タリバンを構成するのは、2000万のアフガニスタン人口の約40%を占めるパシュトゥン人。パシュトゥン人は、かつて300年にわたりアフガニスタンを支配したが、最近は他の少数民族によって、その地位を失っていた。タリバンの勝利は、パシュトゥン民族主義を刺激し、再びアフガニスタンを支配する望みを、パシュトゥン人に甦らせた。
パシュトゥン人のルーツ
西のペルシャ・サファビ朝、インドのムガール朝、ウズベク王朝がいずれも傾いた18世紀の歴史的混乱期に、アフガニスタンで近代国家を創ろうとしたのが南部のパシュトゥン人だった。パシュトゥンの諸部族は、大きくギルザイ、アブダリの2つに分かれており、しばしば、対抗していた。パシュトゥン人は、その血統を預言者ムハンマドの友のクァイスに遡るとしている。人類学者たちは、パシュトゥンは、インド・ヨーロッパ人種だとしているが、かれら自身はセム人種で、何世紀もの間に数多くの民族を同化してきたと考えている。
6世紀の中国とインドの文献は、ガンジス川の東に住んでいるアフガン人またはパシュトゥン人について述べている。これらの部族は15世紀から西方のカンダハル、カブール、ヘラートの方へ移動を始めた。次の世紀にはギルザイとドゥラニは、カンダハルをめぐる土地争いで戦闘している。今日、ギルザイの本拠地はカブール川の南側のカンダハルまでで、東部はサフェドコーとスレマン山脈の間、西部はハザラジャートまでである。1709年、カンダハルのギルザイ・パシュトゥンのホタキ族長、ミル・ワイスが、サファビ朝の社シャー(王)に反乱を起こした。反乱の一因は、シャーが、熱心なスンニ派だったホタキ族をシーア派に改宗させようとしたことだった。歴史的な憎悪の感情は三世紀後、イラン、アフガニスタンのシーア派に対するタリバンの敵意になってよみがえった。数年後、ミル・ワイスの息子がサファビ朝を倒し、イランを征服した。しかしアフガン人たちは1729年、イランから追い出された。アハマド・シャーはすべてのパシュトゥン人部族をまとめ、相次いで遠征し、まもなく現在のパキスタンの大半を支配するようになった。1761年までにアハマド・シャー・ドゥラニはヒンズー・マハラッタを破り、デリーの王座とカシミールを手中にして、最初のアフガン帝国を築いた。
英・ロのグレートゲーム
弱体化し動揺するドゥラニの王は、東の英国、北のロシアという二つの帝国の圧力に抵抗しなければならなくなった。19世紀、英国は中央アジアへのロシア帝国の膨張が、インド英帝国に対抗してアフガニスタンに進出するかもしれない、と警戒した。英国は三度、アフガニスタンを征服しようと試みたが、結局、失敗、アフガン人とは戦うよりも、別なやり方がはるかによいということを理解した。英国は現金で補助金を与えると提案、アフガニスタンを保護国にするため部族長たちに工作した。それに続いたのはロシア帝国と英帝国の間の覇権争い『グレートゲーム』で、知恵と賄賂の秘密戦争と、時たまの軍事行動だった。両国はアフガニスタンを緩衝地帯として維持するために両軍を適当な距離、引き離すようになった。
パシュトゥン人の勢力は、英国がインド北西部を支配したため、さらに弱まった。パシュトゥンの諸部族がインドとアフガニスタンに分離させられたからである。パシュトゥン人の分離は1893年に英国が引いたデュランド・ラインによって確定した。第二次アフガン戦争の後、英国はアミール・アブドル・ラーマンの王位主張を支持した。「鉄のアミール」と呼ばれた国王(在位1880~1901)は英国の補助金と武器供与を投じて、効率的な行政組織と強力な軍隊を作った。彼はパシュトゥン人の中の敵性部族を従え、ハザラ人、ウズベク人の自治を容赦なくつぶすため北へ進軍した。1世紀後にタリバンがそっくり同じように行動した。
「鉄のアミール」の後継者たちは、おおむね近代化指向で、1919年に英国からの完全独立を達成、最初の憲法を制定し、都会的教育を受けた少数のエリートを育て始めた。ザヒル・シャー国王は1933年以来、国を統治してきたが、いとこで義兄弟のサルダル・モハメド・ダウド元首相の無血クーデターで、ローマへの亡命に送り出された。アフガニスタンは73年、共和国を宣言し、ダウドは大統領になった。ダウドは国家近代化のためのため援助を求めてソ連に接近した。アフガニスタンは国家収入の40%を外国に依存する怠け者国家になっていた。1978年、軍内部のマルクス主義シンパたちが、ダウド政権を倒し、ダウドと家族たち、そして大統領の護衛たちは全員殺された。アフガン・ムジャヒディンは、米国が支援する反ソ突撃隊になろうとしていた。ジハードは米国、中国、アラブ諸国が資金と武器をムジャヒディンに注ぎ込んだためにいっそう勢いをつけた。この戦争でアフガン人150万人が死亡したと言われ1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退して終わった。
1989年、ソ連軍が撤退したが、ナジブラ大統領の政権との長い戦いが続く。1992年、政権が打倒され、ムジャヒディンがカブールを占領したときである。カブールを占領したのは、ブルハヌディン・ラバニとかれの軍事司令官アハマド・シャー・マスードが率いるしっかり組織されたタジク人勢力とラシッド・ドスタム将軍の北部のウズベク人部隊だった。タリバンが出現した1994年アフガニスタンはバラバラな状態になっていた。
パキスタンはタリバンに加わって反カブール同盟を結成するよう、工作を始めた。ISIは、ヘクマティアル、ドスタム、ジャララバード評議会のパシュトゥン指導者たち、さらにハザラ人政党のイスラム統一党の幹部をイスラマバードに呼び集め、タリバンとの同盟を説得しようとした。反カブール統一戦線の結成に失敗したことは、ラバニをいっそう力づけた。
アフガン人の90%はスンニ派で、スンニ四学派の中ではもっともリベラルなハナフィ学派に属している。イスラム・シーア派はハザラジャートのハザラ人の間では支配的で、極少数のパシュトゥン部族、少数のタジク氏族、そして一部のヘラート住民も同派に属している。アガ・カーンを崇拝するイスマイリ族はシーア派の分派である。スンニ・ハナフィ学派の信条は、本質的に非階層的、非集権的であり、20世紀の支配者たちが、その強く中央集権的な国家システムに宗教指導者たちを組入れることは困難だった。
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