醜聞 宮家の古着
敗戦後、天皇家は温存されたがその権限は縮小された。直宮ではない宮家皇族や家族なども多くの特権を剥奪され、経済的苦境に陥ったりした。そして、太宰治が戦後の華族没落を描いた小説「斜陽」から、斜陽族という言葉が流行し、斜陽にともなう旧特権勢力の数々の庶民的言動は時に醜聞として広まることもあった。
こうした世相にあって、雑誌「真相」の1948年6月号は「カメラ探訪 宮様商売告知板」を掲載し、皇籍離脱した東久邇宮稔彦の「東久邇商店」、閑院春仁の「無料結婚媒介所」、久邇朝融のダンスホールなどを揶揄まじりに紹介した。元妃たちの商魂ぶりも伝えられ、旧朝鮮公族妃であった桃山佳子などはふくよかな顔立ちの写真入りで「渋谷なる喫茶店『桃屋』の営業不振に鑑み、まずは銀座への進出の桃山家、銀六百貨店に御開業(ただし売品は全部ヤミだよ」、「銀六百貨店菓子部主任、李鍵公改め桃山虔一夫人佳子の君」と皮肉たっぷりに描かれた。「閑院夫人がチョクチョク古着を売りにくるナツメ衣裳部、大福帳に具出を取るは松平親子」の記事もあり、「ナツメ」は久邇朝融がはじめた久邇香水の直売所であった。「ナツメ」は美術部、食料品部、高級喫茶部の3部門に分けられた間口三間、奥行十間の小店で久邇の血縁の元妃殿下たちが数人の男女店員に交じって働いたりしていたのであった。「松平の奥様」や皇族たちが衣類を売りに持ち込み、「徳川のアオイの紋のとなりに菊の紋章がならんでいる」といわれたのであった。
貞明皇后記念館建設をめぐる詐欺事件
皇太后節子は貞明皇后と諡号され、その古風な気品と格調高さが後世に伝えられることとなった。しかし良妻賢母教育は戦後の風潮には必ずしもなじまず、その名声は衰えた。そして崩御7年後の昭和33年1958年に受難が訪れた。貞明皇后記念館建設募金をめぐる詐欺事件の発覚である。事件の発端は昭和29年7月頃御用邸のある静岡県沼津市の日蓮宗の住職と国際文化協会沼津支局長とが、貞明皇后を偲ぶ記念館建設を計画したが、両者の意見が対立したため支局長は国際文化協会理事長に話を持ちかけ、昭和30年9月に理事長が記念館建設の意思を持たないまま東京都知事に募金を申請したことにある。申請が許可されたことにより、理事長は無断で元公爵の一条実孝、元貞明皇后侍医の山川一郎、静岡県知事斎藤寿夫ら有名人約40名の名を賛同人として連ねたパンフレットを作成して、八幡製鉄、日本鋼管、味の素など都内一流企業に配布したのであった。その結果、およそ100社から八百万円を集めたのである。当時大卒の事務系の初任給が15000円ほどであったから、1社当たり新人社員の5カ月分の給料に相応する寄付を出したことになる。
募金活動は一年と限定されていたため、理事長はその後も延期申請をして3度目は貞明会と名を改め、日比谷公会堂で募金の芸能会を開き、その収入を得ながらも税金を滞納して脱税容疑で追及されたりした。また蔵前国技館で花相撲を開き、相撲茶屋の寄付金40万円をふくむ450万円の収益を上げたりしていた。さらに福島県など各地の小学校の生徒から10円、20円の額を集めていた。この総額は2000万円以上と推定されるが、昭和33年になっても記念館建設予定地とされる沼津市には何の動きもなかった。そもそも沼津市では昭和31年夏になされた国際文化協会支局長の土地借入申請に不審の点があるため却下していたのである。こうした事情を受けて、警視庁捜査2課は貞明会理事長宅などを詐欺の疑いで家宅捜査して取締りをはじめたのであった。貞明会の中心人物であった国際文化協会理事長は過去に詐欺や賭博の前科があり、暴力や恐喝の前科者を集めて資金を調達させていたというのが実態であったようだ。
官中魔女事件
昭和41年から46年にかけて皇后良子をめぐる新たな問題が発生する。入江日記によえば、当時、官中祭祀にうるさく、誰かが大晦日に剣璽の間に入ったとか、皇后良子をしてどうして旬祭は年に2回になったのかと言わせるなど、官中行事の運営に口をさしはさんでいた「魔女」と称された女官がおり、昭和天皇の高齢を考慮して祭祀の簡略化をすすめていた入江ら官中官僚の妨げとなっていた。しかし、「魔女」は皇后良子の信認篤く、皇后から保科武子女官長の後任を推されていたほどであった。「魔女」の女官長就任はなかったが、天皇と皇后が欧州旅行に出かける際の準備段階で、皇后は「魔女」の同行を主張し「魔女」が同行しないのなら自分も行かないとまで言いだし、一時は天皇単独の旅行案も考えられたのであった。
河原敏明によれば「魔女」は公家の羽林家である旧今城子爵家から皇后宮女官となった今城誼子のことであり、今城は旧来の官中祭祀の伝統を守ろうとしたが、入江ら改革派の官僚たちに阻止されたというのが真相であったという。今城家は花山院家の支流中山家の分家であり、維新後の当主である今城定徳が子爵となり、その正妻の竹子は橋本実梁三女であった。橋本実梁といえば明治天皇の夭折した長女である稚高依姫尊を産んで同日に死去した権典侍橋本夏子の兄(夏子の出生には不明な点があり、実梁の妹麗子と東坊城夏長の長女説がある)として知られる。また定徳子爵を嗣いだのは定徳長女の友子と結婚した中山孝麿侯爵の長男定政であった。中山高麿は皇太子嘉仁親王の東宮大夫をつとめ、孝麿の叔母は明治天皇生母の中山慶子である。そうした家系の今城定政の長女が誼子であり、代々の伝統的な宮中儀式を尊重する性癖もうなずけなくはなかった。
一方、皇后良子のほうは昭和35年1960年の長女照宮成子の容体悪化のころから精神状態が乱れ始めた。治療のかいなく成子は早世した。その後、皇后良子は新興宗教に凝った「魔女」の意見に従うことが増え、熱があっても「魔女」の一言で侍医に身体をみせることをしなくなった。「魔女」の皇后への影響力は、天皇裕仁の心の負担ともなり、天皇は口をパクパクする症状を見せるようになった。戦後の新時代に対応しようとする天皇裕仁と入江ら改革派の官中官僚たちと、旧来の伝統を維持しようとする皇后良子や今城ら守旧派の女官たちとの間の確執が「官中魔女事件」の背景にあった。皇后良子はめまぐるしく変わる皇室環境に息切れし、孤立感を深めていた。その心の隙間を埋めていたのが「魔女」であった。
皇族に嫁いだ女性たち 4/4~皇室スキャンダル
アメリカ・フロリダに行ってきました 2/4~ディズニーランド
香港・シンガポールとアジアに住み始めてはや10年。アジア住みになってからアメリカとの距離が開いてしまい、すっかり行かなくなってしまいました。日本に住んでいた頃はNYやカリフォルニア、ラスベガスなど遊びに行ったものですが、シンガポールからアメリカだと直行便は異様に少なく、乗り継ぎで24時間超になってしまいます。なので10年ぶりくらいのアメリカ。
インターナショナル・ドライブというフロリダ州オーランド市中の道路沿いのホテルに泊まりました。車社会+土地が無駄に余っているので、ホテルと言ってもモーテルのような形で、2~4階建て程度の低層で、広い駐車場、ファミリー向けに4人でも泊まれるようなホテルが多いです。道路は片側5車線あるので、空がとても広い光景で、まるで中国のような風景です。中国っぽく見えるのは、右側通行だからですかね?「全然、違うだろ」ってのはごもっともなのですが、建物と道路と空の配分比率という観点では似ています。
マンハッタンとは一味違うアメリカの地方都市はとにかく広い、無駄に土地が余ってる感、満載です。この風景を見ながら生まれたウォルマート(ウォルマートは本来アーカンソー州からスタートなので表現が的確ではないが、地方都市で発展した小売の意)の発想では、日本の西友では成功できないわな。中国ではウォルマートが散見されますが、発想そのまま、中身を替えればなんとかいけそうな気がしてきます。おそらく、日本だったら北海道(行ったことはない)が、この土地余り感ある風景なのでしょう。
ディズニーランド
ディズニーランドは大きく4つ、日本と全く同じのマジックキングダム、アニマルキングダム、エプコット、ハリウッドスタジオとある。まったく似合わない場所に行ってみた俺の愚痴オンパレード、開始w
ディズニーランドの客層は最低だ。バカ・ガキの巣窟。悪ふざけで3兄弟でつつきあった挙句、サラダを床にぶちまけ、それを母親にばれないように皿に戻して食ってる奴とか、意味不明なまでに肥満なやつが超ちんたらレジで会計していたり。「なんのために事前にメニューを渡しているんだ!何にするか位決めておけ、おら、意味不明なことブツブツ言ってないで、5秒でオーダーせんか!」何をするにでも行列と待ち。アトラクションも飯も男子トイレまで行列だw
水は1ボトル3.75USD、入場料も税込みで約110USDと殺人的な値段。水はペットボトルを持ち込めば、給水所で補充すれば、3.75USDの水は買う必要がない。給水所の数は少なく、見かけたらすぐに補充するといいだろう。さもなくば、3.75USDの水が諸君らに買われるのを待っている。
ナショナルデーパレードを見て思う民の国家貢献
シンガポールの生活について、書こうと思って書き出したら、最初から最後まで悪意ある偏見に満ちた文が出来上がってしまった。偏見とはいえ、シンガポール政府発表の数値に基づく、シンガポール市民99.9%は該当する偏見だ。なので全くの嘘ではないw しかも、内容が結局、税金の話で、生活にほとんど触れていない。ごめんごめん、別に隠してるわけじゃないのだが、生活に関心がないから、どうしても内容が・・・。
自分はシンガポールに対する「愛」が無い、と「アジアに対する愛に満ちた後輩」と行動を供にすると改めて思いました。8月9日はシンガポールの独立記念日でしたが、シンガポールにかれこれ、8年も住んでいるのに、独立記念パレードなど、見に行ったこともありません。今年も8月9日は特に用事もなく暇なくせに「パレード見に行きましょう」と言われても、「う~ん、どーせ人混みだし・・・」と消極的。
「せっかく自分が住んでいる国なのだから、高い関心を持って、積極的な生活を」
という彼の主張も、もっともなので、初めてNational Dayのイベントを見に行きました。シティホールの駅は赤い服を着て、ちんたら歩く民に溢れ、私は居るだけで嫌悪感でいっぱいでしたが。国としての権威を示すための軍事パレードは、「俺の会社」、この「の」は所有格の「の」だからね、ロッキードマーチン製のF16がいっぱい飛ぶので、いささか機嫌が良くなりました。シンガポールは国家予算の歳出のうち、3割教育、3割不動産開発、3割が軍事費です。日本の国家予算と比べると鼻毛のような金額、ざっくり5兆円と思ってもらってよいです。なけなしの国家予算の3割を、俺の会社の製品の購入にあてていると思えば(実際には軍事費のうち、F16の購入代金はかなり少ないはずだがw)、シンガポールの納税者の皆さん、俺のためにどうもありがとう、これからも労働と納税にいそしんでくれたまえ。と思える。
しかしながら、パレードを見学している、赤いTシャツを着たシンガポールの民は、シンガポールの国家予算にはほとんど貢献していない。「シンガポールの世帯収入のメジアン(中央値)は月額7000SGD程度」である。「月収63万円か、けっこう良いじゃん」と思うかもしれないが、これには誤解しやすい単語が2つ含まれていて、1つは、中央値なので、平均値にすれば実は月収はもっと高い。2つ目は、「世帯収入」で、シンガポールは共働きが基本なので、個人収入に直すと、月収は半分の32万円程度になる。またボーナスはダブルペイ、ある月に2倍払う、というのが標準的だから年収=月収×13で、416万円(45,000SGD)ほどとなる。
年収45,000SGDの民の国家貢献、すなわち所得税だが、まず基礎控除が20,000SGD、配偶者控除が2000SGD、子供控除が一人につき4000SGD、給与所得者控除2000SGD、年金控除が8000SGD程度で、独身であっても、課税所得は15,000SGD、子供が二人居れば5,000SGDとなる。なので、独身者のグロス所得税額400SGD、子供二人世帯はなんと100SGD、しかも税額控除で半額なので、
所得税額の中央値は、独身者は200SGDと子供二人世帯は50SGDとなる。所得税率に直すとそれぞれ0.4%と0.11%だ。
しかも、所得控除は他にもあり、シンガポール人が対象になりそうなのは、両親控除で、この驚愕の所得税額より、さらに下がる。ふざけてるよなぁ・・・。シンガポール人400万人のうち、高めに見積もって6割が労働しているとして、100ドルの所得税を払っているとしたら、大体、約200億円。国家歳入の5兆円の1%にも満たない。な、コイツら税金納めてないって言っただろ?
ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 4/5~銀行再編
1998年には大和銀行から難題が持ち込まれた。しかし私は内心期待に胸を膨らませた。発端は大和銀行の救済だった。会長の巽さんのもとに大和の安倍川澄夫会長から「住友銀行の力を貸してもらえないか」という内々の打診があったのだ。大和銀行はニューヨーク支店のナンバー2がアメリカ国債の簿外取引を行って11億ドル(当時、1ドル87円換算で957億円)の損失を出す事件を起こしていた。この巨額損失を大和銀行は大蔵省には報告したもののアメリカの金融当局に報告しなかったため、大和は3億4000万ドルの罰金を支払いアメリカでの業務を撤退させられることが決まっていた。
> 大蔵省に報告して、現地でだんまりって馬鹿なのかね? FBIまで動いたんだよな。ちなみに大和銀行事件についても当ブログはちゃんと扱っていてw
2012.02.27 告白 元大和銀行NY支店2/2 ~トレーディング
2012.02.24 告白 元大和銀行NY支店1/2 ~米国の公務員
巽会長から話を聞いた私は「ただ力を貸すだけではなく、大蔵省の意向通り、どうせやるなら合併含みでやりましょう」ということで動き始めた。まず大和銀行がニューヨークからスムーズに撤退できるように手配し、ニューヨーク連邦銀行首脳が東京に来た折にはこの件を報告しておいた。当時、住友銀行の名は表に出ていないが、大和銀行のニューヨーク撤退を住友は縁の下で支えていたのだ。この時期、大和に限らず西の銀行は、近畿銀行、なにわ銀行、福徳銀行などどこも経営状態が非常に悪く、火薬庫とまで呼ばれていた。私も大蔵省の担当官に赤坂にある日銀の接待施設・氷川寮に呼ばれ「○○銀行はもう破綻している。西川さん、住友で大阪を何とかしてくださいよ」といわれたことがあるほどだ。なんとかしろといわれてもとてもではないが荷が重すぎる。そのたびに「私たちの力では及びませんよ」と断っていたのだが、大和銀行には信託兼営という魅力があった。
2002年5月、私はニューヨークにいた。ゴールドマン・サックス(GS)のヘンリー・ポールソン会長と面談するためだ。実はGSと住友銀行の関係は1986年から続いていた。当事住友銀行の国際部門は証券やM&Aなど企業金融に関わるインベストメント・バンキング業務を柱にして収益力の強化を図るのが急務だった。住友独自で人やノウハウ、組織を築き上げてインベストメント・バンキング業務を推進するには時間がかかりすぎる。また海外にも資本調達の窓口があったほうがいい。そんな折、ニューヨークの国際本部が「いいパートナーがいる」といって紹介してきたのがGSだった。GSは1869年に設立されたアメリカ最有力の投資銀行だ。住友銀行と企業風土や経営の行き方が似ているところもパートナーの条件として最良だった。住友銀行は1986年に議決権の無い有限責任出資者として4億2500万ドルを出資する契約を交わした。調印したのは小松康頭取とGSの当事の会長、ジョン・ワインバーグ氏だった。具体的には住友銀行が全額出資によりニューヨークに住友銀行キャピタル・マーケット(SBCM)を設立し、そのSBCMが住友銀行の代わりにGSに対して出資をする形をとった。残念ながら不良債権処理の原資を得るために2000年には住友銀行はGSの1200万株を売却して6億ドルを手にしたが、持ち株比率は3.6%にまで低下してしまった。
> う~ん、「時間を買う?企業風土が似てる?」という理由とか出資の仕方とか…ちょっとがっかり…。
2003年度から04年度を不良債権の集中処理機関とし、04年度末までに不良債権比率を半減することを強く求め、そのために資本不足に陥るのであれば、公的資金を投入することにしている点である。「半減」という不良債権処理の数値目標と公的資金投入を一体とした政策が打ち出されたのは、初めてのことであった。不良債権処理は文字通り待ったなしの状態となった。その結果、自己資本比率が8%を割ればBIS規制のルールに従って海外営業から撤退を強いられる。より深刻な資本不足となれば国有化が視野に入る。それだけは絶対に回避しなければならなかった。結果的に三井住友に限らず、大手の銀行グループは優先株(普通株式よりも配当や残余財産を優先的に受け取れる代わりに株主総会の議決権に制限がある株式)の発行や第三者割当などにより大幅な増資を行い、自己資本の増強に奔走した。三井住友は総額約5000億円だったが、みずほ銀行グループは約1兆1000億円の巨額に達し、東京三菱銀行グループは約3600億円、UFJグループは約3500億円という規模であったと記憶している。
GSからの資本調達を耳にしたJPモルガンからも増資に応じたいという申し出があった。GSよりも少し条件が良かった。しかし私はそれにはあまり期待しなかった。GSとは5月から協議を始めて、直接投資1500億円に加えて欧米のマーケットから3000億円余りを調達する話にまでこぎつけたのだ。それをあとからやってきて、もっと良い条件でやりますといっても、本当にできるのか。すでに資本調達前の2002年12月には株式移転により親会社である三井住友フィナンシャルグループを設立して持ち株会社制度を導入することになっており、資本調達は翌03年3月には完了していなければいけない。そうした一連のタイトなスケジュールの中で、いまさら増資先を変更したり、ふやしたりするような危ない橋は渡れないというのが私の結論だった。
しかし行内では、よく討議したほうが良いという声が次第に大きくなってきた。JPモルガンをもっとも強く推すのは奥正之副頭取だった。理由はGSに集中させずバランスをとるべきだというのである。余りに主張するのでGSとの打ち合わせのためにニューヨークに滞在していた奥副頭取とのテレビ会議で私は「では、もうやめようか」と持ちかけた。
「やめる必要は無いではないですか。少し待ってみたらいかがでしょうかと申し上げているだけです。
「何を言っているんだ。これだけの増資をまとめてやってくれるところがどこにあるんだ。何が問題なんだ」
「ですから分散したほうが良いと申し上げているのです」
「分散して何の効果がある?そうしたほうが金額が増えるのか」
「金額の問題ではありません。JPモルガンがせっかく言ってきているのですから可能性を探るべきではないかと」
今振り返れば、住友出身の奥さんがここまで強くJPモルガンを推すのは旧さくら側からのプッシュがあるためという面があり、GSがいけないというよりも旧さくらの顔を立てる意味合いもあった。奥さんがそうした事情を汲んでJPモルガンを推すのは、私だって分かる。条件が良いことも百も承知だ。しかしこのとき何より優先しなくてはならなかったのは、旧さくらのメンツではなく、期日までに約束どおりの資金を手に入れることだった。完全に信頼できたのはあの時点ではGSをおいて他になかった。結局、JPモルガンの申し出はお断りした。
そして当初の予定通り2003年1月15日GSが三井住友銀行に1500億円の直接投資を行うことが決まった。三井住友銀行はGSに対して優先配当を受けられる優先株を優先配当率4.5%で発行する。
2回目の増資として3450億円の優先株発行をGSの主幹事でお願いした。海外の投資家にこれを販売してもらって、海外マーケットから資金調達するのだ。実はこの3450億円という数字も二度にわたって増やしてもらった結果だった。当初の金額はすでに触れたように3000億円弱だったが、もう少し上積みしてもらう必要があり、最後の交渉は深夜、テレビによる最終会議までずれ込んだ。GSの持田昌則日本法人社長が携帯電話を持ち、会議室の外の廊下を行ったり来たりしながらポールソン会長と直接協議する。「SMBCはいくらほしいんだ」「あと500億ほどです、西川さんがそういっているのですから、やりましょう」そんなやり取りが交わされているのを壁越しに聞きながら私は会議室でじっと待つ。
> コラー、三井住友の優先株をこの説明で終わらせるな~!転換価格修正条項付、国内初、今で言うMoving Strike型の超大型増資の歴史がここに幕を開けたのだ。JPモルガンがどうのというより、高い資本コストのファイナンスではなかったのか、GSに対する利益供与の可能性の否定をキチンとして欲しい。ただ逆に、対応が遅れたみずほは3月末に1兆円もの優先株を発行したことを思えば、迅速に対応し、発行コストを抑えたという自己弁護の材料にして欲しかった。
住友銀行の法人格消滅
増資の協議と並行して決断したのが、旧さくら銀行の子会社だった参加の第二地銀、わかしお銀行を存続会社とする逆さ合併だ。2002年の12月に発表し、正式に合併したのは03年3月17日のことだ。わかしお銀行は、経営破綻した第二地方銀行の太平洋銀行の営業を引き継いで1996年に設立された、いわゆる受け皿銀行だ。ここと合併して三井住友銀行を消滅会社にすれば、三井住友銀行の資本準備金を取り崩すことができる。その額がおよそ2兆円あった。これを不良債権処理の引当に使うのが狙いだった。存続会社の事業規模のほうが小さいこの逆さ合併はは、たしかに当事マスコミが書きたてたように奇策であるかもしれない。平成創業のわかしお銀行の法人格を残すことで、明治28年創業の歴史と伝統のある住友銀行の法人格が消滅してしまったのだ。しかもこの手法は一度きりしか使えない。銀行が生き残るための”切り札”であり、文字通り名より実を取るやり方であった。
> 現在のシャープと同様、いやシャープ以上にひどいやり方である。三井住友ここまでやるのかと驚愕の奇策でしたね、私はよく覚えています。マスコミが書きたてた? 瞬間的にこの逆さ合併は無かったことになっていたような・・・。三井住友銀行はわかしお銀行なんてしつこく言ってるのは俺くらい?w
皇族に嫁いだ女性たち 3/4~華族から平民へ
夫と実子を亡くした北白川宮能久親王妃富子
能久親王は戊辰戦争において輪王寺宮公現親王と称し、旧幕府側に担がれたことがある。結局敗北し、以後、屈折した生涯を送った。維新後、能久王となって伏見宮家に復するが1870年にベルリンに留学し、ドイツ貴族の娘と婚約する騒ぎまで起こす。これも叶わず帰国し、陸軍軍人として日清戦争に従軍、講和後に台湾接収に出征する。しかし、悪天候の悪路などもあってマラリアに感染、軍医は静養を進言したが、親王はこれを聞かずさらに進軍し台南を占領するも、明治28年10月に病死した。そして大正12年(1923年)、実子の成久王をパリの自動車事故で亡くしてしまうのである。成久王37歳、富子大妃62歳であった。
明治19年10月、小松宮彰仁親王が、およそ1年の予定で軍事視察のため頼子妃とともに欧州に派遣され、アメリカを経て、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、イタリア諸国を訪問した。これが近代皇族の妃はじめての洋行であった。しかし、この妃殿下の海外での行状は明治天皇の顰蹙を買う。西洋文明に眩惑されて宝石や衣類を漁りまくったからである。このため、明治22年に有栖川宮威仁親王が慰子妃を同伴して、訪欧の旅に出ようと許可を申請した時、明治天皇は皇族妃の渡航に首肯せず、有栖川宮夫妻は自費で出港することとなった。慰子妃の実家で資産家の加賀前田家が旅費を出し、前田利嗣侯爵と朗子夫人も同行したのである。頼子妃が悪しき前例を残してしまった結果であった。明治42年、梨本宮伊都子が単身で欧州に向かう。資金は宮内省から5万円、実家の鍋島家から3万円、梨本宮家から2万円が提供された。長い船旅を経て、ようやく3月にフランスに着いた伊都子は「いなかもの」のように西洋文明に驚いてばかりいた。「はじめて欧州に足を踏み入れた嬉しさ。キョロキョロしてをる」「アーーこれが巴里であるかと目をパチパチしてながめる」などと旅の日記に書いている。伊都子がパリで最初にしたことは、デパートめぐりと買い物であった。日本では何でもあるデパートは三越だけであったから、巴里にきてみるとルーブル・ボンマルシェー等、大きなもので、毎日の様にかよひ、色々買い物する。又、仕立屋はレッドフェルムがいきな上等の仕立屋で、コスチュームを誂へる。又、ワレス・ウォルト等にも仕立物をたのむ。パレーロワイヤルといふ所は中店の様な店がならんでをる所で、昔から名高いと見え、巴里に行った人々はよくここのはなしをしてをったから、一度みて置度、見物に行く。なるほど、ほしいものばかりで、ハンカチ・指輪など買ってかへる。
加賀前田家、鍋島家のお嬢様でも民なのか…。
アメリカ・フロリダに行ってきました 1/4~アナ雪と微分方程式
2年前・・・
「アナと雪の女王のDVDを買ってもらった」
「ああ、そう。じゃあ、最初は日本語で見て、次に英語の日本語字幕で見て、内容覚えたら字幕を消してみると良い。」
3ヶ月前
「今でもアナと雪の女王が好きだ」
「おお、随分、持つねぇ。だいぶ古いだろう?英語で見れるようになったかな?」
「当然、だって声が違うから、英語で見ないと駄目でしょ」
「そうかね、英語で理解できるということは、アメリカのディズニーランドでも行く?」
「アナと雪」も追求すれば深い。アンデルセンへの回帰という文学的側面、ディズニー音楽というミュージカルの要素もある。ただ、私が誘導したいのはコンピューターグラフィックス技術だ。氷の透明感は、光の入射角と反射角を入力し、コンピューター上で実際に光を当てることで、リアルな質感が実現することまでは、前から知っていた。それにしても、私がCGを語るのはあまりに薄っぺらく自信が無いので、後ろ盾として、このブログの管理者であるut氏、ゲームクリエイターの先輩などに、色々聞いていたのだが、今回、新たにシンガポールで、グラフィックスの研究をしている学者先生まで見つけてしまった。昔からだが、俺も学者の後ろ盾大好きだねぇw 先生によると「アナ雪の雪は、最新鋭のテクノロジーを駆使しており、実際の粒子レベルの運動を微分方程式で制御している。」らしい。それが載っているのが、グラフィック界の権威であるSiggraphのMPM(material point method)論文だ。
画像や微分方程式も載っているので、英語部分をあまり真面目に読まなくても、論文の骨子は理解できる。またYoutubeの動画もSiggraphが義務付けているようで、動画まで見ることができてしまう。論文内では10^7個の粒子を使った動画の開発なのだが、「アナ雪」本番ではもっとカネをかけて、数が多いのだろう。CGの学者の先生方は「アナとエルサ」ではなく、「雪」を見るために映画を見るそうだ。MPM論文の発表が2013年7月、「アナ雪」の公開が2013年11月。そして、MPM論文のすべての画像に○C Disneyと書いてある。総資産100兆円のディズニーがお抱え学者を擁して、2013年当初、最新の論文をフロントランニングで入手した上での映画の開発だったことが伺える。
「お前らと話をする時は常に、大学レベルの数学にまで通ずることを意識しているが、今回の『アナ雪』は大学レベルを超えている。俺が大学で勉強したのは100年前の学問だが、このMPM論文は2013年、ほぼ最新鋭の研究と言えよう。例えば、この微分方程式 ρDv/Dt = ∇ · σ + ρg が雪の挙動を示していて、全体を密度ρで割れば、右辺第1項の抵抗に対して1/ρがかかる。すなわち、軽いものほど、重力の影響が弱くなり、ふわーっと落ちるということを意味している。」
「エルサとアナは好きだけど、コンピューターグラフィックス、あんま興味ないんだけど・・・」
なにーーーーーーーー! ちょっとハリキリすぎたか? 数学で俺を越えるには少なくとも数年はかかるが、CGの世界ならば、3日も勉強すれば、俺を超える。その際は、俺の後ろ盾である・・・、まで用意していたのに! ララポート富士見にあるチームラボの見学も御破算だ。「子供にCGを語るのはちょっと難しいのではないか」というut氏の懸念通りになってしまった。
ヴェニスの商人の資本論 3/3~「見えざる手」を「見る」
スミスの言う「見えざる手」とは、市場における価格の需給調整作用のことであるのは言うまでもない。スミスの文章を現代的に言い換えるならば、市場に参加している売り手も書いても市場で成立している価格を与件としながら、自分の利益のみを考慮して商品の供給量あるいは需要量を決定している限り、価格の需給調整作用によって市場は自動的に需給を等しくする均衡状態に到達し、しかもその均衡状態においては経済全体の資源の効率的配分が達成されていると言うのである。実際、「見えざる手」の働きの発見こそ、経済学を経済学として成立させたのであり、その後の経済学の「発展」と言われているものの多くの部分は、この「見えざる手」の働きに関する分析を、あるいは一般化し、あるいは精緻化することにあったといっても言い過ぎではなかろう。
「不均衡動学」の試みは、「見えざる手」を「見る」ことから出発する。「見えざる手」という比喩によって描かれているのは市場における価格の需給調整機構である。しかし一体価格そのものはどのように形成されるのであろうか。いわゆる需給の法則は超過需要があれば価格が上昇し、超過供給があれば価格が下落すると主張している。しかし、こういう価格の動きは一体誰の行動の結果なのであろうか。実際完全競争といわれる伝統的な仮定の下では、売り手も買い手も価格を与件として行動しているから、結局市場には価格を上下させる人間は誰もいないと言う逆説が生じる。しかし、市場で価格が実際に上下するならばそれは市場において実際に取引に携わっている誰かが上下させているのである。市場は従って完全競争的ではありえず、不完全競争的な様相を帯びざるを得ない。そして、ひとたび不完全競争の世界に入ると、経済の中で市場行動を行っている人々の間の相互連関は、より密接にそしてより複雑になる。我々の生きている貨幣経済では、供給は自ら需要を作り出すというセイの法則は成立しえず、総需要と総供給は常に乖離する可能性を持っている。いや、市場経済の発展そのものが、貨幣が可能とする売りと買いの時間的、空間的ずれによって可能となったのである。したがって、もはや「見えざる手」は働いていない。いや、そもそもはじめから「見えざる手」など存在していなかったのだ。逆に、伸縮的な価格および賃金の下では、貨幣経済は絶えず累積的デフレあるいはインフレの危機にさらされた不安定な性格を持っているのである。
ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 3/5~住専と赤字決算
1994年になると、株価や不動産価格が下がる一方で、住専の危機が社会問題化していた。そんな切迫した状況になっても益出しと買戻しを繰り返して保有株式の簿価を挙げるのはリスクが大きすぎた。来年も再来年も株価が下がり続ければ、今度は逆に株式評価損を計上することになり、これまでせっかく益出しをしてきたのに元の木阿弥にもどってしまう。こんなことを続けていたらいつか必ず大変なことになると私は考えた。実際この株式評価損は当時だけでなく2000年代に入っても銀行や一般企業の自己資本を毀損して経営を苦しめることになった。もちろん赤字分を株式の益出しで埋めなければ自己資本は食われる。しかし保有株式の簿価は変わらずにすむから、今後の株価下落による評価損増大リスクを避けることができる。将来の株価下落リスクに耐えられる。そこで私はこの際、益出しをやめて、赤字決算するしかない判断した。今でこそ銀行の赤字決算は珍しいことではないが、当時は市場に与える影響がどれほどのものになるのか想像もできず、タブー中のタブーだった。過去の例を見ても日本の銀行が赤字決算をしたのは1946年、終戦直後の混乱期の一度だけで80年頃の「ロクイチ国債問題」のときですら赤字決算は出していなかったのだ。
> 赤字決算禁止の習慣。すごすぎ。
ロクイチの由来となる6.1%の10年物国債は、今から見れば高利回りに感じると思うが、当時としては極めて低金利であり、それはつまり高価格の国債を意味する。大蔵省は大手銀行団を統合したいわゆるシンジケート団にこれを引き受けさせたため、住友銀行を含め、大手銀行のすべてが高い値段の国債を大量に保有することになった。そこに第2次オイルショックと金融引締めが襲いかかり、ロクイチ国債は暴落し、大手銀行のすべてが巨大な含み損を抱えてしまった。額面100円の国債の価格が74円まで下落したのだから、銀行にとっては大きな痛手だ。その頃の国債は時価評価で決算するのが常であったが、この時ばかりは大蔵省も取得原価で評価することを認めると通達してきた。半強制的に国債を引き受けさせたという負い目があったためだろう。しかし、住友銀行はちょっとへそ曲がりなところがあり、「今まで時価評価でやってきたのにちょっと損が出たからといっていまさら取得原価で評価できるか」ということで、それまでと同様に時価評価していた。このときでさえ、住友銀行は赤字決算をせず株式を売って損失を埋めていたのだ。
> なんか国際会計基準とか、国際金融業務とかと縁遠い世界だなぁ~。中国の銀行もこんな感じなんだろうなぁ…。
1995年の正月明け早々、私は巽会長と森川敏雄頭取のもとに向かい、「こんな状態を続けているとダメージが大きくなってしまいます。思い切って赤字決算しましょう」と進言した。すると、お二人とも即座に了承してくれた。頭取と会長、企画担当者と専務の私の4人だけで極秘に会議を行い、1月17日に業績修正の発表をしようと決まった。ところが、その日の早朝、阪神・淡路大震災が起きた。19,000円台になんとか足をかけていた株価は震災の影響で見る見る下落していき、17,000円台に入ってしまった。「こんなときに銀行が赤字決算を出したらどんなことになるか?」 それでなくても滅多に無い銀行の赤字の発表だ。市場にこれ以上余計な心理的な影響を及ぼすことはすべきではないと判断した私たちは、その日の発表を見合わせることにした。そして10日後の27日、株式市場が多少落ち着いたところで、3月期決算の業績予想の修正を発表し、都銀初の3354億円の赤字(当初予想は600億円の黒字)になると表明した。赤字決算の結果として発生する当期の未処理損失については準備金の取り崩しで対応して来期に繰り越さない方針も示した。具体的には関連会社とイトマン関連の不良債権、大蔵省の意向を受けて都市銀行など民間金融機関162社が出資して設立した共同債権買取機構への不良債権の売却損、さらに債権償却特別勘定への引当金繰入などで総額8265億円にのぼる不良債権を償却する計画だ。そしてさらに予想外のことが起きた。私たちが赤字決算を出した途端、投資家が銀行株を買い始めたのだ。住友だけでなく他行まで軒並み買われ、金融関連株が高騰を始めたのである。マーケットは赤字決算によって不良債権処理が進むとプラスに捉えてくれた。ところが私自身は値上がりする株価を横目で見ながら、内心「しまった!」と思っていた。発表を見合わせた10日間で少しでもマーケットへの影響を少なくしようと、有税償却を減らし、益出しもして赤字額をかなり削っていたからだ。発表した業績予想の修正では赤字幅は3300億円であるけれども、実のところは5000億円程度の赤字があったのである。できればその額で業績予想を修正したかった。
> 西川さんのご英断は理解できるが、即時開示義務違反、5000億円の赤字と認識していながらも3300億円発表とは粉飾ですよ…。市場健全化とは程遠いな。
住専(住宅金融専門会社)は、1970年代に住宅ローン需要が伸び続ける一方で、銀行は融資の審査が厳しく個人向けローンのノウハウが無かったことに対応した大蔵省の強い主導で設立されたノンバンクだ。民間銀行は出資を求められ、1971年から79年までに8つの住専が設立された。住専各社は当初こそ個人向け住宅ローンを扱っていたが、バブル時代になって銀行が個人向け住宅ローンに進出してきたため、新たにニーズが強かった法人向け不動産担保融資にのめり込んでいった。これらが大量に焦げ付き、1995年8月に行われた大蔵省の調査で、住専の不良債権額は後述する農林系1社を除き、全体で6兆4000億円にものぼるとされた。融資された額が突出して多い末野興産の末野謙一氏、桃源社の佐々木吉之助氏といった「住専借金王」たちがマスコミで話題になったもこの頃だ。政府内で問題になったのは政府系金融機関である農林中央金庫、および各県の信用農業組合連合会、全国共済農業協同組合連合会のいわゆる「農林系金融機関」が47の信農連と農林中金の出資によって系列に共同住宅ローンを設立したのをはじめ、住専に巨額の貸し込みを行っていたことだ。それらが損失となり、5300億円とされた農林系の負担能力を超える部分を誰が負担するかを巡って農林系と民間金融機関との間で激しい対立が起き、世論を巻き込んでの大騒動になった。その結果連立与党プロジェクトチームは、農林系を除く7住専の損失額6兆4000億円の穴埋めのために、住専各社に出資した住友銀行を含む、いわゆる「母体行」に合計で3兆5000億円、一般行に1兆7000億円の債権放棄を求め、農林系の負担能力5300億円を超える6850億円については公的資金注入で賄うことで議論をまとめ、12月に村山内閣が閣議決定した。当時大蔵省は危機感を持って機敏に動いていた。住専国会が終わるとすぐに発足間もない橋本龍太郎内閣のもとで不良債権処理の障害の除去に本腰を入れ始め、翌97年6月に不良債権償却証明制度を廃止し、銀行による自己査定に基づく債権処理が導入された。債権を「正常先」「要注意先」「破綻懸念先」「破綻先」の4つに分け、区分ごとに引当金を積んで、繰延税金資産として決算上の税負担をなくすことができるようになったのだ。これは非常にありがたい制度変更であった。もちろん、日本では税務当局の意向が強く、銀行に債権償却を勝手にやらせることには抵抗がある。
> 有限責任の原則もへったくれもねーなあ。
住管機構の主張は住専の融資が焦げ付いたのは母体行の1つである住友銀行が質の悪い融資先を紹介したからだという。紹介責任があるはずだ、というのがあちらの言い分だった。しかしこれはずいぶん無茶な話である。母体行とは、住専に出資した銀行のことをいう。銀行の出資比率は会社法の規定で5%以内と決められていた。いわゆる5%ルールだ。その先駆的存在が、1971年6月に設立された「日本住宅金融」で、三和銀行をはじめとする金融機関が出資している。社長には大蔵省OBの庭山慶一郎氏が就任した。住友銀行が出資したのは、その次の同年9月に設立された「住宅ローンサービス」だった。住友以外に第一勧業、富士、三菱や長信銀、信託銀行など大手金融機関が大株主にずらりと顔を揃えた。その後も、銀行、証券会社、生保などの金融機関が、1979年までに6つの住専会社を相次いで設立したわけだ。ところが住専各社は店舗網が十分ではない。したがってバブル時代に住専がのめりこんだ法人向け不動産担保融資の案件を銀行側から紹介しなければいけなかったのだ。だから、住管機構の主張を銀行側から見れば、大蔵省主導で出資させられ、融資先まで紹介したのに、焦げ付いた筋の悪い案件を紹介した銀行のせいだ、といわれていることになる。ところが住専にはすでに公的資金が注入され、世論は銀行側にとても厳しくなっていた。そこに拍車をかけたのが住管機構社長の中坊公平弁護士とマスコミの存在だった。国民の税金を取り戻そうと奮闘する中坊さんと、それを応援するマスコミの報道によって、住友銀行はすっかり悪役になってしまった。しかし、問題は何の審査もしないで融資をした住専にある。結局、1999年住友が30億円の損害賠償に応じて和解することで決着がついた。
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皇族に嫁いだ女性たち 2/4~女王の婚家 女王の嫁ぎ先
「維新以後の女王」71人の女王すべてが結婚したわけではない。夭折・早世して適齢期までその生涯を全うできなかった女王が10人おり、また出家したり結婚をしなかった女王も居るし、現在、結婚前の女王も居る。こうした未婚の女王を除くと結婚したのは54人となる。54人の出身宮家の内訳は伏見宮11人、有栖川宮3人、閑院宮3人、久邇宮15人、山階宮1人、北白川宮8人、梨本宮2人、賀陽宮3人、竹田宮3人、朝香宮4人、東久邇宮1人である。皇后になったのは久邇宮良子女王1人である。また梨本宮方子女王は朝鮮王族の李琨妃となっている。皇族妃となったのは、伏見宮知子(久邇宮朝融王妃)、有栖川宮利子(伏見宮貞愛親王妃)、賀陽宮佐紀子(山階宮武彦王妃)の3女王であった。これらの5人は結婚後も皇族(王族は準皇族的存在)としての地位と身分を得ていたのであった。皇族に次ぐ華族家に嫁いだ女王は42人、公爵家が7人、侯爵家が8人、伯爵家が15人、子爵家が10人、男爵家が2人、そして爵位がない家に嫁いだ女王は7人であった。
特徴的なのは爵位の無い家に嫁いだ7人の女王である。みな1929年~1945年にかけて生まれており、結婚したのは新典範制定以降の者たちばかりである。いわば戦後の新時代に結婚した女王たちであり、かつての身分関係による婚姻制度から自由になっていたことがうかがえる。これら7人の女王の結婚相手のうち歴史的な著名人は、伏見光子が嫁いだ尾崎行良で、「憲政の神様」と称された尾崎行雄の孫であり、日本航空取締役であった。とはいえ、名門ではあるが勲功華族でもなく、むしろ大衆勢力側の代表的な人物の家柄であった。そのほか、伏見章子はサッポロビール勤務の草刈広、久邇英子は本州製紙会長の三男で木下経営事務所の木下雄三、竹田素子は三友食品取締役の佐藤博、竹田紀子はレイケムカンパニーの渡辺宣彦、朝香美乃子は日新製糖常務の坂本善春と結婚した。
女王の離婚
閑院宮華子
伏見宮貴子、閑院宮華子、久邇宮正子、賀陽宮美智子、東久邇宮文子の5女王が離婚を経験している。旧典範時代に離婚したのは伏見宮貴子である。貴子女王は松平直応伯爵と1877年に離婚後、同じ諸侯家の松平忠敬子爵と再婚している。美智子は旧典節時代の1943年に徳大寺実厚公爵の二男である斉定の夫人となるが1945年9月に李琨。その後、皇籍離脱で賀陽美智子となり、学習院大学フランス文学科を卒業、財団法人国際教育情報センター理事、菊医会名誉会長、煎茶道「永晈流」副総裁などを務めている。なかでも閑院宮華子の離婚は当時の世上の話題となり、かなり醜聞的なものであった。華子は賜姓華族の華頂博信侯爵家に嫁いでいたが1951年に離婚する。華子は満42歳、博信は46歳であった。戦前には海軍軍人であった博信との間に2男1女をもうけていたが、戦後になって読書好きの学者肌で養鶏場などを作ったりする博信と、社交好きでダンス教授などをする華子との関係に亀裂が生じたのであった。華子には工業クラブ嘱託の戸田豊太郎という愛人がおり、華子の実兄の閑院宮春仁王がこれに怒り、戸田との再婚を封じるために華子を軟禁して教会などに通わせた。ところが純仁夫人の直子(一条実輝公爵4女、閑院宮春仁王妃)が、純仁に同性愛癖があると暴露し1966年に離婚した。この間、華子は戸田と結ばれ、博信も再婚したのであった。
お釈迦さまの脳科学 4/4~日本で浄土教は念仏を唱える宗教に
すべてのお経は漢語訳されたときに道教や儒教の思想が混入しています。特に奈良時代や平安時代に中国から輸入された浄土教には、その傾向が強く表れています。日本で浄土教と言うと、鎌倉時代に成立した法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗を思い浮かべると思いますが、すでに飛鳥・奈良時代には入ってきているのです。天台宗にも、重要視されていなかっただけで浄土信仰はありました。ただし一般民数への浄土教が流行るのは鎌倉時代以降です。中国から来た浄土信仰では、浄土へ行くために臨終の床に阿弥陀如来の木像を置いて、赤い糸で手首をつなぐという儀式がありました。ほとんど道教の思想なのですが、赤い糸で阿弥陀如来の像と結ばれていると阿弥陀様と縁ができたので極楽浄土へ行けますよ、という理屈です。当時の仏像というのは、多くが宋から輸入されており非常に高価なものです。臨終の際に木像が必要となると、ごく一部の王侯貴族しか極楽浄土へは行けないことになってしまいます。浄土宗を開いた法然は、この矛盾に気が付きます。法然は「観無量寿経疏」を根拠に仏の名を唱えればよいと解釈しました。そして「誰でも南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土へ往生できますよ」と説き、日本で浄土教は大衆化したのです。
日本では寺が差別を進めた
日本に儒教が伝来するのは仏教伝来の少し前、5世紀あたりです。その後、日本は儒教は純粋な学問として重んじられるようになります。儒教は、先祖崇拝をベースとした差別的な思想ですが、江戸時代に差別的な「穢れ」思想を流行らせたのは、言いにくいことですが仏教だったのです。その象徴のひとつが「差別戒名」です。当時は被差別部落の人が亡くなったとき「寺が穢れる」という理由で墓にも入れないことがありました。墓を作ったとしても戒名は授けない。付ける場合には、「蓄男」「蓄女」といったように一般に戒名には用いない文字を使い、人目で被差別部落の人の墓だとわかるようにしていたのです。「穢」の文字そのものが戒名として付けられていたこともあります。しかも差別戒名は戦後になっても続けられていたことが、最近の調査によって明らかになっています。
なぜ、こうした差別が社会に根付いてしまうのでしょうか。穢れの思想は、「うつる」という概念から始まっています。「病気がうつる」「災いがうつる」というように、目に見えないものが自分に降りかかってくるイメージです。恐怖感を伴う情動は、非常に社会的洗脳に利用しやすいのです。そして、動物の死体を扱う仕事を「穢れ」と見ることから差別が始まります。もともと、死体が腐っていく様を見て汚いと思う感情から、それが「うつる」という常道を生じさせたのでしょう。衛生状態が悪く、病原菌に感染するというような科学的な根拠があるのであればまだ許せますが、人に対する差別感情は理由が異なります。衛星について全く知識のない、大昔の人々ならまだしも、現代人が「穢れ」を理由に差別することは絶対にあってはなりません。いずれにせよ、穢れの思想は仏教とは相容れない論理であり、釈迦はこうした差別を徹底的に否定していました。
『般若心経』を添削
般若心経には形式だけでなく、言っている内容にも問題があります。最も顕著なのは、「色即是空、空即是色」という有名な一節です。これは中国語の倒置法で、色と空がまったく同じであると強調されているのです。「色」とは物質(有)のことです。物質に対応する概念は「無」です。「空」とは既に説明したとおり、有と無の両方を含む上位概念です。ですから、「色即是空」は、「物質とは空である」という意味になり間違いはありません。しかし、その次に続く「空即是色」は「空とは物質である」という意味なり問題があります。「犬は動物です」とは言えますが「動物は犬です」は間違いなのと同じです。
すべては「縁」によって「起」こる
これまで釈迦は神を否定したと何度も書いてきました。一神教で考えられている神とは、「それだけで絶対的なもの」です。カントの言葉で言う「アプリオリな存在」です。バラモン教のブラフマン(神)、道教のタオ(道)もアプリオリだと考えれていたものです。カントの時代には、時間と空間はアプリオリだと考えられていました。しかし、相対論以降、アプリオリなものはなくなりました。アプリオリなものは何もないということは、釈迦は「縁起」という概念をつかって説明しました。縁起とは「縁」によって「起」こると書きますが、それ単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っているという思想です。川の水で考えてみましょう。川からコップで水をすくったとします。この水が存在するためには、上流から流れてくる水も下流へと流れていった水も必要でした。コップの水だけではここに存在しえません。コップいっぱいの水がそこに存在するために宇宙がすべて必要です。これが縁起です。それを釈迦は「生じることもなく、滅することもない」と言っています。コップの水は無から生じたわけでもないし、消滅してしまうこともありません。水をコップから流しても水を構成する水素や酸素といった原子が消えてなくなることはないからです。
ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 2/5~磯田一郎の時代
イトマン事件については既に当ブログで取り上げているのでこちら↓
2011.01.11 http://www.ichizoku.net/2011/01/kaiga.html”>イトマン・住銀事件 ~イトマンをめぐる様々な疑惑
2011.01.06 イトマン・住銀事件 ~主役のお二人
磯田一郎
イトマンがのめり込んでいたのは不動産だけではない。数々の美術品を買い込んでいた。モディリアーニの絵画を16億円で購入しているほか、加山又造や平山郁夫、佐伯祐三など巨匠の絵を気前よく億単位で何点も買っていた。関西の闇の紳士、許永中氏の関連会社3社から絵画・骨董品を総額676億円も買い取ったことが後に判明している。私はこのとき常務企画部長の任に就いていたが、だんだんわかってきた事態の中でも特に困ったことだと思ったのは、こうした絵画取引に磯田さんの長女である磯田園子さんが勤務していたセゾングループの宝飾販売会社でピサという会社が間に入っていたことだ。今まで私を含めて誰も住友銀行関係者は語ってこなかったことがある。この機会にあえて申し上げよう。イトマン事件は磯田さんが長女の園子さんをことのほか可愛がったために泥沼化したのだと私は思う。磯田さんの溺愛ぶりを示すこんなことを耳にしたことがあった。後に結婚することになるアパレル会社社長の黒川洋氏と磯田園子さんがロサンゼルスに駆け落ちした。それを認めるわけにいかず困っていた磯田さんは、秘書を派遣して2人を連れ戻させたのだ。磯田さんの秘書は園子さんに振り回されて本当に苦労したようだ。そういう磯田さんに父親として娘の事業を後押ししたい気持ちが無かったわけがない。磯田さんが溺愛していることを知って、イトマンの川村社長も伊藤常務も彼女の面倒をよく見ていたようだ。人間としてあるいはバンカーとしての磯田さんは素晴らしいと思う。しかし長女の存在が磯田さんの判断を決定的に狂わせた。平和相銀を手に入れるときに大活躍した河村社長に引導を渡し自分の手でクビを切ることができなかった。河村社長が伊藤寿永光氏を追放するどころか常務にすることを阻止しなかった。住友銀行の誰もが河村社長を辞任させないとイトマン問題は解決しないと思っていたし、伊藤氏や許氏が闇世界とつながりがあることはこの時点では分かっていたはずにもかかわらず。だから私はこの問題の始末をつけるには磯田会長の退任が不可欠だと考えた。
> あちゃー、結局、頭取のご家族問題で3000億円溶かしちゃったか
ヴェニスの商人の資本論 2/3~中央銀行券発行は富の形成
英語のどの受験参考書にも例文として載っているように、”The proof of the pudding is in the eating” すなわち、プディングであることの証明はそれを食べてみることである。だが、分業によって作る人と食べる人とが分離してしまっている資本主義社会においては、プディングは普通お金で買わなければ食べられない。プディングがプディングであることの証明、いや、プディングがおいしいプディングであることの証明はお金と交換にしかえられない。たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを買おうかと考えているとき、あるいは喫茶店でプディングを注文しようかどうか考えているとき、人はプディングそのものを比較しているのではない。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの中のプディングの外見であり、メニューの中のプディングの写真であり、さらには新聞・雑誌・ラジオ・テレビ等におけるプディングのコマーシャルである。これはいずれも広い意味でプディングの「広告」にほかならない。すなわち、資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じて初めて商品を比較することができるのである。広告とは常に商品についての広告であり、その特徴や他の商品との際について広告しているように見える。だが、人が例えばある洋菓子店のウィンドウのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、あるいはある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社の寄りも迫力に乏しいと思うとき、それは広告されているプディング同士の差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に「広告の巨大なる集合」のなかにおける広告それ自体の間の差異を問題にしているのである。広告と広告との間の差異-それは、広告が本来媒介すべき商品と商品の間の際に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。広告が広告であることから生まれるこの過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業の広告活動によって立つ基盤なのである。
皇族に嫁いだ女性たち 1/4~皇室典範改正
男系男子による皇位継承問題は、過去に小泉純一郎内閣において皇室典範改正の動きがあり、男女に関わらず出生順位により皇位継承者を決め、結果として女系天皇の存在を容認する可能性が高まった。多くの国民も時代の女帝として推定される敬宮愛子内親王への共感から、こうした典範改正を期待した。しかし、一方には男系男子へのこだわりがあり、神武天皇以外の男系子孫であることが行為の証であるとして譲歩することがなかった。その後も典範改正の動きは秘密裏に進んでいると聞くが、その改正案の一つは、女系を排除するために、天皇家の男系を保持しているとされる旧皇族を復活させようとするものであるとも言われる。こうした旧皇族復活論には反対意見も多く、その理由の
第一は、男系と言っても遠い室町時代までも遡るためである。明治期に皇族として存在してはいたがその多くは政治的理由によるものであり、現在の皇室とは血統上はかけ離れすぎた存在で、かつその数の多さに減らしていくことが当時からの課題であったからである。
第二は、旧皇族家には皇籍離脱以来、現皇室に対する少なからぬ複雑な感情があり、そのことは皇后美智子以後の民間出身皇族妃の出現で増幅され、男系問題にかこつけて現皇室の皇統を変えようという意図が見え隠れするからである。
第三は実際に旧皇族家を復活するにしてもどの家が該当するかは難しい。
第四に旧皇族を復活してもそこに男子が生まれなければ意味がないことである。現皇室は秋篠宮家はじめ常陸、秩父、高松、寛仁親王、桂、高円の八宮家がある。しかし、平成18年2006年悠仁親王が誕生するまで男子は生まれなかったのである。
変遷する皇族の定義
古代から現代までの皇族の定義や範囲の法的な変遷を考えると、大宝元年(701年)の大宝令の継嗣令、明治22年の旧典範、昭和22年の新典範が大きな基準となっていたと言える。継嗣令以前は、皇族の呼称やこれを明確に定義する法令はなく、「天皇の後胤」という漠然とした範囲で把握されていたと考えられる。皇族を示す呼称も何世までを皇族とするかの明確な規定もなかったのである。継嗣令により「およそ天皇の兄弟、皇子は、みな親王となす。女帝の子もまた同じ。それ以外はいずれも諸王となす。新王より5世は、王の名を得ても皇親ではない」とはじめて皇族の概念が定められ、皇族は皇親と称されたのであった。
明治維新を迎えると、慶応4年(1868年)に、継嗣令に基づき、改めて皇兄弟と皇子を親王、それ以外を諸王とし、5世王は王名を称するが皇族の範囲に入らないと定め、大宝令制定以後、長年にわたり混乱してきた皇族の定義を再調整したのであった。そして明治22年の旧典範制定で近代法治国家に適合した近代皇族が誕生するのであるが幕末維新期における親王らの功績もあって四親王家や還俗した皇族などに設けた制限や特例が、かならずしも旧典範の条文と一致せず、いくつかの矛盾と問題を残すこととなった。その典型的な例が、旧典範にある「五世」の概念の問題である。旧典範は「五世」までを親王・内親王、「五世以下」を王、女王としたのであるが、この「五世」とは実系であり、法規上は明治天皇あるいはその先代である孝明天皇(121代)、仁孝天皇(120代)の実系でなければならなくなる。
お釈迦さまの脳科学 3/4~大乗仏教には大天才が生まれた
当時の口語であるパーリ語で経を残した上座部仏教は正しいと言いました。しかし、上座部が忘れている事があります。それは釈迦は「誰にでも理解できるよう、そのときの言葉で語り継ぎなさい」という意味で弟子に指示したということです。今、パーリ語を日常の言葉として使用している人はいません。ですから、パーリ語のお経で布教活動をしている上座部は、釈迦の言いつけを半分しか守っていないことになります。もちろん、お経をはじめからサンスクリット語で書いてしまった大乗は最初から失格です。
しかし大乗仏教は釈迦のオリジナルの教えから逸脱した、もしくは反する教義を取り入れてしまった反面、釈迦の教えをより理解し発展させた大天才が登場したのです。それが、釈迦の縁起説を「空」という概念で説明したナーガールジュナ(龍樹・150年~250年ごろ)であり、チベット仏教を完成させたツォンカパ(1357年~1419年)です。ツォンカパはダライ・ラマが所属するゲルク派の開祖でもあります。ナーガールジュナは正確な伝記が残されていないため、実在の人物かどうかわかりませんが、少なくとも彼の著作とされる『中論』を読む限り、釈迦の思想を一つの形で表すことに成功しています。ただ、ナーガールジュナの他の著作には、「浄土」といった「空」の概念とは矛盾した記述も多く、すべてを評価できるわけではありません。もしかするとナーガールジュナはひとりではなく、複数の人物の書き残したものがナーガールジュナの作として後世に伝えられた可能性があります。
「空」とはもっとも抽象度の高い概念
人間は概念によって物事を認識しています。例えば、犬という概念について考えてみましょう。人は「チワワ」も「プードル」も同じ「犬」として認識することができます。「犬」に対して「チワワ」「プードル」はより対象が限定された具体的な概念です。これを抽象度が低くなったと表現します。もっと具体的に「隣の山田さんが飼っているポチ」になるとさらに抽象度が下がります。具体的であるほど、抽象度は低くなるのです。反対に、「ペット」は、「犬」より抽象度が高い概念です。さらに、「ほ乳類」「動物」「生物」・・・と抽象度を高めていくと、どんどん具体性が低くなっていきます。抽象度が高い概念は、具体性という情報量は少なくなりますが、より多くの概念を含むことができます。
ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 1/5~預金集めの毎日
日本経済は高度経済成長期とはいえ、戦後間もない時期で経済に厚みが無く、常に外貨が不足していて、すぐに「国際収支の天井」になってしまい、その度に金融引き締めが行われていた。銀行は日銀の窓口規制が厳しい一方で、民間の資金需要に応えなければならなかった。それまで、預金集めと言えば富裕層を主体にしていた。一般のお宅にお伺いしてまで預金を集めるようなことはやっていなかった。そのため旺盛な資金需要に応える原資が慢性的に不足していた。そこで大手の銀行は金融市場というマーケットで資金を調達することになるが、当時は銀行が振り出した手形やコールローンなどで資金調達していた。これらの資金は、例えば地方銀行や信用金庫、年金などが市場に放出したお金だ。その資金を大手銀行が調達するのだがこれが預金金利よりはるかに高い金利なのだ。その金利水準が最高16~17%といったこともあった。しかし、そんな高い金利では誰も借りない。貸出金利は公定歩合と連動した水準で、長期プライムレートでは8%程度、短期ではもっと低く設定されていた。高い金利で調達した資金を低い金利で貸し出せば、逆ザヤも極まって銀行はたちまち大赤字になってしまう。
「国際収支の天井」:当時の日本企業は、設備投資を行うためのさまざまの機材を輸入に頼っていた。一方で、輸出は安価な繊維製品が主流である。国内が好景気に沸けば輸入が増えるので、貿易収支が悪化する。外貨準備が底をつき、設備機材や原材料が輸入できなくなる。
ヴェニスの商人の資本論 1/3~利潤とは価値体系の間にある差異
サレーニオとサリーリオ、あるいはサリーリオとサレーニオ-お互いに取替え可能な名前を持ち、お互いに取り替え可能しか台詞しか述べることの無いこの二人の友人は、まさにその取り替え可能なことゆえに、アントーニオの友人の中で最も取るに足りない人物であることを象徴している。そして、実は、この取るに足りない二人の男たちの取るに足りない台詞によって、『ヴェニスの商人』のテキストはそれ自身をめぐってその後なされた数限りない批評の取るに足りなさを先取りしているのである。たとえば、アントーニオの憂鬱とは一体どのような内面における原因に基づくものであるかを検索したり、かれと対立するユダヤ人シャイロックの性格が滑稽な悪役として描かれているのかそれとも悲劇の主人公として描かれているのかを決定しようとしたり、『ヴェニスの商人』という劇において作者シェイクスピアは一体何を言わんとしたのかを吟味すると言った類の批評を。
利潤とは、詐欺、ペテン、泥棒、掠奪といったまさに不等価交換が行われているところでしか生み出されえないものなのであろうか?利潤とは、等価交換からは決して生み出されないものなのであろうか?この問いに対する答えは、しかし、否である。実は、あくまでも等価交換の原則にもとづきながらも利潤を生み出すことのできる場所が、いわば場所ならぬ場所において存在するのである。二つの異なった価値体系の狭間-それが、そのような場所、いや非場所である。すなわち、お互いに異なった二つの価値体系の間を媒介して、一方で相対的に安いものを買い、他方で相対的に高いものを売る-それが、等価交換のもとで利潤を生み出す唯一の方式である。利潤とは、価値体系と価値体系の間にある差異から生み出される。利潤とは、すなわち、差異から生まれる。
野村證券 グローバルハウスの火種 2/2~証券化は魔法のつえ
この本は、どの話も中身が無いので極めて抜粋が難しいのだが、何も書かないと分からないと思うので、
P83~85
ガイ・ハンズ、94年11月、プリンシパル・ファイナンス・グループ(PFG)設立の責任者として、ノムラインターに入社。
「ガイ、君のアイデアについては、ある程度知っているつもりだが、今日は直接聞いてみたいと思う。初心者に話すつもりで分かりやすく頼む」
「わかりました。やってみましょう。途中で何でも質問してください。まず投資銀行が、企業や資産を自己資金で買収します。次に買収した企業や資産が生むキャッシュフローを証券化します。つまりキャッシュフローを元利金の支払いに充てる債券を作るのです。この債券を投資家に売って資金を調達して、最初の買収資金をできるだけ回収します。全額回収で切ればその時点で買い手の野村はリスクが無くなり、いわゆる「リスクフリー」となります」
「この手法は以前からあったのかなあ」
「米国では前からありますが、欧州ではこれからです。また「証券化」を本格的に活用した例は米国でもなく、通常は銀行借り入れで買収資金を賄っています」
「証券化する方が銀行から借りるより有利なのかな」
「キャッシュフローを利用した債券と格付け機関へ持ち込んで格付けしてもらいます。キャッシュフローの内容が安定していれば、当然高い格付けが取れますから借入コストも銀行借入よりも安くなります」
「証券化に成功すれば野村は買収資金のリスクはもう考えなくてよいのですから、次は企業価値の向上に専念します。将来の売却に備えて、エクイティバリューを高めるのです。買収した企業は色々な理由で効率的な経営を行っていないケースが多いので、積極的に経営に参加して、経営の体質改善や必要があればリストラを実施します」
「経営参加といってもガイ一人では大変ではないの」
「私はもちろん買収企業のボードに入りますが、PFGからも何人かのスタッフを常駐させます。経営トップに問題があれば、すぐほかの信頼できる人材と入れ替えますし、その他の専門家も必要に応じて採用します」
「企業価値の向上がうまくいったとして最終ステップの利益の実現にはどんなやり方があるのか、また売却までにどのぐらいの期間を見ておけば良いのか聞かせてくれないか」
「利益の実現は大きく分けて3通り。買収企業の株式の上場を通じて証券市場に売却するか、特定の買い手に企業を丸ごと売却するか、あるいは資産のばら売りです。期間は個々の案件によって異なりひとくくりにはいえませんが、まあ2年から5年というところでしょうか」
ガイとのやりとりは以上のとおり。
って、えーーーっ。ほとんど何も話していないに等しい。キャッシュフロー、証券化という単語だけ聞いておしまい? それを後押しするのが
p170
証券化はキャッシュフローが生まれるものなら何にでも適用する魔法のつえだ。
この発言キテるなw こういう人間が自分の上に決定権を持って座っていると思うと頭に来る従業員の気持ちもわからなくない。証券化やデリバティブは魔法の杖ではなく、単なる分解と合成に過ぎず、それ自身が価値の向上を産みだすことはない。確かにNは「証券化、キャッシュフロー、儲かる? よっしゃよっしゃ売ろう売ろう」というような何にもわかってない役員が居るが、キチンとしたブレーンが下にいるものだ。多分、この人の下にもブレーンがいたのが分かるのが、
お釈迦さまの脳科学 2/4~最先端の物理学、数学では神は否定された
1980年代以降、科学の世界では大きなパラダイム転換を迎えます。不完全性定理は、クルト・ゲーデルによって1931年に発表された定理ですが、簡単に説明すると不完全性定理とは「一つの系が完全であることを、その系において証明することはできない」ということです。これが数学全般にわたって証明されたのは1980年代に入ってからです。また、同じ時期に物理学の世界でも「すべての物理現象に不確実性がある」という量子論が証明されました。神を「それだけで完全なもの」もしくは「すべてを決定するもの」と定義するなら、神は1980年代に科学によって完全に否定されたのです。世界の知のトップレベルでは「この世に完全性はない」ことは、当たり前です。今、唯一絶対の神を信じる科学者がいるとすれば、数学や物理学を知らないということになります。ところで、この現代の科学者が何十年もかけて証明した結論を、2500年前に語っている人がいました。それが釈迦です。釈迦は数学も物理学も用いず、瞑想という思考実験でそれを解明してみせました。宗教で量子論と同じ結論に至ったのは、仏教しかありません。
インドに墓はない
実際に行ってみるとわかりますが、インドには日本にあるような墓や霊園はありません。キリスト教の墓はありますが、ヒンドゥー教や仏教の墓は存在しないのです。ちなみに、世界遺産として知られるタージ・マハルは、王妃の墓として建てられましたが、イスラム文化の時代に作られたものです。現在でもインドでは人が亡くなると、その遺体をそのままガンジス川に流す風習が残っています。インドでも儀式としての葬儀は行われています。釈迦はそれも弟子に禁じました。なぜならば、宗教は生きている人間のためにあるべきであり、死んだらただの物質である、というのが仏教の考え方だからです。ただし、釈迦は一般の人が死者を弔うことまでを禁じたわけではありません。
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