レイク・グプタ博士の下でユニセフが行った調査で、ほとんどの子供たちが極度の暴力行為を目撃し、生き残れるとは思っていないことがわかった。インタビューした子供たちの2/3が、ロケット弾で人が殺されるのや、散乱した死体あるいは人体の一部を見ていた。子供たちの70%以上が家族のメンバーを失い、もはや大人を信じていなかった。少年兵の最低年齢制限を15歳から18歳に引き揚げようとする98年の重要な国際的努力は、米国、パキスタン、イランそしてアフガニスタンの抵抗にぶつかった。99年、アムネスティ・インターナショナルは、全世界で18歳以下の少年30万人以上が兵士になっていると報告している。
写真で見るのが一番早い。こういうのを”貧困”というのだ。日本は世界中からお金持ちと思われているし、こんな目をした少女は一人も居ない!
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麻薬とタリバンの経済 見渡す限りのケシ畑
カンダハルの中心部から3キロ半も行くと、そこはもう見渡す限りケシ畑が広がっている。1997年の春、農民達は数週間前に植えたレタスのような若く緑色の葉っぱをつけた作物を注意イブ書く世話していた。数週間すると葉っぱから真紅の花が咲きたつ。ケシの実が採れるのは種をまいてから4ヵ月後である。ケシの実の皮膜に手製の薄いカミソリの刃を突き刺すと液状のゴールドがにじみ出る。農民は一粒一粒ケシの実を指で押さえて傷をつけ、白いミルク状のねばねばした中身をしみ出させる。この中身がアヘンである。アヘンは一日たつと褐色のガムのようにかたまり、これをこてでこそぎ取る。ワリ・ジャンは、広くもない畑で毎年、45キロの生アヘンをつくり、ざっと1300ドルを稼いでいる。ワリ・ジャンは精製されたヘロインがニューヨークやロンドンで50倍もの高値をつけていることを知っている
92年から95年にかけて、アフガニスタンは毎年2200トンから2400トンの生アヘンを生産し、世界一のアヘン生産国の座をビルマと争っていた。96年には2250トンを生産した。国連麻薬取り締まり計画(UNDCP)の当局者によると、96年にはカンダハル州だけで3160ヘクタールのケシ畑で120トンを生産した。UNDCPによるとアヘン取引の稼ぎ全体のうちケシ栽培農民の手に渡るのは1%以下。2.5%がアフガン人やパキスタン人の仲買人の取り分で5%は西側に運ばれるまでの経由国に入る。残りの全てはヨーロッパやアメリカの取引業者や密売人の手に入るだ。
タリバンはアヘン栽培地を拡大しただけではない。輸送ルートを大幅に拡大したのである。1ヶ月に数回の割合で、アフガン・アヘンの50%が生産されるヘルマンド州から、重武装した小型トラックのコンボイが旅に出発する。一部は南に下り、バルチスタンの砂漠を越えて、パキスタンのまくらん海岸に抜ける。別のコンボイは西に向かってイランに入り、テヘランを迂回してトルコ東部に抜ける。さらに別のコンボイは北西部ヘラートからトルクメニスタンに向かう。また密輸業者は97年ごろまでに空輸ルートを開設。カンダハルやジャララバードから輸送機で直接海岸のアブダビやシャルジャなどの港にアヘンを運ぶようになった。中央アジアは、アフガン産ヘロインの爆発的拡大にもっとも強い影響を受けた。ソ連のアフガニスタン占領時代にネットワークを広げたロシア・マフィアは、このネットワークを使って、アフガン・ヘロインを中央アジア、ロシア、バルト諸国経由でヨーロッパに密輸している。タジキスタンとキルギスはこの密輸ルートの重要な部分を占めるようになっただけでなく、自らも主要なアヘン生産国になった
世界のジハード アラブ・アフガンとウサマ・ビン・ラディン
ビン・ラディンは1957年ごろイエメン人の父親がつくった57人の子供の17番目に生まれた。ジッダのキング・アブドル・アジズ大学で経営学の修士課程に学んだが、やがてイスラム神学に転じた。82年にペシャワルに住み着く決心をし、自分の建設会社の技術者や銃器をペシャワルに運び、ムジャヒディンのための道路や武器置き場を建設した。86年には、CIAの金でパキスタン国境近くの山中深くに、大規模な武器倉庫、軍事訓練場、医療センターなどひとまとめにした一大地下施設「ホスト・トンネル」を建設する工事を助けた。このホストにビン・ラディンは初めて自前の軍事訓練キャンプを設けた。
冷戦の終結後、アフガニスタン、パキスタン、イラン、中央アジアにまたがる地域に対する米国の政策は矮小化した。この地域に対する戦略的枠組みが欠如しているためである。米国ははこの地域に起きる出来事に対して一貫した戦略ビジョンを適用するというより、その都度、一回限りの偶発的対応を示した。米国のタリバンに対する政策には、はっきり区別できる数段階がある。いずれもその時の国内政治に引きずられるか、即効的な解決を求めるもので、長期的な戦略に基づくものではない。米国は94年から96年にかけて、同盟国のパキスタンとサウジアラビアを通じてタリバンを政治的に支援した。基本的には米国がタリバンを反イラン、反シーア派、親西側とみなしたからである。米国はこの時、タリバンがイスラム原理主義としての目標を持っていることや、女性に対して抑圧的であることを都合よく無視した。95年から97年にかけて、米国はいっそうタリバン支援に引っ張られた。ユノカル・プロジェクトを支援したためである。97年後半から今日に至る米国のタリバン政策の転換は、まず米国フェミニストによるタリバン反対の運動から引き起こされた。大統領とクリントン夫人は96年の選挙で女性票に大きく支えられ、モニカ・ルインスキ事件でも女性達から支持された。二人はリベラルなアメリカ女性たちを当惑させることはできなかったのである。米国がタリバンに甘いと見られることは許されない環境であった。98年から99年にかけて、タリバンがビン・ラディンを支援したこと、ユノカル・プロジェクトを承認しなかったこと、アフガン反対陣営やイランに誕生した穏健派政府との妥協を拒否したことなど、米国がタリバンに厳しく当たる新しい口実が増えた。99年にはビン・ラディン逮捕が米政府の第一目標になった。
世界最大の密輸ビジネス
パキスタン政府派国際的に広がった非難の嵐の中でタリバンを弁護し続けるうちに、自国がどれだけの損失を下か見えなくなった。アフガニスタンを出入りする蜜貿易こそ、パキスタンの損失を何よりも残酷に示している。「アフガン・トランジット貿易」(ATT)の実態は世界最大の密輸商売であり、タリバンとパキスタンの密輸業者だけでなく運輸業者、麻薬貴族、官僚、政治家、警察官、将校までが加担している。この密貿易がタリバンの主財源だが、同時に近隣諸国の経済を破壊し続ける元凶である。パキスタンはこの密貿易により、パキスタン中央歳入庁の推定によると92年~93年に関税収入35億ルピー、93-94年110億ルピー、94-95年200億ルピー、97-98年300億ルピー(6億ドル)を失った。数字が年々膨張しているのはタリバンの拡張を示している。

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