「『飛ばし』は、損害保険会社の頭のいい人が考えたアイデアなんだよ「と言い出したのである。そして、三木は損保業界大手の名前を挙げた。「その損保はね、決算の数字作りに困ることの無いように、決算期の違うファンドを最初から2つ作って、うちうちで操作できるようにした。最初はうちうちでやっていたものが、だんだん他者のフトコロも借りるように変形していったんだね」 飛ばしは投資家や株主の目をごまかす事実上の粉飾決算である。それを損保が考案し、証券会社だけでなく、銀行など金融界全体で重宝した、と三木は言った。
「山一と東急百貨店の取引をめぐっては、大蔵省証券局長が飛ばしに関与していた」。問題の取引が始まったのは1990年2月のことだ。山一は東急百貨店に10%の利回りを保証すると約束していたが、直後のバブル崩壊で利回りどころか多額の損失を抱えてしまった。その損失は山一で引き取るのか、それとも東急百貨店が被るのか、はっきりさせないまま、山一は90年7月末、91年1月末、そして7月末と東急百貨店の決算期に合わせて、損失を抱えた有価証券を別の企業に飛ばして凌いでいた。両社が対立するのは、取引開始から1年半後の91年8月。山一が「損失は東急に属しており、引き取るわけにはいかない」と決めたからである。利回り保証を実行しなかったわけだから、その判断は誤りとはいえない。しかし両社の交渉は難航し、92年1月には、東急側から「利息分を含め318億円を返せ」という催促状が届く。「万一、返済されない時は、東京地検特捜部に詐欺の被害にあったものとして、行平社長らを告訴し、報道機関に全容を公表する」と催促状に記されていた。この問題について、
嘉本「三木さん、問題になった東急百貨店の催促状についてはどのように対応されたのですか」
三木「あの頃私は副社長でしたが、大蔵省の松野証券局長に呼ばれて大蔵省にお伺いしました。92年1月だったと思います。席上、局長から『東急百貨店から、飛ばしの依頼が来ているでしょう。どうするのですか』と聞かれました。私は担当で無いのでよくわからない、と答えたんです」
三木は企画室長のころ、忠実なMOF担と言われた。松野局長とはそのころからの旧知の間柄だった松野允彦のことである。お蔵小は当時、監督下にある証券会社に対して絶対的な指導権限を握り、箸の上げ下ろしに至るまで指図していた。局長の一言ひとことが事実上の行政指導である。三木の記憶では、その松野は意外な言葉を口にしたという。
「大和(証券)は、海外に飛ばすそうですよ」
「『海外は難しいのではないですか』と私が答えると松野局長は『うちの審議官が知っているから、聞いてください』と言ったんだよ」
驚いた三木は大蔵省から本社に戻り、副社長の延命の部屋で行平たちに、松野の言葉を伝えた。その場にいたものは一様に、「東急百貨店の件は、大蔵省から『飛ばしによって処理せよ』と示唆された」と理解したという。行平たちはその報告を受けて既定方針を覆し、東急とは争わずに損失を引き受ける方針に大転換した。「あのあとで松野証券局長にお会いしました。私が『(東急百貨店の件を海外に飛ばすことは)資金繰りなど自信がありませんので国内で処理することにいたしました』と述べたところ、松野局長から言葉をかけられましたね。『ありがとうございました』だったか、『ご苦労様でした』だったか。そんな言葉でした」。
なぜ大蔵省が見逃したのか。国鉄民営化、JRの93年の売り出しの際、少しでも売り出し価格を上げるために、その参考指標である「東急電鉄」の株価を上げる必要があった。東急百貨店は東急電鉄の完全子会社で、東急電鉄の決算に悪い影響を与える要素は東急電鉄の株価を下げ、従ってJRの売り出し価格が下げることになる。後に野村證券と稲川会、石井進による東急電鉄買占め事件も同様の理由で、大蔵省主導に利用された証券業界という噂がある・・・。