アーサー・アンダーセンは1913年「真っ当に考え、率直に話す」をモットーに、監査法人を設立した。大恐慌の間、同社は企業幹部のためではなく、株主のための監査で名を上げていった。アーサー・アンダーセンの監査と言えば、非の打ち所のない財務諸表の代名詞になった。しかしやがてその評判は大きく変質していった。例えば1950年代に、同社のあるエンジニアは重要な発見をした。コンピュータを使って簿記を自動化したのである。同社はこの方法を顧客にも教えるようになった。この結果、同社はコンサルティング業に傾倒した。80年代の競争激化のなか、監査料金は下がっていき、アンダーセンは新たな収益源を探していた。同社のパートナーたちは、コンサルティング業務を監査業務に接木する必要に迫られていた。1990年代、これは非常に素晴らしいアイデアに思われた。実際、監査の売上は横這いだったが、コンサルティングは急発展していた。問題は、コンサルティング部門が売上の大半を担うにつれて、分け前を監査部門に分配するのをしぶり始めたことだった。かつて業界のトップだったアンダーセンは、この頃には5位にまで低落していた。コンサルティングが発展するにつれて、監査員には仕事を取ってくることや、なりふり構わず顧客を維持する重圧が強まった。これ以上業界での地位を落とすわけには行かなかった。経費節約のため、56歳での早期退職も実施した。これは若手の勇み立った、しかし実質的な仕事の技量には欠ける若手監査員が増えていくことを意味していた。1990年代初頭、スティーブ・サメックという世間ずれした叩き上げの監査員が担当していたクライアントのボストン・チキンが倒産したにもかかわらず社内で権勢を誇るようになった。彼は社内公演でマーケティングの力を力説した。マーケティングは古めかしい監査などよりもずっと楽しくて儲かる。監査など退屈だし、いずれにせよ、これでは食っていけない。今やアンダーセンの暗黙の新たなモットーは、「やっちまえ」、つまり顧客の望みどおりにしろ、だった。
アンダーセンはもともとインターノースの監査法人だったが、大手好みのケン・レイは、合併に当たってこれを変える必要を感じなかった。生まれたての会社にとって、アンダーセンの監査を受けることは箔付けになった。アンダーセンは80年代はヒューストンで最大の監査法人であり、ベンゾイルやテネコなどの一流クライアントを抱える石油業界の御用達監査法人だった。その監査は、一応は厳格と言われていたが、その実、不況時に必要に迫られると、創造性を発揮してクライアントを延命させていた。エンロンの規模とプレステージが成長するにしたがって、両者の力関係は変わり、より共生的になっていった。例えば、アウトソースされたエンロンの社内監査チームはアンダーセンが引き取った。エンロンのヒューストン本社に開いたアンダーセン分室は、他の支社並みの規模になった。両者間のキャリアルートはすっかり確立し、プレッシャーがきつく給料の安いアンダーセンから、プレッシャーはさらにきついが自由と高給の得られるエンロンへと、人は続々と移っていった(リック・コージーやシェロン・ワトキンスは、このルートをたどた数百人のごく一例に過ぎない)