16世紀、ポルトガル人を先頭として西洋がマルク圏に侵入した時、彼らが水夫として使ったのは、パプア人が多かったといわれる。その多くは奴隷だったろう。17世紀初め、オランダがマルク圏の支配を決めてアンボンを根拠地とした時、そこには奴隷住民がいた。オランダは奴隷を解放して新しくバルガー(Burger)なる身分を制定した。市民という意味である。西洋社会のようにブルジョアジーが市民になったのではなく、ここでは奴隷が市民に昇格したのである。そのオランダも東インド本拠地では、前述したように都市建設のために多数の奴隷を使ったし、バリ農民の奴隷をインド洋のフランス軍に売ったりしている。
南ミンダナオ圏 取り残された島々 セレベス海を囲む島々
今日、フィリピン共和国になっている島々は、文化史的にみると全東南アジアの中できわめて特殊な位置にある。紀元前後から東南アジア全域は、ヒンドゥー教、仏教などインド・サンスクリット系文化の洗礼を受ける。インド文化の流入は、軍事的遠征によるものではなく、長期に渡って浸み透ってくるというものだった。タイ語、マラヤ語、インドネシア語などにサンスクリットからの借用語が極めて多いことはこのことを示している。ところがタガログ語を中心とするフィリピン諸島の言語には、まったくないわけではないが、サンスクリットからの借用が極めて少ない。ボルネオの東側、ウジュンパンダンの対岸にサマリンダという港がある。この内陸のクタイという土地で、西暦四世紀のものと推定されるムーラヴァルコン王の墓碑が発掘された。この名はサンスクリット系のものである。おそらくジャワ方面から流入したにちがいないサンスクリット文化は、マカッサル海峡をここまでは北上していた。しかし、ここでぷっつりと消息を絶ってしまって、フィリピン方面へ進んだ形跡が無い。なぜフィリピンだけ、西洋到来以前に外交文化の影響を受けなかったのか、適切な解釈はないようである

不思議の国フィリピン。なるほど、仏教・サンスクリット文化到来の影響が無いんだ…。「東アジア・東南アジア圏にまで拡散したサンスクリット文化は、フィリピンにだけ到達しなかった」これ気に入った。今後フィリピンを語る際、多用する。