩兵部隊でペルシア
軍を”ファランクス”部隊に追い込み、次々に撃破していったのである。鉄砲を使った新戦術も歴史を変えた。
 1575年の長篠合戦で、当時、最強と謳われた武田騎馬軍団を迎え撃った織田信長は配下の鉄砲足軽隊
に3000挺の小銃(火縄銃)
を持たせていた。鉄砲を初めて使用したのは13世紀のモンゴル軍で、ヨーロッパ
遠征に使用された。ヨーロッパではベルギー人が最初に使ったと言われている。小型の大砲として開発された鉄砲
は、15世紀末には全ヨーロッパに普及し、フランスのシャルル八世は鉄騎隊や銃兵隊を編成していた。日本に小
銃が伝わったのは1543年。伝来から17年後の1560年には駿河の大名・今川義元が500挺を保有して
いた。洋の東西を問わず戦闘の帰趨(キスウ)を決する兵器として注目されていた鉄砲だったが3000挺もが
集中して使用されたのは長篠合戦が初めてであった。
 20世紀では、ドイツ軍の戦車と航空機を使った電撃戦が歴史を変えた。戦車の使用法は大別して二つある。
ひとつは歩兵部隊に配属し、歩兵戦闘に協力させるものである。この戦法は主に第一次世界大戦で用いられた。
もともと戦車は歩兵の塹壕攻撃を支援する目的で開発されたのだから、これは当然であった。しかし、戦後、ドイ
ツやイギリスの一部の軍人は、戦車は歩兵とともに分散させるのではなく、戦車のみで集中的に運用すべきだと
考えた。イギリス陸軍ではこの思想は上層部に受け入れられなかったが、ドイツではヒトラーがハインツ・グデリアン
大佐たちのこの考えに賛成し、機装師団の編成が進められた。ただし、当時のドイツはベルサイユ条約で戦車の
保有を禁じられていたから、戦車開発は秘密裏に行われ、また訓練にはソ連領内が使われた。グデリアン大佐の
戦法は、戦車に歩兵、砲兵、工兵などを協力させるやり方だ。ドイツ軍が第二次世界大戦初期にこの戦術を駆
使した。彼はさらに、戦車に航空機も協力させていた。まず、戦闘機や急降下爆撃機で敵を混乱させ、それから
戦車を中核とした機甲部隊が攻め込むのである。この場合、歩兵や砲兵は徒歩ではなく、兵員輸送トラックで移
動する。進撃速度を人間の歩く速度に合わせていたら、戦車の機動性は大幅に失われてしまう。全軍の速度を
戦車なみにすることで、敵に先制攻撃がかけられるわけだ。先制と集中。これが電撃戦の基本であった。
電撃戦がもっとも効果を発揮したのは対フランス戦においてだった。フランス軍もいずれドイツ軍が攻め込んでくること
を予想し、国境線にマジノ線と呼ばれる要塞を築いて待ちかまえていた。だがオランダ陥落の5日後にドイツ軍がな
だれ込んできたのはマジノ線ではなく、戦線の中央部からであった。ここはアルデンヌの森林地帯で、戦車は通過が
困難と考えられていたため、フランス軍の守りは薄かった。しかしドイツの戦車師団はそこを衝き、フランス軍とイギリ
ス軍の大陸派遣軍を分断。一気に大西洋沿岸まで進撃してしまった。この巧妙な作戦と電撃戦によってドイツ軍
は第一次世界大戦では4年かけても攻略できなかったフランスをわずか1ヶ月で降伏させてしまったのである。
当時、フランスは世界最強の陸軍国といわれていた。戦車の保有数もドイツより多かった。戦車自体もドイツより
優秀だった。ドイツの戦車といえば重戦車ティーガーや中戦車パンターが有名であるが、これらはいずれも1943年
以降に実戦配備されたもので、1940年当時の主力戦車は小型のⅡ号、中戦車のⅢ号であり、大戦を通じて
ドイツ軍の主力となったⅣ号でさえ、その数はまだわずかだった。Ⅱ号、Ⅲ号よりもフランスのルノーやシャールといった
戦車のほうが、ずっと高性能だったのである。しかし、フランス軍は戦車を歩兵の支援兵器として分散配備していたの
で、集中運用のドイツ軍の前に一敗地に塗れてしまったのである。ドイツ軍は、戦車の性能だけではなく、戦術で勝
利したのだ。現在でも戦車の運用法はこの電撃戦に習っている。ただし、電撃戦にも弱点はあった。機械化された
部隊は燃料を多く消費する。西欧ではガソリンスタンドも多く、燃料の補給は容易だった。また西欧は道がよく戦車、
装甲車、輸送トラックは非常に走りやすかった。だが、1941年から始まった独ソ戦ではそうはいかなかった。ソ連に
はガソリンスタンドが少なく、また、整備されていない道はわずかな道ではすぐ泥濘となった。そのため、電撃戦も西欧
ほどスムーズには行えなかったという。ジオン軍も一年戦争初頭には、モビルスーツのザクを集中して使用し、連邦軍
を圧倒したものと思われる。
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