カテゴリー: 読書

しんがり 山一證券 最後の12人 3/5~飛ばしの管理人

2600億円の簿外債務を、実際には誰が管理しているのか、という根本的な疑問である。「簿外債務」という塊がポンと存在するわけではなく、損失を抱えた有価証券類や売買取引書類がどこかに隠されているはずだ。そして、その有価証券類の日々の値動きをチェックし、管理している人間がどこかにいるはずだ。それは事業法人本部か、経理部か、それとも経営企画室か。その人物は数字に明るく、几帳面で、上司の信頼が厚い人間だろう。もし、簿外債務の管理が6年前の1991年ごろからひとりの手で続いているとすれば、その人物は部長か、それに近い地位に就いているのではないか。そして、その人物は絶対的に口が固い人間のはずだ。そのうちに竹内の脳裏に、社内の誰もがその私生活を知らない、ある幹部の顔が浮かんできた。
もしかしたら、あの「異才」なら何かを知っているかもしれない。それが、企画室関連事業課長だった大槻益生であった。今は関連企業部担当理事である。山一の国内関連会社の管理を統括し、関係会社の方針を立案したり、会計処理に当たったりしていた。なんとなく思い浮かんできただけで、それは直感としか言いようが無かった。経営企画室は、簿外債務の秘密を握っていた。とすれば、その手足のひとりとして大槻が選ばれていても不思議は無いと竹内は考えた。
「ギョウカンで簿外債務のことを調べているんです。大槻さんほどの人ならわかっているはずです。教えてください。わかっていることだけでいいんです」 すると大槻は眼鏡の奥から竹内をじっと見つめた。
「何が知りたいの?」
「簿外債務がどこで管理されているのか。いや、簿外債務について大槻さんがご存知のことを全部お話願えませんか。お願いします」
「うーん」 ためらいを見せたあと、隣の応接室に大槻は竹内を連れて行った。同室の事務の女性に聞かせたくなかったのだろう。ソファで向かい合うと淡々とした調子で切り出した。
僕が毎日、管理して書き入れているんだよ。株価も


ロベスピエールとフランス革命 1/4~王政と憲法

まもなく革命によって解体されようとしていたフランス社会の古臭い構成において、僧族および貴族の二特権身分と、特権は持たないが、財政的、職業的には重要なブルジョワジー-イギリスの中産階級にあたる-とは、勤労者の表面を覆う薄皮にすぎなかった。概数でいって50万の二特権身分と100万のブルジョワに対して2500万の勤労者がおり、その9/10は農民であった。しかし少数の大都市、パリは人口約60万で、6つばかりの海港や工業中心地は各10万に近かった。多くの地方都市とでもいえるものでは、大寺院のお偉方たち、教区の僧侶たち、地方自治体の役人たち、司法官、弁護士、その他民生機構および宗政機構のすべての小役人たちは、自己の立場を維持する以上のことを望んでいた。
アラスはそんな地方都市の1つであり、ロベスピエール家はそんな家の1つであった。この一家はこの地方に300年来住んでおり、もしマクシミリアンがその性格のうちに何か外国風なところを遺伝していた、彼はしばしばアイルランド系だと告発された、としてもそれはずっと遠い祖先から来たものに違いなかった。


孔子 日本人にとって論語とは何か 2/2~宗教と慣習の違い

孔子が最も具体的に偉いところは「子は怪・力・乱・神を語らず」に要約されると教えていただいた。紀元前500年という孔子の時代に「怪・力・乱・神を語らず」と言えるのは、大変な理性だからです。そういうと各宗派の人に怒られるかもしれませんが、釈迦、キリスト、マホメットなど宗教はみな教祖のオカルト的伝説で人心を収攬していく。キリスト教の中でもカトリックはキリストは神の子として処女懐妊をしたと信ずる。どの宗教も「怪・力・乱・神」を話して布教するわけです。今の新興宗教も同じです。
魑魅魍魎や百鬼夜行の世界は存在するかもしれないが、明瞭な日常生活の中で説明できるものではない。したがって理性の対象にはならない、と学問上の理性の枠組みをきちんと整える。学問とは理性で証明し、かつ理性で反駁できるもの以外はないというわけです。孔子の死後、儒教は何度も仏教の影響を受けるが、宗教にならず、啓蒙の学問、人倫の道として発達し定着するのも、こうした理性が働いていたからです
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カーネギーは大金持ちになって、これ以上お金を儲けても仕方がないと思ったのかどうか、慈善事業を始めたら、金儲けに努力していたときより、ずっと品性の卑しい人間と多く会わなければならなくなったと述懐しているんです。商売の場合は、お互いに信用し合い、契約書を取り交わし、守らなければ社会的なペナルティーを受ける。ところが慈善事業を行う人は自分の正義感ばかりが先走りして、他人がそれに従うのが当然だと思うから品性が卑しくなることがある。


しんがり 山一證券 最後の12人 2/5~黒幕の行平会長

三木「次の会長は君に頼みたいんだよ」
五月女「え、こんなところで突然、言われましても・・・」
三木「わが社の状態は君が一番わかっているはずだ。誠実な君なら社員の信頼もある。ぜひお願いしたいんだ」
五月女「新社長はどうするんですか」
三木「野澤君に頼んであるんだ。この話はまだ、私と行平会長しか知らない。よろしく頼みますよ。」
三木はその直前に野澤にも電話を入れていた。
三木「僕の後任は君がやってくれないか。いろいろあって君しかいないんだ」
野澤「えーっ!私はその器じゃありませんよ」。そういう野澤の答えの中に、僥倖の喜びがにじみでている。行平も野澤に電話を入れていた。じっとり粘るような口調であった。
行平「頼むな。逃げないで仕事に向かってくれ。いろいろあるんだよ」
二人のトップが言う「いろいろ」とは、緊急副社長会で明らかにされた「指三本」の簿外債務のことだったのだろうが、野澤が深く聞くことは無かった。本心をめったに口にしない三木が、側近にポツリと漏らした。
三木「野澤が社長になっちゃったよ
「取引で儲ければ自分の才覚、損をすれば証券会社のせいだ」。苦情客の中にはそう考えるものもいる。
> いつの時代もいるねぇ。でもそうである限り、証券業のブローカレッジビジネスはなくならねぇな。


孔子 日本人にとって論語とは何か 1/2~本場中国と解釈の違い

論語が決定的な影響力を持つようになったのは、言うまでもなく江戸時代です。当事は四書(大学、中庸、論語、孟子)、五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)と朱子の「近思録」を読んでいないと一人前の知識人として認めてもらえなかった。幕末の武士、たとえば西郷隆盛や大久保利通の青年期の読書を見ても、まず四書五経を読んでいる。また、渋沢栄一の父親は武州血洗島の農民に過ぎなかったけれども、四書五経はよく読んでいて、それを引用しながら息子の渋沢を訓戒したそうです。つまり、武士に限らず当事のちょっとした知識的な農民や商人なら「論語」を暗記しているのが当たり前だったのです。仏教のお経は読んでも意味がわからない。読んで聞かされてもわかりません。しかし「論語」なら字なりに読めるし、読んだとおり理解できます。解釈の上で非常に難しいところはあるけれども、お経のように、音声だけ聞こえてきて意味は全くわからない、というようなことはない。
ただ、日本人の論語の受け取り方は、中国人とは非常に違うそうです。すべて日本的に-日本の実情に都合のいいように解釈している。もっともこれは、ヨーロッパの聖書に対する考え方についても言えます。「新約聖書」のうち「ルカ伝」以外はすべてユダヤ人が書いたと言われ、またルカにしてもユダヤ教に改宗したギリシャ系の人間だから、「新約聖書」はすべてユダヤ教徒によって関われたわけで、そこには当然、伝統的なユダヤ人の考え方がある。ところがヨーロッパに入ってくるとそうしたものとは違った解釈が生まれ、それが一つの文化を作っていくようなところがあるのです。ローマ帝国がキリスト教を公認したのは、紀元325年ですが、そのとき小アジア西北部のニカエアで開かれた「ニカエア公会議」でキリスト教の基本信条が決定された。「ニカエア信条」と呼ばれるものですが、それと同時にその信条案を提出したエウセビオスという人物が、初めての教会史を書いたのです。それを見ると、いわゆる「旧約の歴史」はイエス・キリストが出現するのを準備していた期間だということになっており、それがそのままキリスト教徒の理解になっているのです。ところが、ユダヤ教徒には最初からそういう理解は全くない。「聖書」に対する受け取り方が基本的に違っているわけです。そしてこれと同じことが日本人と「論語」についても言えると思います。
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長い間「論語」に親しみ、その影響を強く受けながらも、中国のものの基本は輸入しなかった。日本人の法意識に最も強い影響を与えているのは、鎌倉時代に制定された「貞永式目」ですが、それを唐律と比較すると日本と中国の違いがわかります。中国は伝統的に「父子制血縁集団」の社会ですから、例えば処罰についても「縁座」ということが非常にはっきりしていた。反乱を起こした場合、本人の父親と16歳以上の男子は死刑、15歳以下の男子と妻妾子女は奴隷に落とされ、伯父と叔父は流3000里-流刑に処せられるのが通例でした。しかし、貞永式目には原則として縁座がない。共同謀議をしないかぎり、血縁者だからという理由だけで処罰されることはありません。ただ正妻は夫に協力したに決まっているということで、領地を没収される。中国の法律とは明確に違うわけです。財産相続法も非常に対照的です。中国は均分相続で、家督は一人が継ぎ、家産は均分に相続する。ところが貞永式目はそうなっていず、父親がこれと思った人間に譲り状を渡して相続させるのです。


しんがり 山一證券 最後の12人 1/5~小池隆一

「なぜ自主的に廃業しなくてはいけないんですか!どうして会社更生法はだめなんですか。営業権譲渡など、他に生き残り方法もあるでしょう」五月女は野沢に代わって、社員の前でいきなり告白した。「山一には約2600億円の帳簿外の債務があります」それは長年にわたって社員たちに隠されてきた秘密であり、名門企業を瀕死の淵に追いやっているものの正体であった。執行役員たちは息を飲んだ。「ふざけるな!」という罵声の代わりに「ううう」という低い唸りのような声が漏れた。「大蔵省証券局は山一がそれを隠していたのは許せない、というのです。会社更生法で立て直すという方法は無いのか、と私たちも動きましたが、東京地裁は『簿外債務のような法令違反行為があると、更生法の適用は難しい』という判断です。さらに更正法を適用するには会社が大きすぎるし、財務体力も銀行の支援も無い、ということなんです」
> そういえば、会社更生法ではなくて自主廃業でしたね。
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「総会屋との取引関係」とは、総会屋・小池隆一に対する利益供与事件を指している。始まりは、野村證券の内部監査を担当していた若手社員がその不正に気付き、1996年に東京地検特捜部やSESC(Securities and Exchange Surveilance Commission)にひそかに内部告発したことであった。「野村證券が自己売買部門で稼いだ利益を小池のダミー会社である『小甚ビルディング』に付け替えてやっていた」というのである。それが年末ごろから少しずつ利益供与疑惑として新聞で騒がれ始め、翌97年3月25日には東京・日本橋の野村證券本社が特捜部やトクチョウ(SESCの特別調査課)の捜索を受けていた。不正のきっかけを作ったのは、第一勧業銀行である。1989年2月に小池に約32億円の無担保融資を実行し、小池はそれを元手に、野村、大和、日興、そして山一という四大証券の株を30万株ずつ取得していった。これで得た株主提案権を楯に、小池は株主総会めがけて各社に揺さぶりをかけつつ利益供与を求めていたのだ。
> 株主をナメ腐った日本企業の経営陣に、株主兼総会屋として噛み付いたのは悪いことではないと思うが、89年に証券株を買ってるあたりは、相場師として劇的にセンスが無いよなぁ・・・。株を買いつつ、その後ろでForwardを2倍ショートしてたとしたら、神様並みに崇めてやっても良いけど、店頭デリバティブ解禁は残念ながら1998年だ。


ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 5/5~日本郵政社長の苦闘

郵便貯金の預入限度額は金融自由化への対応を理由に、なし崩し的に拡大され、1988年には300万円だったのが3年後の91年には1000万円になった。90年代に入るとバブル経済時代の行動やバブル崩壊後に相次いで発覚したスキャンダルなどから金融業界への不信が強まり、国民の資金は政府保証のある郵便や簡易保険に集中するようになる。2004年度末の郵貯残高は214兆円の巨額に達し、当事、最大の民間銀行であったみずほフィナンシャルグループの預金量80兆円の2.5倍を誇っていた。また簡保の総資産は121兆円で、日本生命・第一生命・住友生命・明治安田生命の大手生保4社の総資産の合計額に匹敵するものであった。
郵貯に預け入れられた国民の資金は2000年までは大蔵省の資金運用部に全額を預託する義務があった。預託期間は7年間で金利は10年物国債の利回りに0.2%程度が上乗せされた
> これが西川頭取が「民間では絶対真似できない金融商品」と吠えたアメリカンスワップション付き10年固定利回り定期預金を、郵便局が提供できた理由である。
2008.04.30 定期預金は金利デリバティブ
2008.03.17 一族家における投資教育 ~貯金と金利
民営化された日本郵政では、運用ノウハウの確立と運用担当者の育成に苦労させられることになるのだが、いきさつを振り返れば、それも至極当然ことなのだった。郵貯は、市中よりも有利な金利で自動的に”運用”でき、資金を集めることだけに専念していればよかったのである。言うまでもなく、預託された資金は財政投融資などの資金となり、これがまた特殊法人のずさんな経営を生む一因にもなっていた。郵政事業は独立採算だったが、預託金には上乗せ金利が適用されたり、法人税や事業税、預金保険料が免除されたりするなどの「隠れた補助金」「見えない補助金」がたくさんあった。こうした「官業ゆえの特典」ともいうべき民間よりも有利な競争条件が市場を歪め、公的金融の肥大化を招いていた。簡保を合算すると郵貯は家計の金融資産1400兆円の1/4を占めるまでになっていた。財政投融資制度の改革により2001年度からは資金運用部への預託義務は廃止された。つまり全額を自主運用しなければならないのだが、郵貯は政府保証付であるのだからリスクの高い運用はできず、国債や地方債に偏重した運用がなされ、巨額の資金が官に流れる構図は全く変わらなかった。財政当局にすれば、巨大な買い手がいるのだから国債発行の規律も乱れがちになるのは当然だ。
ある商社の会長さんから聞いた話、1000万円を渋谷郵便局から引き出し、神田の某銀行の支店に送金しなければならない用事ができたという。郵便局と銀行間の決済ネットワークがつながっておらず、「近くの銀行に現金をお持ちになって、そこから送っていただくといいと思います」。渋谷の街中で1000万円を持ち歩くのは危険なことであり、そもそも郵便局から送金できないこと自体が理解できなかった。銀行に持ち込んだものの今度は不正なマネーロンダリングをチェックする入金ルールがあり、所定額以上の送金には厳しいチェックがある。
全銀システムと郵政のシステムがつながっていない根本的な問題は、大いに技術面にあった。銀行と郵貯では口座データのうちの「店番号」と「口座番号」の桁数が違い、それがネットワークとの接続を難しくしていたのだ。銀行がそれぞれ3桁と7桁であるのに対して、郵貯は5桁と8桁。全銀システムとつながるようにするために桁数を共通化する必要があった。民営化後に全銀システムとの接続が実現したが、これは全銀システム側が、郵貯の5桁と8桁を全銀側の3桁と7桁に”翻訳”して処理してくれたことで実現した。
ファミリー企業との関係を見直す
調達コストの削減と調達戦略一元化、顧客接点の一元化を徹底し、さらにグループの一体化により総合力を発揮していく上で、避けて通れない問題が、いわゆる「ファミリー企業」と呼ばれる関連会社との関係の見直しだった。その実態を知れば知るほど、実に手回しよく作ってあるものだと驚いた。たとえば「かんぽの宿」。かんぽの宿自身はいわば管理会社で、その周りに営繕や清掃の会社を作ってかんぽの宿から仕事を得ている。ユニフォームの調達でも郵政公社と民間事業者の間に挟まる形でファミリー企業があり、コストを膨らませる一因になっていた。とにかく年賀状の印刷にしてもハガキの作成にしても、切手にしても、郵貯や簡保の帳票類にしても、ゆうパックの箱にしても、調達規模が大きいだけにファミリー企業が介在するうまみがあるのだ。情報システムの構築でも緊密な関係にある会社が4社あった。このそれぞれに大手電機メーカーやシステム会社が出資していた。これらは事実上のトンネル会社で、開発の主導権を持っているわけではなかった。そこに何人かのOBが天下り、入札をするとその会社が応札するし、ベンダーが応札してもその会社を通して納入するので、どっちにしてもお金が落ちるような仕組みになっている。ATMを全郵便局に1台ずつ納入したとしても24,000台だり、こんな大規模な調達案件は無い。しかも特殊使用なのでコストが増えるのも当然と考えられていた。こうした関連会社との関係の見直しとコスト削減の連動は民営化したからできることだった。ただ、なかには財団法人など公益法人となっているものも多くあった。公益法人は主務大臣の認可を得て設立されている団体だから、私たちの手で解散したり廃止したりできるものではない。
第一次報告が公表されたのが8月7日のことだったが、この段階ですでに「郵政福祉」という財団法人との関係見直しについての検討結果が明らかにされていた。郵政福祉は郵政弘済会・郵政互助会・郵政福祉協会の3つが統合してできた公益法人で、職員の退職給付の3階建て部分の拠出金を、毎月の給与からの天引きで集めて運用していた。しかし、加入は任意で、加入率は84.6%であった。外部の任意団体に職員の旧都に関する情報を提供するのは個人情報保護の観点からも許されるべきことではない。報告を受けて日本郵政は、直ちに給与天引きを廃止した。そもそもこの団体は特定郵便局の局舎を約1500ほど所有し、公社が家賃を支払う形になっていた。賃料は結構高く、利回りにすると10%で回っていた。しかも財団法人は公益法人なので税金がかからない。その団体が局舎を郵政に貸し出して賃料を得、それを運用して職員の退職金に上乗せするという構造はどう考えてもおかしい。
もう1つ、大きな組織で財団法人「郵貯振興会」があった。ここはメルパルク(郵便貯金会館)の運営をやっている法人でメルパルクは全国に11箇所あり、コンサート会場や結婚式会場として利用されている。ここの経営形態も妙なものであった。メルパルクは「郵便貯金の周知徹底のための宣伝施設」と位置づけられていて、土地や建物は公社が所有しているものの、売上収入はすべて郵貯振興会に入る。賃料なし、税金なしなので利益率は高い。初めて説明を受けた時は、賃料も取らずによくやっているものだと驚き、呆れたが、周知徹底のための宣伝施設なので施設を所有していること自体が宣伝広告費として扱われている理屈にはあんぐりとしてしまった。郵政民営化法では2012年9月までに譲渡または廃止すべきとされている。


皇族に嫁いだ女性たち 4/4~皇室スキャンダル

醜聞 宮家の古着
敗戦後、天皇家は温存されたがその権限は縮小された。直宮ではない宮家皇族や家族なども多くの特権を剥奪され、経済的苦境に陥ったりした。そして、太宰治が戦後の華族没落を描いた小説「斜陽」から、斜陽族という言葉が流行し、斜陽にともなう旧特権勢力の数々の庶民的言動は時に醜聞として広まることもあった。
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こうした世相にあって、雑誌「真相」の1948年6月号は「カメラ探訪 宮様商売告知板」を掲載し、皇籍離脱した東久邇宮稔彦の「東久邇商店」、閑院春仁の「無料結婚媒介所」、久邇朝融のダンスホールなどを揶揄まじりに紹介した。元妃たちの商魂ぶりも伝えられ、旧朝鮮公族妃であった桃山佳子などはふくよかな顔立ちの写真入りで「渋谷なる喫茶店『桃屋』の営業不振に鑑み、まずは銀座への進出の桃山家、銀六百貨店に御開業(ただし売品は全部ヤミだよ」、「銀六百貨店菓子部主任、李鍵公改め桃山虔一夫人佳子の君」と皮肉たっぷりに描かれた。「閑院夫人がチョクチョク古着を売りにくるナツメ衣裳部、大福帳に具出を取るは松平親子」の記事もあり、「ナツメ」は久邇朝融がはじめた久邇香水の直売所であった。「ナツメ」は美術部、食料品部、高級喫茶部の3部門に分けられた間口三間、奥行十間の小店で久邇の血縁の元妃殿下たちが数人の男女店員に交じって働いたりしていたのであった。「松平の奥様」や皇族たちが衣類を売りに持ち込み、「徳川のアオイの紋のとなりに菊の紋章がならんでいる」といわれたのであった。
貞明皇后記念館建設をめぐる詐欺事件
皇太后節子は貞明皇后と諡号され、その古風な気品と格調高さが後世に伝えられることとなった。しかし良妻賢母教育は戦後の風潮には必ずしもなじまず、その名声は衰えた。そして崩御7年後の昭和33年1958年に受難が訪れた。貞明皇后記念館建設募金をめぐる詐欺事件の発覚である。事件の発端は昭和29年7月頃御用邸のある静岡県沼津市の日蓮宗の住職と国際文化協会沼津支局長とが、貞明皇后を偲ぶ記念館建設を計画したが、両者の意見が対立したため支局長は国際文化協会理事長に話を持ちかけ、昭和30年9月に理事長が記念館建設の意思を持たないまま東京都知事に募金を申請したことにある。申請が許可されたことにより、理事長は無断で元公爵の一条実孝、元貞明皇后侍医の山川一郎、静岡県知事斎藤寿夫ら有名人約40名の名を賛同人として連ねたパンフレットを作成して、八幡製鉄、日本鋼管、味の素など都内一流企業に配布したのであった。その結果、およそ100社から八百万円を集めたのである。当時大卒の事務系の初任給が15000円ほどであったから、1社当たり新人社員の5カ月分の給料に相応する寄付を出したことになる。
募金活動は一年と限定されていたため、理事長はその後も延期申請をして3度目は貞明会と名を改め、日比谷公会堂で募金の芸能会を開き、その収入を得ながらも税金を滞納して脱税容疑で追及されたりした。また蔵前国技館で花相撲を開き、相撲茶屋の寄付金40万円をふくむ450万円の収益を上げたりしていた。さらに福島県など各地の小学校の生徒から10円、20円の額を集めていた。この総額は2000万円以上と推定されるが、昭和33年になっても記念館建設予定地とされる沼津市には何の動きもなかった。そもそも沼津市では昭和31年夏になされた国際文化協会支局長の土地借入申請に不審の点があるため却下していたのである。こうした事情を受けて、警視庁捜査2課は貞明会理事長宅などを詐欺の疑いで家宅捜査して取締りをはじめたのであった。貞明会の中心人物であった国際文化協会理事長は過去に詐欺や賭博の前科があり、暴力や恐喝の前科者を集めて資金を調達させていたというのが実態であったようだ。
官中魔女事件
昭和41年から46年にかけて皇后良子をめぐる新たな問題が発生する。入江日記によえば、当時、官中祭祀にうるさく、誰かが大晦日に剣璽の間に入ったとか、皇后良子をしてどうして旬祭は年に2回になったのかと言わせるなど、官中行事の運営に口をさしはさんでいた「魔女」と称された女官がおり、昭和天皇の高齢を考慮して祭祀の簡略化をすすめていた入江ら官中官僚の妨げとなっていた。しかし、「魔女」は皇后良子の信認篤く、皇后から保科武子女官長の後任を推されていたほどであった。「魔女」の女官長就任はなかったが、天皇と皇后が欧州旅行に出かける際の準備段階で、皇后は「魔女」の同行を主張し「魔女」が同行しないのなら自分も行かないとまで言いだし、一時は天皇単独の旅行案も考えられたのであった。
河原敏明によれば「魔女」は公家の羽林家である旧今城子爵家から皇后宮女官となった今城誼子のことであり、今城は旧来の官中祭祀の伝統を守ろうとしたが、入江ら改革派の官僚たちに阻止されたというのが真相であったという。今城家は花山院家の支流中山家の分家であり、維新後の当主である今城定徳が子爵となり、その正妻の竹子は橋本実梁三女であった。橋本実梁といえば明治天皇の夭折した長女である稚高依姫尊を産んで同日に死去した権典侍橋本夏子の兄(夏子の出生には不明な点があり、実梁の妹麗子と東坊城夏長の長女説がある)として知られる。また定徳子爵を嗣いだのは定徳長女の友子と結婚した中山孝麿侯爵の長男定政であった。中山高麿は皇太子嘉仁親王の東宮大夫をつとめ、孝麿の叔母は明治天皇生母の中山慶子である。そうした家系の今城定政の長女が誼子であり、代々の伝統的な宮中儀式を尊重する性癖もうなずけなくはなかった。
一方、皇后良子のほうは昭和35年1960年の長女照宮成子の容体悪化のころから精神状態が乱れ始めた。治療のかいなく成子は早世した。その後、皇后良子は新興宗教に凝った「魔女」の意見に従うことが増え、熱があっても「魔女」の一言で侍医に身体をみせることをしなくなった。「魔女」の皇后への影響力は、天皇裕仁の心の負担ともなり、天皇は口をパクパクする症状を見せるようになった。戦後の新時代に対応しようとする天皇裕仁と入江ら改革派の官中官僚たちと、旧来の伝統を維持しようとする皇后良子や今城ら守旧派の女官たちとの間の確執が「官中魔女事件」の背景にあった。皇后良子はめまぐるしく変わる皇室環境に息切れし、孤立感を深めていた。その心の隙間を埋めていたのが「魔女」であった。


ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 4/5~銀行再編

1998年には大和銀行から難題が持ち込まれた。しかし私は内心期待に胸を膨らませた。発端は大和銀行の救済だった。会長の巽さんのもとに大和の安倍川澄夫会長から「住友銀行の力を貸してもらえないか」という内々の打診があったのだ。大和銀行はニューヨーク支店のナンバー2がアメリカ国債の簿外取引を行って11億ドル(当時、1ドル87円換算で957億円)の損失を出す事件を起こしていた。この巨額損失を大和銀行は大蔵省には報告したもののアメリカの金融当局に報告しなかったため、大和は3億4000万ドルの罰金を支払いアメリカでの業務を撤退させられることが決まっていた
> 大蔵省に報告して、現地でだんまりって馬鹿なのかね? FBIまで動いたんだよな。ちなみに大和銀行事件についても当ブログはちゃんと扱っていてw
2012.02.27 告白 元大和銀行NY支店2/2 ~トレーディング
2012.02.24 告白 元大和銀行NY支店1/2 ~米国の公務員
巽会長から話を聞いた私は「ただ力を貸すだけではなく、大蔵省の意向通り、どうせやるなら合併含みでやりましょう」ということで動き始めた。まず大和銀行がニューヨークからスムーズに撤退できるように手配し、ニューヨーク連邦銀行首脳が東京に来た折にはこの件を報告しておいた。当時、住友銀行の名は表に出ていないが、大和銀行のニューヨーク撤退を住友は縁の下で支えていたのだ。この時期、大和に限らず西の銀行は、近畿銀行、なにわ銀行、福徳銀行などどこも経営状態が非常に悪く、火薬庫とまで呼ばれていた。私も大蔵省の担当官に赤坂にある日銀の接待施設・氷川寮に呼ばれ「○○銀行はもう破綻している。西川さん、住友で大阪を何とかしてくださいよ」といわれたことがあるほどだ。なんとかしろといわれてもとてもではないが荷が重すぎる。そのたびに「私たちの力では及びませんよ」と断っていたのだが、大和銀行には信託兼営という魅力があった。
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2002年5月、私はニューヨークにいた。ゴールドマン・サックス(GS)のヘンリー・ポールソン会長と面談するためだ。実はGSと住友銀行の関係は1986年から続いていた。当事住友銀行の国際部門は証券やM&Aなど企業金融に関わるインベストメント・バンキング業務を柱にして収益力の強化を図るのが急務だった。住友独自で人やノウハウ、組織を築き上げてインベストメント・バンキング業務を推進するには時間がかかりすぎる。また海外にも資本調達の窓口があったほうがいい。そんな折、ニューヨークの国際本部が「いいパートナーがいる」といって紹介してきたのがGSだった。GSは1869年に設立されたアメリカ最有力の投資銀行だ。住友銀行と企業風土や経営の行き方が似ているところもパートナーの条件として最良だった。住友銀行は1986年に議決権の無い有限責任出資者として4億2500万ドルを出資する契約を交わした。調印したのは小松康頭取とGSの当事の会長、ジョン・ワインバーグ氏だった。具体的には住友銀行が全額出資によりニューヨークに住友銀行キャピタル・マーケット(SBCM)を設立し、そのSBCMが住友銀行の代わりにGSに対して出資をする形をとった。残念ながら不良債権処理の原資を得るために2000年には住友銀行はGSの1200万株を売却して6億ドルを手にしたが、持ち株比率は3.6%にまで低下してしまった。
> う~ん、「時間を買う?企業風土が似てる?」という理由とか出資の仕方とか…ちょっとがっかり…。
2003年度から04年度を不良債権の集中処理機関とし、04年度末までに不良債権比率を半減することを強く求め、そのために資本不足に陥るのであれば、公的資金を投入することにしている点である。「半減」という不良債権処理の数値目標と公的資金投入を一体とした政策が打ち出されたのは、初めてのことであった。不良債権処理は文字通り待ったなしの状態となった。その結果、自己資本比率が8%を割ればBIS規制のルールに従って海外営業から撤退を強いられる。より深刻な資本不足となれば国有化が視野に入る。それだけは絶対に回避しなければならなかった。結果的に三井住友に限らず、大手の銀行グループは優先株(普通株式よりも配当や残余財産を優先的に受け取れる代わりに株主総会の議決権に制限がある株式)の発行や第三者割当などにより大幅な増資を行い、自己資本の増強に奔走した。三井住友は総額約5000億円だったが、みずほ銀行グループは約1兆1000億円の巨額に達し、東京三菱銀行グループは約3600億円、UFJグループは約3500億円という規模であったと記憶している。
GSからの資本調達を耳にしたJPモルガンからも増資に応じたいという申し出があった。GSよりも少し条件が良かった。しかし私はそれにはあまり期待しなかった。GSとは5月から協議を始めて、直接投資1500億円に加えて欧米のマーケットから3000億円余りを調達する話にまでこぎつけたのだ。それをあとからやってきて、もっと良い条件でやりますといっても、本当にできるのか。すでに資本調達前の2002年12月には株式移転により親会社である三井住友フィナンシャルグループを設立して持ち株会社制度を導入することになっており、資本調達は翌03年3月には完了していなければいけない。そうした一連のタイトなスケジュールの中で、いまさら増資先を変更したり、ふやしたりするような危ない橋は渡れないというのが私の結論だった。
しかし行内では、よく討議したほうが良いという声が次第に大きくなってきた。JPモルガンをもっとも強く推すのは奥正之副頭取だった。理由はGSに集中させずバランスをとるべきだというのである。余りに主張するのでGSとの打ち合わせのためにニューヨークに滞在していた奥副頭取とのテレビ会議で私は「では、もうやめようか」と持ちかけた。
「やめる必要は無いではないですか。少し待ってみたらいかがでしょうかと申し上げているだけです。
「何を言っているんだ。これだけの増資をまとめてやってくれるところがどこにあるんだ。何が問題なんだ」
「ですから分散したほうが良いと申し上げているのです」
「分散して何の効果がある?そうしたほうが金額が増えるのか」
「金額の問題ではありません。JPモルガンがせっかく言ってきているのですから可能性を探るべきではないかと」
今振り返れば、住友出身の奥さんがここまで強くJPモルガンを推すのは旧さくら側からのプッシュがあるためという面があり、GSがいけないというよりも旧さくらの顔を立てる意味合いもあった。奥さんがそうした事情を汲んでJPモルガンを推すのは、私だって分かる。条件が良いことも百も承知だ。しかしこのとき何より優先しなくてはならなかったのは、旧さくらのメンツではなく、期日までに約束どおりの資金を手に入れることだった。完全に信頼できたのはあの時点ではGSをおいて他になかった。結局、JPモルガンの申し出はお断りした。
そして当初の予定通り2003年1月15日GSが三井住友銀行に1500億円の直接投資を行うことが決まった。三井住友銀行はGSに対して優先配当を受けられる優先株を優先配当率4.5%で発行する。
2回目の増資として3450億円の優先株発行をGSの主幹事でお願いした。海外の投資家にこれを販売してもらって、海外マーケットから資金調達するのだ。実はこの3450億円という数字も二度にわたって増やしてもらった結果だった。当初の金額はすでに触れたように3000億円弱だったが、もう少し上積みしてもらう必要があり、最後の交渉は深夜、テレビによる最終会議までずれ込んだ。GSの持田昌則日本法人社長が携帯電話を持ち、会議室の外の廊下を行ったり来たりしながらポールソン会長と直接協議する。「SMBCはいくらほしいんだ」「あと500億ほどです、西川さんがそういっているのですから、やりましょう」そんなやり取りが交わされているのを壁越しに聞きながら私は会議室でじっと待つ。
> コラー、三井住友の優先株をこの説明で終わらせるな~!転換価格修正条項付、国内初、今で言うMoving Strike型の超大型増資の歴史がここに幕を開けたのだ。JPモルガンがどうのというより、高い資本コストのファイナンスではなかったのか、GSに対する利益供与の可能性の否定をキチンとして欲しい。ただ逆に、対応が遅れたみずほは3月末に1兆円もの優先株を発行したことを思えば、迅速に対応し、発行コストを抑えたという自己弁護の材料にして欲しかった。
住友銀行の法人格消滅
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増資の協議と並行して決断したのが、旧さくら銀行の子会社だった参加の第二地銀、わかしお銀行を存続会社とする逆さ合併だ。2002年の12月に発表し、正式に合併したのは03年3月17日のことだ。わかしお銀行は、経営破綻した第二地方銀行の太平洋銀行の営業を引き継いで1996年に設立された、いわゆる受け皿銀行だ。ここと合併して三井住友銀行を消滅会社にすれば、三井住友銀行の資本準備金を取り崩すことができる。その額がおよそ2兆円あった。これを不良債権処理の引当に使うのが狙いだった。存続会社の事業規模のほうが小さいこの逆さ合併はは、たしかに当事マスコミが書きたてたように奇策であるかもしれない。平成創業のわかしお銀行の法人格を残すことで、明治28年創業の歴史と伝統のある住友銀行の法人格が消滅してしまったのだ。しかもこの手法は一度きりしか使えない。銀行が生き残るための”切り札”であり、文字通り名より実を取るやり方であった。
> 現在のシャープと同様、いやシャープ以上にひどいやり方である。三井住友ここまでやるのかと驚愕の奇策でしたね、私はよく覚えています。マスコミが書きたてた? 瞬間的にこの逆さ合併は無かったことになっていたような・・・。三井住友銀行はわかしお銀行なんてしつこく言ってるのは俺くらい?w


皇族に嫁いだ女性たち 3/4~華族から平民へ

夫と実子を亡くした北白川宮能久親王妃富子
能久親王は戊辰戦争において輪王寺宮公現親王と称し、旧幕府側に担がれたことがある。結局敗北し、以後、屈折した生涯を送った。維新後、能久王となって伏見宮家に復するが1870年にベルリンに留学し、ドイツ貴族の娘と婚約する騒ぎまで起こす。これも叶わず帰国し、陸軍軍人として日清戦争に従軍、講和後に台湾接収に出征する。しかし、悪天候の悪路などもあってマラリアに感染、軍医は静養を進言したが、親王はこれを聞かずさらに進軍し台南を占領するも、明治28年10月に病死した。そして大正12年(1923年)、実子の成久王をパリの自動車事故で亡くしてしまうのである。成久王37歳、富子大妃62歳であった。
明治19年10月、小松宮彰仁親王が、およそ1年の予定で軍事視察のため頼子妃とともに欧州に派遣され、アメリカを経て、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、イタリア諸国を訪問した。これが近代皇族の妃はじめての洋行であった。しかし、この妃殿下の海外での行状は明治天皇の顰蹙を買う。西洋文明に眩惑されて宝石や衣類を漁りまくったからである。このため、明治22年に有栖川宮威仁親王が慰子妃を同伴して、訪欧の旅に出ようと許可を申請した時、明治天皇は皇族妃の渡航に首肯せず、有栖川宮夫妻は自費で出港することとなった。慰子妃の実家で資産家の加賀前田家が旅費を出し、前田利嗣侯爵と朗子夫人も同行したのである。頼子妃が悪しき前例を残してしまった結果であった。明治42年、梨本宮伊都子が単身で欧州に向かう。資金は宮内省から5万円、実家の鍋島家から3万円、梨本宮家から2万円が提供された。長い船旅を経て、ようやく3月にフランスに着いた伊都子は「いなかもの」のように西洋文明に驚いてばかりいた。「はじめて欧州に足を踏み入れた嬉しさ。キョロキョロしてをる」「アーーこれが巴里であるかと目をパチパチしてながめる」などと旅の日記に書いている。伊都子がパリで最初にしたことは、デパートめぐりと買い物であった。日本では何でもあるデパートは三越だけであったから、巴里にきてみるとルーブル・ボンマルシェー等、大きなもので、毎日の様にかよひ、色々買い物する。又、仕立屋はレッドフェルムがいきな上等の仕立屋で、コスチュームを誂へる。又、ワレス・ウォルト等にも仕立物をたのむ。パレーロワイヤルといふ所は中店の様な店がならんでをる所で、昔から名高いと見え、巴里に行った人々はよくここのはなしをしてをったから、一度みて置度、見物に行く。なるほど、ほしいものばかりで、ハンカチ・指輪など買ってかへる。
加賀前田家、鍋島家のお嬢様でも民なのか…。


ヴェニスの商人の資本論 3/3~「見えざる手」を「見る」

スミスの言う「見えざる手」とは、市場における価格の需給調整作用のことであるのは言うまでもない。スミスの文章を現代的に言い換えるならば、市場に参加している売り手も書いても市場で成立している価格を与件としながら、自分の利益のみを考慮して商品の供給量あるいは需要量を決定している限り、価格の需給調整作用によって市場は自動的に需給を等しくする均衡状態に到達し、しかもその均衡状態においては経済全体の資源の効率的配分が達成されていると言うのである。実際、「見えざる手」の働きの発見こそ、経済学を経済学として成立させたのであり、その後の経済学の「発展」と言われているものの多くの部分は、この「見えざる手」の働きに関する分析を、あるいは一般化し、あるいは精緻化することにあったといっても言い過ぎではなかろう。
「不均衡動学」の試みは、「見えざる手」を「見る」ことから出発する。「見えざる手」という比喩によって描かれているのは市場における価格の需給調整機構である。しかし一体価格そのものはどのように形成されるのであろうか。いわゆる需給の法則は超過需要があれば価格が上昇し、超過供給があれば価格が下落すると主張している。しかし、こういう価格の動きは一体誰の行動の結果なのであろうか。実際完全競争といわれる伝統的な仮定の下では、売り手も買い手も価格を与件として行動しているから、結局市場には価格を上下させる人間は誰もいないと言う逆説が生じる。しかし、市場で価格が実際に上下するならばそれは市場において実際に取引に携わっている誰かが上下させているのである。市場は従って完全競争的ではありえず、不完全競争的な様相を帯びざるを得ない。そして、ひとたび不完全競争の世界に入ると、経済の中で市場行動を行っている人々の間の相互連関は、より密接にそしてより複雑になる。我々の生きている貨幣経済では、供給は自ら需要を作り出すというセイの法則は成立しえず、総需要と総供給は常に乖離する可能性を持っている。いや、市場経済の発展そのものが、貨幣が可能とする売りと買いの時間的、空間的ずれによって可能となったのである。したがって、もはや「見えざる手」は働いていない。いや、そもそもはじめから「見えざる手」など存在していなかったのだ。逆に、伸縮的な価格および賃金の下では、貨幣経済は絶えず累積的デフレあるいはインフレの危機にさらされた不安定な性格を持っているのである。


ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 3/5~住専と赤字決算

1994年になると、株価や不動産価格が下がる一方で、住専の危機が社会問題化していた。そんな切迫した状況になっても益出しと買戻しを繰り返して保有株式の簿価を挙げるのはリスクが大きすぎた。来年も再来年も株価が下がり続ければ、今度は逆に株式評価損を計上することになり、これまでせっかく益出しをしてきたのに元の木阿弥にもどってしまう。こんなことを続けていたらいつか必ず大変なことになると私は考えた。実際この株式評価損は当時だけでなく2000年代に入っても銀行や一般企業の自己資本を毀損して経営を苦しめることになった。もちろん赤字分を株式の益出しで埋めなければ自己資本は食われる。しかし保有株式の簿価は変わらずにすむから、今後の株価下落による評価損増大リスクを避けることができる。将来の株価下落リスクに耐えられる。そこで私はこの際、益出しをやめて、赤字決算するしかない判断した。今でこそ銀行の赤字決算は珍しいことではないが、当時は市場に与える影響がどれほどのものになるのか想像もできず、タブー中のタブーだった。過去の例を見ても日本の銀行が赤字決算をしたのは1946年、終戦直後の混乱期の一度だけで80年頃の「ロクイチ国債問題」のときですら赤字決算は出していなかったのだ。
> 赤字決算禁止の習慣。すごすぎ。
ロクイチの由来となる6.1%の10年物国債は、今から見れば高利回りに感じると思うが、当時としては極めて低金利であり、それはつまり高価格の国債を意味する。大蔵省は大手銀行団を統合したいわゆるシンジケート団にこれを引き受けさせたため、住友銀行を含め、大手銀行のすべてが高い値段の国債を大量に保有することになった。そこに第2次オイルショックと金融引締めが襲いかかり、ロクイチ国債は暴落し、大手銀行のすべてが巨大な含み損を抱えてしまった。額面100円の国債の価格が74円まで下落したのだから、銀行にとっては大きな痛手だ。その頃の国債は時価評価で決算するのが常であったが、この時ばかりは大蔵省も取得原価で評価することを認めると通達してきた。半強制的に国債を引き受けさせたという負い目があったためだろう。しかし、住友銀行はちょっとへそ曲がりなところがあり、「今まで時価評価でやってきたのにちょっと損が出たからといっていまさら取得原価で評価できるか」ということで、それまでと同様に時価評価していた。このときでさえ、住友銀行は赤字決算をせず株式を売って損失を埋めていたのだ。
> なんか国際会計基準とか、国際金融業務とかと縁遠い世界だなぁ~。中国の銀行もこんな感じなんだろうなぁ…。
1995年の正月明け早々、私は巽会長と森川敏雄頭取のもとに向かい、「こんな状態を続けているとダメージが大きくなってしまいます。思い切って赤字決算しましょう」と進言した。すると、お二人とも即座に了承してくれた。頭取と会長、企画担当者と専務の私の4人だけで極秘に会議を行い、1月17日に業績修正の発表をしようと決まった。ところが、その日の早朝、阪神・淡路大震災が起きた。19,000円台になんとか足をかけていた株価は震災の影響で見る見る下落していき、17,000円台に入ってしまった。「こんなときに銀行が赤字決算を出したらどんなことになるか?」 それでなくても滅多に無い銀行の赤字の発表だ。市場にこれ以上余計な心理的な影響を及ぼすことはすべきではないと判断した私たちは、その日の発表を見合わせることにした。そして10日後の27日、株式市場が多少落ち着いたところで、3月期決算の業績予想の修正を発表し、都銀初の3354億円の赤字(当初予想は600億円の黒字)になると表明した。赤字決算の結果として発生する当期の未処理損失については準備金の取り崩しで対応して来期に繰り越さない方針も示した。具体的には関連会社とイトマン関連の不良債権、大蔵省の意向を受けて都市銀行など民間金融機関162社が出資して設立した共同債権買取機構への不良債権の売却損、さらに債権償却特別勘定への引当金繰入などで総額8265億円にのぼる不良債権を償却する計画だ。そしてさらに予想外のことが起きた。私たちが赤字決算を出した途端、投資家が銀行株を買い始めたのだ。住友だけでなく他行まで軒並み買われ、金融関連株が高騰を始めたのである。マーケットは赤字決算によって不良債権処理が進むとプラスに捉えてくれた。ところが私自身は値上がりする株価を横目で見ながら、内心「しまった!」と思っていた。発表を見合わせた10日間で少しでもマーケットへの影響を少なくしようと、有税償却を減らし、益出しもして赤字額をかなり削っていたからだ。発表した業績予想の修正では赤字幅は3300億円であるけれども、実のところは5000億円程度の赤字があったのである。できればその額で業績予想を修正したかった。
> 西川さんのご英断は理解できるが、即時開示義務違反、5000億円の赤字と認識していながらも3300億円発表とは粉飾ですよ…。市場健全化とは程遠いな。
住専(住宅金融専門会社)は、1970年代に住宅ローン需要が伸び続ける一方で、銀行は融資の審査が厳しく個人向けローンのノウハウが無かったことに対応した大蔵省の強い主導で設立されたノンバンクだ。民間銀行は出資を求められ、1971年から79年までに8つの住専が設立された。住専各社は当初こそ個人向け住宅ローンを扱っていたが、バブル時代になって銀行が個人向け住宅ローンに進出してきたため、新たにニーズが強かった法人向け不動産担保融資にのめり込んでいった。これらが大量に焦げ付き、1995年8月に行われた大蔵省の調査で、住専の不良債権額は後述する農林系1社を除き、全体で6兆4000億円にものぼるとされた。融資された額が突出して多い末野興産の末野謙一氏、桃源社の佐々木吉之助氏といった「住専借金王」たちがマスコミで話題になったもこの頃だ。政府内で問題になったのは政府系金融機関である農林中央金庫、および各県の信用農業組合連合会、全国共済農業協同組合連合会のいわゆる「農林系金融機関」が47の信農連と農林中金の出資によって系列に共同住宅ローンを設立したのをはじめ、住専に巨額の貸し込みを行っていたことだ。それらが損失となり、5300億円とされた農林系の負担能力を超える部分を誰が負担するかを巡って農林系と民間金融機関との間で激しい対立が起き、世論を巻き込んでの大騒動になった。その結果連立与党プロジェクトチームは、農林系を除く7住専の損失額6兆4000億円の穴埋めのために、住専各社に出資した住友銀行を含む、いわゆる「母体行」に合計で3兆5000億円、一般行に1兆7000億円の債権放棄を求め、農林系の負担能力5300億円を超える6850億円については公的資金注入で賄うことで議論をまとめ、12月に村山内閣が閣議決定した。当時大蔵省は危機感を持って機敏に動いていた。住専国会が終わるとすぐに発足間もない橋本龍太郎内閣のもとで不良債権処理の障害の除去に本腰を入れ始め、翌97年6月に不良債権償却証明制度を廃止し、銀行による自己査定に基づく債権処理が導入された。債権を「正常先」「要注意先」「破綻懸念先」「破綻先」の4つに分け、区分ごとに引当金を積んで、繰延税金資産として決算上の税負担をなくすことができるようになったのだ。これは非常にありがたい制度変更であった。もちろん、日本では税務当局の意向が強く、銀行に債権償却を勝手にやらせることには抵抗がある。
> 有限責任の原則もへったくれもねーなあ。
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住管機構の主張は住専の融資が焦げ付いたのは母体行の1つである住友銀行が質の悪い融資先を紹介したからだという。紹介責任があるはずだ、というのがあちらの言い分だった。しかしこれはずいぶん無茶な話である。母体行とは、住専に出資した銀行のことをいう。銀行の出資比率は会社法の規定で5%以内と決められていた。いわゆる5%ルールだ。その先駆的存在が、1971年6月に設立された「日本住宅金融」で、三和銀行をはじめとする金融機関が出資している。社長には大蔵省OBの庭山慶一郎氏が就任した。住友銀行が出資したのは、その次の同年9月に設立された「住宅ローンサービス」だった。住友以外に第一勧業、富士、三菱や長信銀、信託銀行など大手金融機関が大株主にずらりと顔を揃えた。その後も、銀行、証券会社、生保などの金融機関が、1979年までに6つの住専会社を相次いで設立したわけだ。ところが住専各社は店舗網が十分ではない。したがってバブル時代に住専がのめりこんだ法人向け不動産担保融資の案件を銀行側から紹介しなければいけなかったのだ。だから、住管機構の主張を銀行側から見れば、大蔵省主導で出資させられ、融資先まで紹介したのに、焦げ付いた筋の悪い案件を紹介した銀行のせいだ、といわれていることになる。ところが住専にはすでに公的資金が注入され、世論は銀行側にとても厳しくなっていた。そこに拍車をかけたのが住管機構社長の中坊公平弁護士とマスコミの存在だった。国民の税金を取り戻そうと奮闘する中坊さんと、それを応援するマスコミの報道によって、住友銀行はすっかり悪役になってしまった。しかし、問題は何の審査もしないで融資をした住専にある。結局、1999年住友が30億円の損害賠償に応じて和解することで決着がついた。
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皇族に嫁いだ女性たち 2/4~女王の婚家 女王の嫁ぎ先

「維新以後の女王」71人の女王すべてが結婚したわけではない。夭折・早世して適齢期までその生涯を全うできなかった女王が10人おり、また出家したり結婚をしなかった女王も居るし、現在、結婚前の女王も居る。こうした未婚の女王を除くと結婚したのは54人となる。54人の出身宮家の内訳は伏見宮11人、有栖川宮3人、閑院宮3人、久邇宮15人、山階宮1人、北白川宮8人、梨本宮2人、賀陽宮3人、竹田宮3人、朝香宮4人、東久邇宮1人である。皇后になったのは久邇宮良子女王1人である。また梨本宮方子女王は朝鮮王族の李琨妃となっている。皇族妃となったのは、伏見宮知子(久邇宮朝融王妃)、有栖川宮利子(伏見宮貞愛親王妃)、賀陽宮佐紀子(山階宮武彦王妃)の3女王であった。これらの5人は結婚後も皇族(王族は準皇族的存在)としての地位と身分を得ていたのであった。皇族に次ぐ華族家に嫁いだ女王は42人、公爵家が7人、侯爵家が8人、伯爵家が15人、子爵家が10人、男爵家が2人、そして爵位がない家に嫁いだ女王は7人であった。
特徴的なのは爵位の無い家に嫁いだ7人の女王である。みな1929年~1945年にかけて生まれており、結婚したのは新典範制定以降の者たちばかりである。いわば戦後の新時代に結婚した女王たちであり、かつての身分関係による婚姻制度から自由になっていたことがうかがえる。これら7人の女王の結婚相手のうち歴史的な著名人は、伏見光子が嫁いだ尾崎行良で、「憲政の神様」と称された尾崎行雄の孫であり、日本航空取締役であった。とはいえ、名門ではあるが勲功華族でもなく、むしろ大衆勢力側の代表的な人物の家柄であった。そのほか、伏見章子はサッポロビール勤務の草刈広、久邇英子は本州製紙会長の三男で木下経営事務所の木下雄三、竹田素子は三友食品取締役の佐藤博、竹田紀子はレイケムカンパニーの渡辺宣彦、朝香美乃子は日新製糖常務の坂本善春と結婚した。
女王の離婚
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閑院宮華子
伏見宮貴子、閑院宮華子、久邇宮正子、賀陽宮美智子、東久邇宮文子の5女王が離婚を経験している。旧典範時代に離婚したのは伏見宮貴子である。貴子女王は松平直応伯爵と1877年に離婚後、同じ諸侯家の松平忠敬子爵と再婚している。美智子は旧典節時代の1943年に徳大寺実厚公爵の二男である斉定の夫人となるが1945年9月に李琨。その後、皇籍離脱で賀陽美智子となり、学習院大学フランス文学科を卒業、財団法人国際教育情報センター理事、菊医会名誉会長、煎茶道「永晈流」副総裁などを務めている。なかでも閑院宮華子の離婚は当時の世上の話題となり、かなり醜聞的なものであった。華子は賜姓華族の華頂博信侯爵家に嫁いでいたが1951年に離婚する。華子は満42歳、博信は46歳であった。戦前には海軍軍人であった博信との間に2男1女をもうけていたが、戦後になって読書好きの学者肌で養鶏場などを作ったりする博信と、社交好きでダンス教授などをする華子との関係に亀裂が生じたのであった。華子には工業クラブ嘱託の戸田豊太郎という愛人がおり、華子の実兄の閑院宮春仁王がこれに怒り、戸田との再婚を封じるために華子を軟禁して教会などに通わせた。ところが純仁夫人の直子(一条実輝公爵4女、閑院宮春仁王妃)が、純仁に同性愛癖があると暴露し1966年に離婚した。この間、華子は戸田と結ばれ、博信も再婚したのであった。


お釈迦さまの脳科学 4/4~日本で浄土教は念仏を唱える宗教に

すべてのお経は漢語訳されたときに道教や儒教の思想が混入しています。特に奈良時代や平安時代に中国から輸入された浄土教には、その傾向が強く表れています。日本で浄土教と言うと、鎌倉時代に成立した法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗を思い浮かべると思いますが、すでに飛鳥・奈良時代には入ってきているのです。天台宗にも、重要視されていなかっただけで浄土信仰はありました。ただし一般民数への浄土教が流行るのは鎌倉時代以降です。中国から来た浄土信仰では、浄土へ行くために臨終の床に阿弥陀如来の木像を置いて、赤い糸で手首をつなぐという儀式がありました。ほとんど道教の思想なのですが、赤い糸で阿弥陀如来の像と結ばれていると阿弥陀様と縁ができたので極楽浄土へ行けますよ、という理屈です。当時の仏像というのは、多くが宋から輸入されており非常に高価なものです。臨終の際に木像が必要となると、ごく一部の王侯貴族しか極楽浄土へは行けないことになってしまいます。浄土宗を開いた法然は、この矛盾に気が付きます。法然は「観無量寿経疏」を根拠に仏の名を唱えればよいと解釈しました。そして「誰でも南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土へ往生できますよ」と説き、日本で浄土教は大衆化したのです。
日本では寺が差別を進めた
日本に儒教が伝来するのは仏教伝来の少し前、5世紀あたりです。その後、日本は儒教は純粋な学問として重んじられるようになります。儒教は、先祖崇拝をベースとした差別的な思想ですが、江戸時代に差別的な「穢れ」思想を流行らせたのは、言いにくいことですが仏教だったのです。その象徴のひとつが「差別戒名」です。当時は被差別部落の人が亡くなったとき「寺が穢れる」という理由で墓にも入れないことがありました。墓を作ったとしても戒名は授けない。付ける場合には、「蓄男」「蓄女」といったように一般に戒名には用いない文字を使い、人目で被差別部落の人の墓だとわかるようにしていたのです。「穢」の文字そのものが戒名として付けられていたこともあります。しかも差別戒名は戦後になっても続けられていたことが、最近の調査によって明らかになっています。
なぜ、こうした差別が社会に根付いてしまうのでしょうか。穢れの思想は、「うつる」という概念から始まっています。「病気がうつる」「災いがうつる」というように、目に見えないものが自分に降りかかってくるイメージです。恐怖感を伴う情動は、非常に社会的洗脳に利用しやすいのです。そして、動物の死体を扱う仕事を「穢れ」と見ることから差別が始まります。もともと、死体が腐っていく様を見て汚いと思う感情から、それが「うつる」という常道を生じさせたのでしょう。衛生状態が悪く、病原菌に感染するというような科学的な根拠があるのであればまだ許せますが、人に対する差別感情は理由が異なります。衛星について全く知識のない、大昔の人々ならまだしも、現代人が「穢れ」を理由に差別することは絶対にあってはなりません。いずれにせよ、穢れの思想は仏教とは相容れない論理であり、釈迦はこうした差別を徹底的に否定していました。
『般若心経』を添削
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般若心経には形式だけでなく、言っている内容にも問題があります。最も顕著なのは、「色即是空、空即是色」という有名な一節です。これは中国語の倒置法で、色と空がまったく同じであると強調されているのです。「色」とは物質(有)のことです。物質に対応する概念は「無」です。「空」とは既に説明したとおり、有と無の両方を含む上位概念です。ですから、「色即是空」は、「物質とは空である」という意味になり間違いはありません。しかし、その次に続く「空即是色」は「空とは物質である」という意味なり問題があります。「犬は動物です」とは言えますが「動物は犬です」は間違いなのと同じです。
すべては「縁」によって「起」こる
これまで釈迦は神を否定したと何度も書いてきました。一神教で考えられている神とは、「それだけで絶対的なもの」です。カントの言葉で言う「アプリオリな存在」です。バラモン教のブラフマン(神)、道教のタオ(道)もアプリオリだと考えれていたものです。カントの時代には、時間と空間はアプリオリだと考えられていました。しかし、相対論以降、アプリオリなものはなくなりました。アプリオリなものは何もないということは、釈迦は「縁起」という概念をつかって説明しました。縁起とは「縁」によって「起」こると書きますが、それ単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っているという思想です。川の水で考えてみましょう。川からコップで水をすくったとします。この水が存在するためには、上流から流れてくる水も下流へと流れていった水も必要でした。コップの水だけではここに存在しえません。コップいっぱいの水がそこに存在するために宇宙がすべて必要です。これが縁起です。それを釈迦は「生じることもなく、滅することもない」と言っています。コップの水は無から生じたわけでもないし、消滅してしまうこともありません。水をコップから流しても水を構成する水素や酸素といった原子が消えてなくなることはないからです。





ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 2/5~磯田一郎の時代

イトマン事件については既に当ブログで取り上げているのでこちら↓
2011.01.11 http://www.ichizoku.net/2011/01/kaiga.html”>イトマン・住銀事件 ~イトマンをめぐる様々な疑惑
2011.01.06 イトマン・住銀事件 ~主役のお二人
磯田一郎
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イトマンがのめり込んでいたのは不動産だけではない。数々の美術品を買い込んでいた。モディリアーニの絵画を16億円で購入しているほか、加山又造や平山郁夫、佐伯祐三など巨匠の絵を気前よく億単位で何点も買っていた。関西の闇の紳士、許永中氏の関連会社3社から絵画・骨董品を総額676億円も買い取ったことが後に判明している。私はこのとき常務企画部長の任に就いていたが、だんだんわかってきた事態の中でも特に困ったことだと思ったのは、こうした絵画取引に磯田さんの長女である磯田園子さんが勤務していたセゾングループの宝飾販売会社でピサという会社が間に入っていたことだ。今まで私を含めて誰も住友銀行関係者は語ってこなかったことがある。この機会にあえて申し上げよう。イトマン事件は磯田さんが長女の園子さんをことのほか可愛がったために泥沼化したのだと私は思う。磯田さんの溺愛ぶりを示すこんなことを耳にしたことがあった。後に結婚することになるアパレル会社社長の黒川洋氏と磯田園子さんがロサンゼルスに駆け落ちした。それを認めるわけにいかず困っていた磯田さんは、秘書を派遣して2人を連れ戻させたのだ。磯田さんの秘書は園子さんに振り回されて本当に苦労したようだ。そういう磯田さんに父親として娘の事業を後押ししたい気持ちが無かったわけがない。磯田さんが溺愛していることを知って、イトマンの川村社長も伊藤常務も彼女の面倒をよく見ていたようだ。人間としてあるいはバンカーとしての磯田さんは素晴らしいと思う。しかし長女の存在が磯田さんの判断を決定的に狂わせた。平和相銀を手に入れるときに大活躍した河村社長に引導を渡し自分の手でクビを切ることができなかった。河村社長が伊藤寿永光氏を追放するどころか常務にすることを阻止しなかった。住友銀行の誰もが河村社長を辞任させないとイトマン問題は解決しないと思っていたし、伊藤氏や許氏が闇世界とつながりがあることはこの時点では分かっていたはずにもかかわらず。だから私はこの問題の始末をつけるには磯田会長の退任が不可欠だと考えた。
> あちゃー、結局、頭取のご家族問題で3000億円溶かしちゃったか


ヴェニスの商人の資本論 2/3~中央銀行券発行は富の形成

英語のどの受験参考書にも例文として載っているように、”The proof of the pudding is in the eating” すなわち、プディングであることの証明はそれを食べてみることである。だが、分業によって作る人と食べる人とが分離してしまっている資本主義社会においては、プディングは普通お金で買わなければ食べられない。プディングがプディングであることの証明、いや、プディングがおいしいプディングであることの証明はお金と交換にしかえられない。たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを買おうかと考えているとき、あるいは喫茶店でプディングを注文しようかどうか考えているとき、人はプディングそのものを比較しているのではない。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの中のプディングの外見であり、メニューの中のプディングの写真であり、さらには新聞・雑誌・ラジオ・テレビ等におけるプディングのコマーシャルである。これはいずれも広い意味でプディングの「広告」にほかならない。すなわち、資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じて初めて商品を比較することができるのである。広告とは常に商品についての広告であり、その特徴や他の商品との際について広告しているように見える。だが、人が例えばある洋菓子店のウィンドウのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、あるいはある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社の寄りも迫力に乏しいと思うとき、それは広告されているプディング同士の差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に「広告の巨大なる集合」のなかにおける広告それ自体の間の差異を問題にしているのである。広告と広告との間の差異-それは、広告が本来媒介すべき商品と商品の間の際に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。広告が広告であることから生まれるこの過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業の広告活動によって立つ基盤なのである。


皇族に嫁いだ女性たち 1/4~皇室典範改正

男系男子による皇位継承問題は、過去に小泉純一郎内閣において皇室典範改正の動きがあり、男女に関わらず出生順位により皇位継承者を決め、結果として女系天皇の存在を容認する可能性が高まった。多くの国民も時代の女帝として推定される敬宮愛子内親王への共感から、こうした典範改正を期待した。しかし、一方には男系男子へのこだわりがあり、神武天皇以外の男系子孫であることが行為の証であるとして譲歩することがなかった。その後も典範改正の動きは秘密裏に進んでいると聞くが、その改正案の一つは、女系を排除するために、天皇家の男系を保持しているとされる旧皇族を復活させようとするものであるとも言われる。こうした旧皇族復活論には反対意見も多く、その理由の
第一は、男系と言っても遠い室町時代までも遡るためである。明治期に皇族として存在してはいたがその多くは政治的理由によるものであり、現在の皇室とは血統上はかけ離れすぎた存在で、かつその数の多さに減らしていくことが当時からの課題であったからである。
第二は、旧皇族家には皇籍離脱以来、現皇室に対する少なからぬ複雑な感情があり、そのことは皇后美智子以後の民間出身皇族妃の出現で増幅され、男系問題にかこつけて現皇室の皇統を変えようという意図が見え隠れするからである。
第三は実際に旧皇族家を復活するにしてもどの家が該当するかは難しい。
第四に旧皇族を復活してもそこに男子が生まれなければ意味がないことである。現皇室は秋篠宮家はじめ常陸、秩父、高松、寛仁親王、桂、高円の八宮家がある。しかし、平成18年2006年悠仁親王が誕生するまで男子は生まれなかったのである。
変遷する皇族の定義
古代から現代までの皇族の定義や範囲の法的な変遷を考えると、大宝元年(701年)の大宝令の継嗣令、明治22年の旧典範、昭和22年の新典範が大きな基準となっていたと言える。継嗣令以前は、皇族の呼称やこれを明確に定義する法令はなく、「天皇の後胤」という漠然とした範囲で把握されていたと考えられる。皇族を示す呼称も何世までを皇族とするかの明確な規定もなかったのである。継嗣令により「およそ天皇の兄弟、皇子は、みな親王となす。女帝の子もまた同じ。それ以外はいずれも諸王となす。新王より5世は、王の名を得ても皇親ではない」とはじめて皇族の概念が定められ、皇族は皇親と称されたのであった。
明治維新を迎えると、慶応4年(1868年)に、継嗣令に基づき、改めて皇兄弟と皇子を親王、それ以外を諸王とし、5世王は王名を称するが皇族の範囲に入らないと定め、大宝令制定以後、長年にわたり混乱してきた皇族の定義を再調整したのであった。そして明治22年の旧典範制定で近代法治国家に適合した近代皇族が誕生するのであるが幕末維新期における親王らの功績もあって四親王家や還俗した皇族などに設けた制限や特例が、かならずしも旧典範の条文と一致せず、いくつかの矛盾と問題を残すこととなった。その典型的な例が、旧典範にある「五世」の概念の問題である。旧典範は「五世」までを親王・内親王、「五世以下」を王、女王としたのであるが、この「五世」とは実系であり、法規上は明治天皇あるいはその先代である孝明天皇(121代)、仁孝天皇(120代)の実系でなければならなくなる。


お釈迦さまの脳科学 3/4~大乗仏教には大天才が生まれた

当時の口語であるパーリ語で経を残した上座部仏教は正しいと言いました。しかし、上座部が忘れている事があります。それは釈迦は「誰にでも理解できるよう、そのときの言葉で語り継ぎなさい」という意味で弟子に指示したということです。今、パーリ語を日常の言葉として使用している人はいません。ですから、パーリ語のお経で布教活動をしている上座部は、釈迦の言いつけを半分しか守っていないことになります。もちろん、お経をはじめからサンスクリット語で書いてしまった大乗は最初から失格です
しかし大乗仏教は釈迦のオリジナルの教えから逸脱した、もしくは反する教義を取り入れてしまった反面、釈迦の教えをより理解し発展させた大天才が登場したのです。それが、釈迦の縁起説を「空」という概念で説明したナーガールジュナ(龍樹・150年~250年ごろ)であり、チベット仏教を完成させたツォンカパ(1357年~1419年)です。ツォンカパはダライ・ラマが所属するゲルク派の開祖でもあります。ナーガールジュナは正確な伝記が残されていないため、実在の人物かどうかわかりませんが、少なくとも彼の著作とされる『中論』を読む限り、釈迦の思想を一つの形で表すことに成功しています。ただ、ナーガールジュナの他の著作には、「浄土」といった「空」の概念とは矛盾した記述も多く、すべてを評価できるわけではありません。もしかするとナーガールジュナはひとりではなく、複数の人物の書き残したものがナーガールジュナの作として後世に伝えられた可能性があります。
「空」とはもっとも抽象度の高い概念
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人間は概念によって物事を認識しています。例えば、犬という概念について考えてみましょう。人は「チワワ」も「プードル」も同じ「犬」として認識することができます。「犬」に対して「チワワ」「プードル」はより対象が限定された具体的な概念です。これを抽象度が低くなったと表現します。もっと具体的に「隣の山田さんが飼っているポチ」になるとさらに抽象度が下がります。具体的であるほど、抽象度は低くなるのです。反対に、「ペット」は、「犬」より抽象度が高い概念です。さらに、「ほ乳類」「動物」「生物」・・・と抽象度を高めていくと、どんどん具体性が低くなっていきます。抽象度が高い概念は、具体性という情報量は少なくなりますが、より多くの概念を含むことができます。


ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 1/5~預金集めの毎日

日本経済は高度経済成長期とはいえ、戦後間もない時期で経済に厚みが無く、常に外貨が不足していて、すぐに「国際収支の天井」になってしまい、その度に金融引き締めが行われていた。銀行は日銀の窓口規制が厳しい一方で、民間の資金需要に応えなければならなかった。それまで、預金集めと言えば富裕層を主体にしていた。一般のお宅にお伺いしてまで預金を集めるようなことはやっていなかった。そのため旺盛な資金需要に応える原資が慢性的に不足していた。そこで大手の銀行は金融市場というマーケットで資金を調達することになるが、当時は銀行が振り出した手形やコールローンなどで資金調達していた。これらの資金は、例えば地方銀行や信用金庫、年金などが市場に放出したお金だ。その資金を大手銀行が調達するのだがこれが預金金利よりはるかに高い金利なのだ。その金利水準が最高16~17%といったこともあった。しかし、そんな高い金利では誰も借りない。貸出金利は公定歩合と連動した水準で、長期プライムレートでは8%程度、短期ではもっと低く設定されていた。高い金利で調達した資金を低い金利で貸し出せば、逆ザヤも極まって銀行はたちまち大赤字になってしまう。
「国際収支の天井」:当時の日本企業は、設備投資を行うためのさまざまの機材を輸入に頼っていた。一方で、輸出は安価な繊維製品が主流である。国内が好景気に沸けば輸入が増えるので、貿易収支が悪化する。外貨準備が底をつき、設備機材や原材料が輸入できなくなる


ヴェニスの商人の資本論 1/3~利潤とは価値体系の間にある差異

サレーニオとサリーリオ、あるいはサリーリオとサレーニオ-お互いに取替え可能な名前を持ち、お互いに取り替え可能しか台詞しか述べることの無いこの二人の友人は、まさにその取り替え可能なことゆえに、アントーニオの友人の中で最も取るに足りない人物であることを象徴している。そして、実は、この取るに足りない二人の男たちの取るに足りない台詞によって、『ヴェニスの商人』のテキストはそれ自身をめぐってその後なされた数限りない批評の取るに足りなさを先取りしているのである。たとえば、アントーニオの憂鬱とは一体どのような内面における原因に基づくものであるかを検索したり、かれと対立するユダヤ人シャイロックの性格が滑稽な悪役として描かれているのかそれとも悲劇の主人公として描かれているのかを決定しようとしたり、『ヴェニスの商人』という劇において作者シェイクスピアは一体何を言わんとしたのかを吟味すると言った類の批評を。
利潤とは、詐欺、ペテン、泥棒、掠奪といったまさに不等価交換が行われているところでしか生み出されえないものなのであろうか?利潤とは、等価交換からは決して生み出されないものなのであろうか?この問いに対する答えは、しかし、否である。実は、あくまでも等価交換の原則にもとづきながらも利潤を生み出すことのできる場所が、いわば場所ならぬ場所において存在するのである。二つの異なった価値体系の狭間-それが、そのような場所、いや非場所である。すなわち、お互いに異なった二つの価値体系の間を媒介して、一方で相対的に安いものを買い、他方で相対的に高いものを売る-それが、等価交換のもとで利潤を生み出す唯一の方式である。利潤とは、価値体系と価値体系の間にある差異から生み出される。利潤とは、すなわち、差異から生まれる。


お釈迦さまの脳科学 2/4~最先端の物理学、数学では神は否定された

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1980年代以降、科学の世界では大きなパラダイム転換を迎えます。不完全性定理は、クルト・ゲーデルによって1931年に発表された定理ですが、簡単に説明すると不完全性定理とは「一つの系が完全であることを、その系において証明することはできない」ということです。これが数学全般にわたって証明されたのは1980年代に入ってからです。また、同じ時期に物理学の世界でも「すべての物理現象に不確実性がある」という量子論が証明されました。神を「それだけで完全なもの」もしくは「すべてを決定するもの」と定義するなら、神は1980年代に科学によって完全に否定されたのです。世界の知のトップレベルでは「この世に完全性はない」ことは、当たり前です。今、唯一絶対の神を信じる科学者がいるとすれば、数学や物理学を知らないということになります。ところで、この現代の科学者が何十年もかけて証明した結論を、2500年前に語っている人がいました。それが釈迦です。釈迦は数学も物理学も用いず、瞑想という思考実験でそれを解明してみせました。宗教で量子論と同じ結論に至ったのは、仏教しかありません。
インドに墓はない
実際に行ってみるとわかりますが、インドには日本にあるような墓や霊園はありません。キリスト教の墓はありますが、ヒンドゥー教や仏教の墓は存在しないのです。ちなみに、世界遺産として知られるタージ・マハルは、王妃の墓として建てられましたが、イスラム文化の時代に作られたものです。現在でもインドでは人が亡くなると、その遺体をそのままガンジス川に流す風習が残っています。インドでも儀式としての葬儀は行われています。釈迦はそれも弟子に禁じました。なぜならば、宗教は生きている人間のためにあるべきであり、死んだらただの物質である、というのが仏教の考え方だからです。ただし、釈迦は一般の人が死者を弔うことまでを禁じたわけではありません。


フェイスブック若き天才の野望 4/4~ライバルと協力者

ザッカーバーグの長期的枠組みと確実に議論の余地なく一致するビジネス戦略をまとめるために、サンドバーグ会議の参加者たちは、ただ広告が重要だという議論にとどまらなかった。彼らは、フェイスブックの持つ機会を明確化し、差別化するための重要な特質にたどり着いた。グーグル-サンドバーグの古巣であり、紛れもなくインターネット広告の王者-は、ユーザーが欲しいかを決めているものを探す手助けをする。これに対してフェイスブックはユーザーが何が欲しいかを決める手助けをする。グーグルで何かを探すと、検索ボックスに打ち込んだ単語に応じた広告が表示される。その広告がユーザーにとって的を得ていることが非常に多いため、このプロセスはグーグルに何十億ドルという金をもたらす。しかし、ふつうユーザーがそこでクリックするのは、自分が探しているとわかっているものに応じた広告だ。広告用語で言えば、グーグルのアドワーズ検索広告は「要求を満たす」。対照的に、フェイスブックは要求を生み出す。グループはそう結論を出した。それが長年テレビを支配してきたブランド広告のしていることであり、広告宣伝費の大半が費やされている場面でもある。ブランド広告は人の脳に新しいアイデアを注入する-ほら、あなたはこれにお金を使いたいはずですよ。しかし、その種の広告がグーグルで上手く働いたためしはない。ユーザーが検索フィールドに「デジタルカメラ」というキーワードを打ち込めば、グーグルの検索を通じてキャノンのカメラが見つかるかもしれない。しかし、ユーザーにデジタルカメラが欲しくなるよう説得する上手い方法をグーグルを見つけたことがない。そのような方法を探究するグーグルの取り組みの結果、同社はソフトウェアがメール中の単語を監視して、ユーザーが反応すると思われる広告を表示するというGメールサービスに力を入れている。グーグルがあれだけ成功していても、その事業のほぼすべてが、広告業界全体から見て比較的小さな領域内で展開されている。全世界で年間6000億ドル使われる広告宣伝費のうち、わずか20%がすでに何が欲しいかわかっている人たちに向けた広告に費やされていることを、サンドバーグの調査員たちは発見した。残りの80%、すなわち年間4800億ドルは、今後の広告出費が次々とインターネットにシフトするにつれ、容易にフェイスブックの手の届くところに来る。インターネットは、テレビ、新聞、さらには雑誌からも消費者をもぎ取っていく。そして、そのインターネットの利用時間のうち、不釣合いな量をフェイスブックが取っている。いまやフェイスブックは、米国内およびほとんどの国で、ネットユーザーの費やす時間が圧倒的に多い場所である。


解任 マイケル・ウッドフォード オリンパス元CEO 4/4~改革失敗

結局のところ、ジャイラスおよび国内3社買収に関する巨額の支払いは、以前の経営陣から引き継がれてきたバブル期前後の財テクの損失を隠蔽するために使われていたのです。
アメリカ時間の11月30日(日本では12月1日)、私はニューヨークで会見を開きオリンパスの取締役からの辞任を発表しました。事前に宮田に電話した際に「オリンパスを見捨てるのか?」と言われましたが、もちろんそんなつもりはありません。その逆です。結局、先日の取締役会を経て、私が会社に残っていても、内部からオリンパスを改革するのは不可能だと確信したのです。社内の一取締役として私はいまだ完全に孤立していましたし、今の立場では外部の投資家、株主などと連携して再建の道を模索することも許されません。その前日に会社が発表した「経営体制の刷新と将来ビジョンの提示の検討体制の構築について」という声明に危機感を覚えたのも辞任のきっかけになりました。新たなコーポレート・ガバナンスの仕組みを作り、経営陣を一新するというその発表の方向性の評価できましたが、その検討チームの責任者を社長の高山が務めるというのです。旧経営陣を擁護してきた彼が、ガバナンス強化の責任者になるなど悪い冗談にしか思えませんでした。責任を問われ一新される経営陣が次の経営陣を選ぶ、などということが許されるのでしょうか?
オリンパスに真に必要なのは、現経営陣から完全に独立した新しい経営陣です。新しい経営陣なくしては傷ついた会社の評判を回復することはできません。そこで私は仲間たちと相談のうえ、取締役を辞任してプロキシーファイトに持ち込むことにしたのです。つまり、私を含んだ新経営陣案を提案し、株主による多数の賛同を得て、臨時株主総会で可決させようと言うプランです。私はそれがオリンパスにとってベストの選択だと考えました。会社の重要な意思決定は株主によってなされるべきです
> 日本人の世界は、会社の重要な意思決定は取締役会という密室で決められるべきってのが、日本の常識だから、それは違うんだわ。


お釈迦さまの脳科学 1/4 ~日本には仏教は伝わっていない

実は歴史を振り返ってみると、控えめに言っても、日本に「本当の仏教」が伝えられたことはなかったのです。ご存知のように、日本の仏教は中国を経由して伝えられました。仏教を日本に持ち込んだ人物として有名なのは、遣唐使船で中国に渡った最澄や空海です。空海は密教を日本に伝え真言仏教を完成させ、最澄は日本天台宗を開くことで後の日本仏教の礎を築きました。しかし、彼らが中国にいった時代には、すでに中国の仏教は道教から強い影響を受けていました。空海の場合はインド人の高僧(般若三蔵)から直接にサンスクリット語や密教を学んでいますし、最澄の学んだ天台教学は、天才・天台智顗(ちぎ)により一つの完成された仏教でありましたが、それでも釈迦の時代の仏教とはだいぶ異なっているのです。
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いずれにせよ、日本の仏教は道教・儒教と習合した中国仏教をベースに発展しています。その証拠は、あらゆるところで見ることができます。例えば、葬儀です。仏教式のお葬式は、中国の先祖崇拝の文化とともに作られました。戒名が書かれる位牌は、儒教の葬式に用いられていた「神主」(しんしゅ)が元になっています。死者の官位を書くための札なので、位牌と呼ばれているのです。また、日本でありがたがられているお経の中にも、インドではなく中国で作られたと推測されるものがあります。釈迦にもっとも近いとされる禅宗も、その起源は中国にあります。また、インドにおいても仏教は釈迦の死後、バラモン教や後のヒンドゥー教の影響を受けてかなり内容は変わっています。
仏教がバラモン教などの宗教と信徒を奪い合うことになり、呪文(マントラ)や法具、護摩焚きなどバラモン教の要素を取り入れるのです。それらは現世利益を与えるので、信者の獲得に有利でした。これが中期密教と呼ばれるもので、中国でも広まり、日本に伝えられます。これまで日本人が仏教として学んだものは、バラモン教や中国文化の影響を強く受けたもので、仏説つまり釈迦の教えからだいぶ変化しています。誤解して欲しくないのですが、私は日本仏教が劣った宗教だといっているわけではありません。空海は全く新しい宗教を作った大天才でしたし、浄土真宗の親鸞もキリスト教に匹敵する、世界宗教になりえる思想を生み出したと考えています。しかし優れた宗教ではあっても、それをそのまま釈迦の教えということはできないのです。
釈迦のオリジナルの教えに日本人が触れられるようになったのは、仏教学者でも昭和に入ってから、一般の人たちには21世紀に入ってからです。近年、より釈迦のオリジナルな教えに近い、スリランカなどで伝えられる上座部仏教(テーラワーダ仏教)が日本でも紹介されるようになり、興味を持つ人が増えてきました。日本で積極的に著作活動や瞑想指導をおこなっているアルボムッレ・スマナサーラ長老がその代表でしょう。大乗仏教の国とされる日本では、彼らの上座部は長い間「小乗仏教」と貶められてきましたが、上座部仏教では、釈迦の原型に近い教えや修行方法が伝統として受け継がれています。
また、ダライ・ラマ法王の世界的な活動によって、インドの後期密教の姿を色濃く残しているチベット仏教も注目を集めています。チベット仏教は、インドの後期密教がベースになっています。中期密教ではバラモン教は現世利益の思想が導入されましたが、さらに時間が経ち、後期密教になるともう1度、瞑想を中心とした修行に戻っていきます。チベット仏教にもマントラや法具は残っていますが、その数は少なく、しかも瞑想のために使われる道具にすぎません。後期密教では、釈迦の教えに立ち返っているのです。
オウム事件以降の約10年間、オカルトを題材にした番組が全く放映されなかったことで、オカルトに免疫のない人がたくさん育ちました。そして皮肉なことに、再びテレビがスピリチュアルなど、オカルト的な番組を流すと、免疫のない世代、またオウムの記憶が薄まってしまった人は、これらを批判なく受け入れるようになってしまいます。特に若い世代には、それ以前にオカルトについて知識を得る経験がなかったために、簡単にバカな論理にはまってしまったのです。こうして2005年から2007年にかけて、細木数子氏の占いブーム、江原氏によるスピリチュアルブームが起こりました。スピリチュアルと言うと、ソフトなイメージがありますが、魂や生まれ変わりを認める心霊主義でありオカルトの一種に違いありません。かつてのオウム真理教の信者なら、簡単にスピリチュアルブームにはまることはなかったでしょう。彼らの中には、天理教や阿含宗、場合によっては統一教会といった新宗教を一通り経験して、最後の行き先がオウムというような信者が珍しくありませんでした。彼らは、宗教やオカルトについてに知識をそれなりに得てはいたので、そこの浅いスピリチュアルブームなど歯牙にもかけなかったことでしょう。
「あの世」を説く宗教の論理は、ときとして「この世」に様々な問題を引き起こします。日本ではオウム事件であり、海外ではイスラム原理主義者によるテロです。もちろん、イスラム教自体が悪いのではなく、信仰心を利用して人を殺すように仕向けている一部のイスラム原理主義の勢力に問題があるのは言うまでもありません。経典が絶対の存在であるという原理主義は戦争やテロに利用されやすいです。前アメリカ大統領のジョージ・ブッシュがイラク戦争を始めたときもそうだったように、いまだに戦争には神の名が使われているのです。実はアメリカはキリスト教原理主義の影響力がきわめて強い国です
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これには歴史的な理由があります。アメリカの建国神話は、「1620年、イギリスで迫害されていた清教徒(ピューリタン)たちがメイフラワー1号で新天地を求めて新大陸に渡ってきた」というものです。清教徒はプロテスタンティズムの中でも、カルヴァン派の思想を受け継いでいるといわれています。プロテスタンティズムは16世紀の宗教改革によって生まれて宗教思想ですが、特にカルヴァン派は、当時世俗化し堕落したカトリック教会に対して、聖書を唯一のよりどころにすべきだ、という一種の原理主義運動なのです。正教徒によってアメリカが建国されたという歴史的根拠は実は怪しいのですが、こうした建国神話があるために、アメリカではプロテスタントの力が強く、様々な政策に影響を与えています。神の為なら自爆テロもいとわない一部のイスラム原理主義と、キリスト教原理主義が政治を動かすアメリカ、どちらも自分が信じる神こそが唯一絶対の神であるという考えを捨てない限り、今後も戦争がなくなることはないでしょう。






フェイスブック若き天才の野望 3/4~開放と公平性

自分自身をどこまで世間に見せるべきか。これはフェイスブックが我々に突きつけた重要な課題である。私はフォーチュン誌でテクノロジーを担当するベテラン記者で、、フェイスブックについて本を書いていることを、あなたに知ってほしいだろうか。それとも、57歳で、画家の夫で、ティーンエイジャーの娘を持つ父で、時折詩を書く、元組合活動家だったことを伝えるべきだろうか。これまでは社会的状況に応じて、たいていこの二つのうちどちらかの自分を見せてきた。私のフェイスブックで唯一のプロフィールには、およそ何もかもが暴露されている。
これは偶然ではない。ザッカーバーグがフェイスブックをそのようにデザインしたのだ。「アイデンティティーはひとつだけ」。ザッカーバーグが2009年に行ったインタビューで、1分間にこれを3回強調した。フェイスブックを始めた頃、大人のユーザーには仕事用のプロフィールと「楽しめるソーシャル用プロフィール」の両方を用意すべきだという声があった。ザッカーバーグは常に反対した。「仕事上の友達や同僚と、それ以外の知り合いとで異なるイメージを見せる時代はもうすぐ終わる」と彼は言う。「2種類のアイデンティティーを持つことは不誠実さの見本だ」「現代社会の透明性はひとりがふたつのアイデンティティーを持つことを許さない」
> すいません。FBアカウント2つも作っちゃってw


解任 マイケル・ウッドフォード オリンパス元CEO 3/4~報道

23日には「ニューヨーク・タイムズ」が佐川とアクシーズ・ジャパン証券の中川昭夫のジャイラス買収への深い関与を報じて、2人の行方を追っていました。同紙は翌日にも、オリンパス子会社のベンチャーキャピタルITX元社長の横尾昭信とその弟で投資顧問会社グローバル・カンパニー社長の横尾宣政の国内3社買収への関与を続報しました。『ニューヨーク・タイムズ』はグローバル・カンパニーの東京のオフィスを取材しましたが、すでにもぬけの殻でした。興味深いことに、佐川、中川、横尾宣政は全員野村證券の出身でした。
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> www、いいね。嫌味っぽくてw
私は可能な限り取材を受けていました。「日経ビジネス」、「週刊ダイヤモンド」、「産経新聞」のインタビューに答え、事件の経緯を繰り返し説明しました。CNNにも生出演しました。オリンパスや菊川のことは忘れて新しい人生に踏み出すこともできたはずです。ですが、30年勤めた会社を簡単に頭から追いやることはできません。宮田もオリンパスのために私が会社に残ることを強く望んでいました。彼は私の復帰が社員と世界中の株主のためになると信じてくれていました。


世界最大級プライベートエクイティ投資会社の日本戦略 カーライル 2/2

クオリカプスのどこに企業価値を上げる余地があったのか。旧株主の塩野義は日本企業の目線でクオリカプスをとらえていた。日本の製薬市場ではカプセルは脇役である。日本の製薬会社はまず錠剤化を目指す。と言うのも日本の患者は粒の小さな錠剤のほうが飲みやすいと考えているからだ。できないものだけがカプセルに格納される。だからカプセルの市場はそれほど伸びないと日本目線の株主は考えるのである。ところが医薬品市場で日本の割合は市場の10%に過ぎない。世界の製薬市場、言い代えればカプセル市場の50%は米国、35%は欧州、残る5%が新興国つまりインドと中国、南米が占める。米国や欧州の目線ではカプセル市場は伸びない市場とは見られていない。消費者も医者も製薬会社もカプセルを脇役と考えていない。しかも医薬品用カプセル市場の目線で眺める者にとってクオリカプスの市場は成長市場であった。
では競争はどうか。意外なことに医薬品のカプセルの製造は、高い技術力が必要とされる参入障壁の高い事業である。実際にグローバル市場は、ファイザーの子会社で世界一位ののカプスジェルと2位のクオリカプスの2社で寡占されている。少なくとも欧米の巨大製薬メーカーの生産にあわせてグローバル供給のできるサプライヤーはこの2社以外にはいない。日米欧いずれかの市場で強いローカル企業を入れても、競争企業は5~6社といったところである。なぜカプセルを作るのがそれほど難しいのか。溶解したゼラチンが時間とともに固まってくるプロセスにおいて気温、湿度、圧力、ゼラチンの残量そして時間といったさまざまな変数の中で、均質なカプセルを製造するプロセスコントロールが難しいのである。上下2つのカプセルはぴたりとはまって外れないぎりぎりの精度で大きさが仕上がることが必要であり、割れたりへこんだりした不良品が混じっていないことが要求され、均質な厚みで高速充填に耐え、かつ胃の中では一定の時間で消化されることが大切である。


臆病者のための株入門

橘玲好きなんだけどなぁ。この本はかなり酷い、本当に本人が書いたのかな? 株式市場に対して、素人が中途半端にモノ言うことに対して私が厳しすぎるのだろうか?

私が株に興味を持ったのはかれこれ10年くらい前(2006年発行だから1996年)、「ビル・ゲイツ未来を語る」を読んですっかり感化された私は、この革命児が経営する会社に投資することを思いつき、その頃勤めていた会社の近くの日本一大きな証券会社の支店に生まれてはじめて株を買いにいった。応対してくれたのはちょっと世を拗ねたかんじのおじさんで「マイクロソフト?そんな会社、きいたことありませんねえ」と慇懃な笑いを浮かべ、「株をおやりになるのなら、すこし勉強なさったほうがよろしいんじゃありませんか」と、カウンター脇に置いてあったパンフレットをくれた。

うん、でも買わなかったんですよね。いるんですよ、後出しじゃんけんトーク。「あの時、アップル買おうと思ってた」聞き飽きるほど聞いている敗者の戯言ですよw


フェイスブック若き天才の野望 2/4~女は写真好き

「ぼくらが写真を見る時、何をまず一番気にするだろうって考えた。それは誰が写っているかじゃないかって思いついた」 フェイスブックの写真には、そのなかに写っている人間の名前をタグ付けできることになった。写真チームはさらに二つの重要な機能追加を決めた。次の写真を見るには、単に現在表示されている写真のどこかをクリックするだけでよい。他のサービスのように「次へ」ボタンを押さなくともいいようにした。もう一つの決定は一種の賭けだったが、フェイスブックに保存される写真の圧縮度を思い切ってあげたので、表示される写真の解像度がはっきりわかるほど落ちた。これは写真のアップロード速度を上げるためだった。ユーザーは数分で大量の写真をアップロードできた。問題はユーザーが低い解像度を受け入れるかだった。それに写真へのタグ付けはどのくらい利用されるだろうか?10月の末、チームは不安を抱きながら写真機能を公開した。巨大なモニターにはユーザーがアップロードしてくる写真がリアルタイムで表示されるようになっていた。最初の画像はネコの漫画だった。チームは顔を見合わせた。と、1分ほどで写真が現れ始めた。女子学生の写真だった。女子学生のグループ写真、パーティー写真、他の女子学生を撮っている女子学生の写真。そして写真にはタグが付けられていた!女子学生の写真が奔流のように流れ込んだ。女性の写真がモニターいっぱいに並ぶ中に、男性が写っている写真は数えるほどだった。女性たちはお互いの写真をアップロードすることで友情を確かめ合っているらしかった。
> ネコと女。僕のアカウントでもそんな感じです。


解任 マイケル・ウッドフォード オリンパス元CEO 2/4~火種

解任された10月13日の2ヶ月前のこと・・・
記事の見出しは、「オリンパス-『無謀M&A』巨額損失の怪」とかなり挑発的でした。悪魔のように見える菊川の写真が使われています。記事によればオリンパスが売上高がそれぞれ2億円にも満たないベンチャー企業3社(産業廃棄物処理会社アルティス、電子レンジ容器の企画/販売を行うNews Chef、化粧品や健康食品を通販するヒューマラボ)を08年3月期にあわせて700億円近くで買収、子会社し、翌年にはほぼその全額を秘密裏に減損処理したというのです。また500億円、総資産が1000億円程度のイギリスの医療機器メーカー、ジャイラスを2700億円もの高額で買収したことについても触れていました。さらに記事は、この不明朗なM&Aによる損失と怪しげな投資顧問会社グローバル・カンパニーとの関係を指摘して会長の菊皮の経営責任を激しく追及していました(『FACTA』2011年8月号、7月20日発売)
菊川剛
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世界最大級プライベートエクイティ投資会社の日本戦略 カーライル 1/2

米国では大企業の株主が非常に短期間、つまり1年か2年で企業を売却してしまう。極端なことを言えば、株主が所有者ではなくトレーダーになってしまっている。一方で日本の問題は正反対だとガースナーは言う。日本の株主は、非常に長期に会社の株を保有する。しかも非常に目立たない株主として保有する。この正反対の状況は、どちらの場合も共通の不健全な状況を引き起こす。つまりマネジメントを適正にガバナンスする者が不在になるのである。米国のように1年で交代する株主には長期の視点で経営者を統治するインセンティブはない。一方で、長期にわたって株式を保有する日本の機関投資家の場合は、物言わぬ株主であり続けてきた結果、企業ガバナンスからは遠い存在となっている。皮肉なことに過去数年において、株主が経営陣に対して一番強い要求をつきつけてきたのは中国だったという。「中国では政府が株主だったわけです。だからそれなりに企業に対して政府がこういったことをやれと命令するアジェンダを持っていた」 それは経済的な競争力と言うよりは社会的な目的、つまり雇用に重点が置かれていた。


フェイスブック若き天才の野望 1/4~大学内SNSとして

フェイスブックは75種類の言語で運営されており、活動中のメンバーの75%はアメリカ以外の国民だ。フェイスブックのユーザー人口では依然アメリカが最大だが、2位が英国、トルコ、インドネシア、フランス、カナダ、イタリア、フィリピン、スペイン、オーストラリア、コロンビアと続く。
> あれ?日本は?ミキシー?高学歴諸君はFB利用率高そうだが、メールアドレスがドコモとかの人って使ってなさそうねw
フェイスブックが最終的に成功を収めることができた重要な理由の一つは、大学で始まったことだ。大学では人間関係が濃密だ。多くの人々は一生のうちで大学時代に最も活発に友達と交流する。この事実をモスコヴィッツは彼らの運命を大きく変えた春学期に学んだ。モスコヴィッツは、ザ・フェイスブックのトラフィックから得られたデータを用いて統計学のレポートを書いた。そこで彼は次のような法則を発見したと述べている。
あらゆる大学において、すべての学生は2次以内のつながりで知り合いであった
つまり学生たちは平均するとたかだかひとりの媒介者を通じて知り合いであるということだ。
> ってことは、任意の二人選ぶと、共通の友達がいるということになる。そこまで狭くないよなぁ・・・。大学時代の友人のほうがFBでつながりやすいという傾向はあるが・・・。


解任 マイケル・ウッドフォード オリンパス元CEO 1/4~生え抜き社長

私は21歳でオリンパス傘下のキーメッド社に入社して以来、オリンパスに30年の歳月を捧げ、思いがけなくもその社長となりました。当時、日本の有名企業では、日産のカルロス・ゴーン、ソニーのハワード・ストリンガー、日本板硝子のクレイグ・ネイラーらの外国人トップが活躍していましたが、私とこの3人には明確な違いがあります。彼らがそれぞれの事情で外部から社長になったのに対して、私は「生え抜き」の「サラリーマン」社長でした。私は会社に長年の忠誠を尽くし、世界の同僚たちと協力して身を粉にして働き、海外の販売会社、地域統括法人で利益を上げ、そして、2011年4月、オリンパス・グループを率いる社長になったのです。妻子をイギリスに残し、代々木公園近くの渋谷のマンションに単身赴任して、日本の優秀な「ものづくり」企業であるオリンパスの改革を前進させる使命を全うするつもりでした。
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ハイエク マルクス主義を殺した哲人 3/3~平和的商業主義

お金の自由こそが幸福の源 貨幣はこれまで発明されてきた自由の道具のうち最も偉大なものだ
計画経済は独裁的な方法を必要とするから、責任と権力を一人の統制者の手に委ねるべきであり、統制者の行動は民主主義的手続きから解放されなければならない、という計画主義の主張があります。そういう議論が出てくるとき、統制経済は生活の心配がないようにするものであり、ただ経済問題にだけ適用して他のことには関与しないとか、生活の不安がなくなりもっとレベルの高い価値を追求する自由を得るだろう、というようなことが、計画主義者の口から発せられるとハイエクはいいます。これは計画経済、統制経済の悪魔のささやきなのです。
「経済的動機」と呼ばれるものは「チャンス全般への希望」であり、お金は色々な目的を達成するための力への欲望を意味するに過ぎないとハイエクは説明しています。お金があったら外国に行こう、温泉に行こう、別荘を構えよう、子供を大学にやろう等々、そういう目的のためにお金が必要だということはいうまでもないことでしょう。もし、お金だけを純粋な目的とする人が居るとすれば、それは病的な守銭奴以外にないとハイエクに言います。また、世の中にお金があるから貧乏があるとか、お金を憎むというのは、手段と目的を取り違えています。そして、お金は最も広い選択の幅を与えてくれるものであり、自由の道具であり、自由の元だといっています。その裏づけとして「金銭的動機」のほとんどを「非経済的誘因」へ改めたらどうなるかを考えてみることを、ハイエクは勧めています。労働報酬がお金でなく表彰や特権、地位、食べ物、家、旅行、教育の特典といった具体的な形、つまり現物給付でしかもらえなかったらどうなるか。受け取る者に選択の余地がなくなってしまうのは明らかなことです。
> 僕もそうでした。高いマンション、ビジネスクラス、海外での日経新聞や携帯。「それ要らないんで金ください。」と思うと辞めるしかないよね。


武富士対山口組 3/3~株式上場へ

彼が大蔵省銀行局長時代はサラ金地獄が社会問題化していた。サラ金など百害あって一利なしとたたかれた時代に、サラ金を消費者金融に脱皮させ、存続させることを説いて回ったのが徳田である。サラ金規正法と呼ばれる貸金業規正法が成立したのは彼が退官後の昭和58年だが、その路線を敷いたのは徳田だといわれる。彼は昭和61年4月から金融制度調査会の委員になる。前後して59年からは同調査会のサラ金業界などをあつかう消費者信用専門委員会の委員長を務めた。同委員会が昭和62年7月に発表した報告には「与信業者が株式上場を行い、良質な資金調達をはかっていくことも今後の方向」とうたった。サラ金は利息制限法の上限金利を上回る金利で貸付を行っている。しかし、同委員会の提言を持った「報告」は、株式公開の前提として利息制限法の遵守を位置づけていない。サラ金大手は、サラ金地獄のイメージを払拭すると共に、有利な資金調達を狙って昭和50年代後半から株式上場を企図していた。各社はサラ金地獄を背景に大手銀行がサラ金への融資を引き上げた苦い経験を持つ。だから、直接資金調達のできる株式公開を目指し、平成5年のプロミス、三洋信販、アコムを皮切りに店頭公開、上場にこぎつけた。


ハイエク マルクス主義を殺した哲人 2/3~民主主義下の独裁

民主主義と社会主義にはたった1つ共通しているものがあるという指摘も紹介されています。ド・トクヴィルのいう共通点は「平等」という言葉のことです。ただし、言葉としては同じでもその中身は違っています。民主主義は自由において平等を求めようとするのに対し、社会主義は統制と隷属において平等を達成しようとしていると、それぞれの意味の違いを上手に説明しています。別の言葉で言えば、民主主義の自由は機会を平等にする自由で、社会主義は結果の平等だということになるでしょう。ところが平等と言う言葉が出たときに、社会主義こそが「新しい自由」をもたらす約束になったとハイエクは言います。自由と平等がいつの間にか一緒になってしまったのです。このことを「自由」という言葉の意味を社会主義者たちがたくみに変えてしまったとハイエクは非難します。
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武富士対山口組 2/3~ファミリー企業群

武富士の暗部を最もよく知る男が元同社渉外部長の藤川忠政である。藤川は昭和50年3月、国士舘大学経済学部を卒業した。当時の武富士は東京都、千葉県、神奈川県内に10支店を持つ小規模な金融会社で、社員数も100人前後だった。武井は大学を卒業したばかりの若者を相手に「武富士を日本一の金融会社にしてみたい」と熱い思いを語った。
顧客情報漏洩事件の黒幕は、東京・新宿区内にある金融会社「オーエムエフ」の経営者である岡村誠と武富士では見ていた。彼は埼玉大学を卒業後、二つの会社を経て武富士に入社。主に営業、財務畑を歩き常務、専務を務め退社。昭和63年に現在の会社を設立した。岡村の経営するオーエムエフ社は、中小のサラ金、消費者金融会社に資金を融資する、いわゆる「卸」の業者なのである。商売上、信用できる小規模貸金業者が増えれば増えるほど、それも息のかかった業者であればあるほど、安全な資金の貸出先が膨らむわけだから、岡村には願ってもない状況といえる。中小業者の経営にとっての難題は客集めである。そこで彼らは大手金融業者が抱える顧客リストを、ノドから手の出るほど欲しがる。名簿があればDM商法で顧客獲得が容易になるからである。岡村が顧客リストとワンセットにして武富士から大量の社員を引き抜き、系列の金融会社を20社近く作らせていると語る金融関係者は多い。逮捕者を出した前出のアーバンライフなどは、その一部である。
武井保雄の指示を受けた藤川忠政は顧問の福田勝一をともなって、顧客情報の窃取をそそのかしたという、いわゆる横領教唆の罪で岡村誠を警視庁に告訴した。貸し金の卸をしている岡村に資金提供していたのは、東京ドームの子会社である後楽園ファイナンスである。野球や遊園地を通じて子供たちに夢を売る東京ドームが、子会社を通じて、消費者金融会社にせっせと資金を貸し付けている事実はあまり知られていない。後楽園ファイナスの貸付額は、大手信用調査会社によると、ピーク時には約3200億円にもなっている。2003年現在は約2600億円程度と見られている。その代表的な貸付先は、アイフル、千代田トラスト(旧・本田ちよ)、アエル、三和ファイナンス、ナイスなどだる。岡村誠が経営するオーエムエフは後楽園ファイナンスから約400億円の融資を受けていると業界では言われている。オーエムエフの本社は新宿区四谷4丁目に立つ3階建ての豪華なビル内にある。岡村社長の息のかかった消費者金融会社もいくつか入居している。かつて、このビルの所有者は、金融会社「アイチ」だった。”マムシ”と暴力団からも恐れられた森下安道が一代で築き上げた街金最大手の居城である。あくどい商法で一世を風靡したアイチもバブルの崩壊が命取りとなって、平成8年には特別生産に追い込まれ、負債総額1820億円を残して事実上倒産した。


虚構のアベノミクス

実質賃金の低下こそが、「アベノミクス」の本質だ。円安の負の側面のうち、とりわけ問題なのは電気料金の引き上げだ。

問題? 民は生かさず殺さず、民に無駄に金を渡しても何もならない。民は測度変換できないので円安は歓迎だし、名目しか見ない。良い政策だと思うよ。

国際収支で長期的に見れば、経常収支と資本収支の黒字の和はゼロになる。したがって、経常収支が赤字になれば、資本収支は黒字になる。つまり、海外からネットの資本流入になる。このことから、「経常収支が赤字になっている状態では、国内の資金が足りなくなっているので、国債の国内消化が困難になっているに違いない」と結論されるのだろう。しかし、それは、国債の国内消化が困難になっていることを意味するものではない。
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日本銀行は2013年4月に公表した「金融システムレポート」で、金利が一律に1%上昇すると、国際統一基準行の損失率は3.2兆円であるとした。なお、同レポートは、貸付などで得られる資金利益の変化も算出し、長期金利のみが上がる場合は、金利上昇幅に依らず、評価損を上回って資金利益が改善するとした。また金利が一律に上がる場合は、評価損が資金利益の改善幅よりも大きくなり、銀行の自己資本比率が低下するが「自己資本基盤が大きく損なわれることはない」とした。
日銀は一方において将来の金利が下がるというメッセージを送り、他方において金利が上昇するというメッセージを送っていることになる。

いやいや、物価上昇目標を掲げ、本来それに伴って上がるべき金利は、同時に国債を買って作為的に下げますと言っているのだよ。


ハイエク マルクス主義を殺した哲人 1/3~全体主義とナチス

これ、日本人読んだほうがいいかも。
『隷属への道』の読み方 19世紀の後半からのおよそ100年間、世界で最も社会的影響力が大きかった本はマルクスの『資本論』であり、20世紀の中ごろから後半にかけて最大の影響力を及ぼしたのはハイエクの「隷属への道」だったのではないかと思います。別の言葉で言えば、世界に対して100年間に及ぶ大マインド・コントロールをかけたのがマルクスであり、そのマインド・コントロールを解くのに最も大きな貢献をしたのがハイエクである、といえるのではないでしょうか。
今日において社会主義とは、もっぱら課税という手段を通じて広範囲な所得の再配分を行うこと
「隷属への道」を執筆した時期、つまり戦争中においては、社会主義は生産手段の国有化と中央集権的経済計画化を意味していた。しかし、1976年の時点では生産手段、つまり産業の国有化の非効率はすでに広く認められるようになって、その方向へ進む危険はなくなったが、今度は課税という手段によって広範な所得の再配分を行うことを意味し、また福祉国家の制度を意味するようになってきている、とハイエクは言います。そして、社会主義的な政策の原理を改めないかぎり、その政策が良かれとやっている人が望みもしなかったような不愉快な現実がやってくるだろうと警告を発しています。
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イギリスが15年、20年の時差をおいて、ドイツの社会主義化のあとを追っている。第一次大戦に先立つ約30年の間のドイツの思想と実践が、そのころのイギリスの思想や政策に深い影響を与えたと、ハイエクは指摘します。ドイツにおける社会主義政策は非常に早く、19世紀後半のビスマルクの時代から始まっています。それが第一次大戦の敗戦後、いっそう強くなりました。そのドイツを考えればイギリスの未来がわかる。これは、学問・思想の面でドイツがイギリスやアメリカのアングロ・サクソン文化圏より圧倒的に進んでいたということです。19世紀の終わりごろから20世紀の第一次大戦ごろまでの間、ほとんどあらゆる分野においてドイツの学問が傑出していたと言ってもいいでしょう。英語学にしてもまともな英語学の8割くらいはドイツで研究されていました。極端なことをいえばシェークスピア研究までドイツが先んじていました。ドイツ人は昔「ウンザー・シェークスピア(われらがシェークスピア)」といっていたくらいです。
全体主義体制を樹立させた思想上の傾向は全体主義に屈したドイツのような国だけにあるのではなく、イギリスも着実にそちらのほうに向かっており、戦争に連合軍が勝ったときには、この基本的な問題に直面しなければならなくなる、とハイエクは予言しました。そしてこの予言は的中し、まさにハイエクがここで指摘したことが戦後のイギリスで起こりました。すなわち、労働党が勝って政権を握り、私有財産廃止のほうにば驀進したのです。「マクミラン報告」とは1931年に出たもので「人々の生活に対する管理を政府の第一の任務とみなすようになっている」「議会はコミュニティの日常的な事柄に対する統制を、その意図的な目的としてますます立法するようになってきており、以前には議会の検眼が及ぶ範囲内には、全く属していないと考えられていた様々な事柄にも介入するようになってきている」といった内容が記されています。この報告が出た1931年後半から39年にかけての8年間に、イギリス経済体制は全く異なったものへと変化したと、ハイエクはいいます。このイギリスに起きた変化を徹底的に追及すれば、ヒトラーやムッソリーニやスターリンになるわけですが、イギリスで1931年の段階でその変化が起こっていることに、我々は注目すべきでしょう。
ナチスの指導者が「国家社会主義は反ルネサンスだ」といったのは的確で、ナチスはルネサンス時代以来、西欧が営々として築いてきた個人主義文明というべき西ヨーロッパの文明を崩壊へ導く決定的な一歩だったとハイエクはいいます。個人主義は西欧近代文明の基盤だというのがハイエクの立場です。個人主義がエゴイズムだとかエゴセントリズムと混同されることで間違ったイメージが付加され、「皆でやりましょう」という集産主義-コレクティビズム-のほうがいいという方向に流れているところに、ハイエクは最も危険を感じました。
また、自由主義社会を発展させる重要な課題として、「貨幣制度」と「独占」をハイエクはあげています。これは依然として最大の問題であり続けていると思います。私が直接お話を伺ったとき、どの国でもどんなお金を使ってもいいという条約を作ったらどうかと、ハイエクは言っていました。そうするとどうなるか。戦後、ヨーロッパでは社会主義的な政策が強く、どこの国もインフレに悩んでいました。そういう無茶な政策をやっている国の通貨は暴落しますから、誰もそれを持ちたがらない。どこの国でも自国の通貨を持って欲しいから通貨の価値が下がらないように慎重な配慮をしなければならなくなる。通貨の価値が下がらないようにするにはどうするかというと、インフレ政策をとらない、そういう国が勝つわけです。つまり、社会主義的政策をしない国が勝つと言うことです。どこの国でも自由にどこの国の通貨を使ってもいいという話が、今、ヨーロッパでは現実にそうなりつつあります。
> ユーロの出現の予言というより、良貨とは何であるかを先んじて考えていたのだな。
2015.03.16 仮想通貨革命 ビットコインは始まりにすぎない 7/7~貨幣の非国有化
で野口悠紀雄さんの抜粋を読むかぎりでは、ハイエクの言っていることがおかしいように思えたのだが、予想通り、この本で読むかぎり、ハイエクの言っていることはうなずけることばかりだ。
【民族主義・闘争】
2014.06.19 実録ラスプーチン 2/8~怪物が登場した時代背景
2013.10.24 残虐の民族史 2/3 ~ジンギス汗
2013.03.11 藤原氏の正体 2/4 ~中臣鎌足とは? その出自
2012.12.07|殺戮と絶望の大地
2013.04.03 わが闘争 上 民族主義的世界観 2/7 ~ドイツ民族とユダヤ
2012.10.05|宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.10: 日本改造計画2/5 ~権力の分散と集中
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2009.08.21: インド独立史 ~ナショナリズムの確立
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.01.05: ユーゴスラヴィア現代史
2008.12.08: アラブとイスラエル―パレスチナ問題の構図
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代





武富士対山口組 1/3~警察との癒着

武井保雄会長は広域暴力団山口組系後藤組の後藤忠政組長との交流と、彼に金銭を贈っていた事実を認める発言をしている。後藤忠政組長は、暴力装置と経済力を兼ね備えた山口組内でも実力派の組長である。彼は平成14年7月、山口組若頭補佐に昇進した。この役職は文字通り同組ナンバー2を補佐する最高幹部の一人で、山口組を運営する執行部の中でも組織の中枢に位置する。さらに平成4年5月、「ミンボーの女」の伊丹十三監督を襲撃したのは後藤組である。
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京都戦争の火種 昭和61年2月、武井会長と崇仁協議会藤井委員長との会談をきっかけに、武井の親族が100%出資するファミリー企業の徳式(中森修社長)とサンセイハウス、崇仁協議会の3者の間で不動産売買立ち退き(地上げ)に関する契約が締結された。当時、武富士の事業開発部長の職にあった藤川忠政は、京都府警に録取された供述調書の中で次のように説明している。「昭和62年12月22日付で地上げに関する契約の一部追加変更書を締結し、地上げ資金も280億5000万円に増額し、崇仁地区、約3300坪の地上げを進めました。」崇仁協議会の役員には会津小鉄会の元組員が名を連ねていることでもわかるように、非常に同会の色合いが強い団体だったが、山口組系中野会(当時)の勢力拡大に伴って同会にも急接近して行ったそうである。こうした崇仁協議会側の対応が、数年後、中野会の中野太郎会長襲撃事件を頂点とする、いわゆる”京都戦争”と呼ばれる中野会と会津小鉄会の流血抗争に発展していった。


ハイデガー 存在の謎について考える

シリーズ・哲学のエッセンス という副題を見るべきでした。著者の方はハイデガーを理解しているのかもしれませんが、あまりにも平易に大衆迎合した書き方をしているので、逆に全然わからないという。
哲学と人生論はどう結びつくか
「存在そのもの」は、長く哲学研究の対象でした。実体、つまり、真に存在するものは何か。ただ偶然に存在するものと、必然的に存在するものとはどのように区別されるだろうか。絶対的な存在とはなんだろうか。神のような絶対的な存在と、存在するもの全体との関係とはどのようであろうか、といった問題が様々な形で考えられ、様々な可能性が議論されてきました。そこでアリストテレス「形而上学」を端緒として、これまでの存在論的な哲学理論を研究することで存在論を論じることが可能です。「存在」についてどのように考えられてきたか比較考察することで、「存在そのもの」がについてどのような解明が行われてきたか見ることができます。哲学とは別にもうひとつ、「存在そのもの」が非常に具体的で切実な問題となる場面があります。たとえば、自分が深刻な病にかかった場合や、身近に死を体験した場合などです。このように哲学理論と人生論という二つの側面があります。存在論とはそのどちらでもある、そのどちらでもなければならない、つまり、哲学と人生論という二つの側面を必然的に結びつけたところに、存在論の意味があるのです。


溶ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録 4/4~お金の作り方

ウィンホテルのロレックスショップでド派手な時計(1個300万円もした)を10個一気に購入した。お代は締めて3000万円也。ロレックス10個を質屋にもっていけば3000万円弱の現金になるかと思いきやなんと引取りの歩合は商品価格の45%だという。つまり1350万円だ。おそらくジャンケットがいくらか中抜きしているに違いないと思いつつ、バクチに狂っていた私は「最終的に全部取り返せばいいのだ」と深く追求はしなかった。
ブラックカードでこしらえた1350万円の種銭をもとに、私はバカラの大勝負に出た。借金3000万円をすべて取り返した上に、大幅な黒字に持っていくことができたのだ。そこで困ったのが質屋に持っていった時価3000万円のロレックスだ。こちらは勝負に勝って気をよくしているし、ギラギラのド派手なロレックスなど何の興味もない。ジャンケットのK氏には質流れにしてもらってかまわないと伝えた。買値が3000万円なのに私は1350万円しか受け取っていないわけだ。いくら何でも差額の1650万円がもったいなさすぎるということで、K氏から質流れに猛反対された。質屋からロレックスを10個回収してきてくれたK氏は、その中のピンクゴールドの時計に興味を惹かれたようだ。もともと質流れにしようとしていた時計の代金をいちいち徴収するのもせせこましい。彼にピンクゴールドのロレックスをポンとプレゼントした。残ったロレックスの時計はどうしたかと言うと、仕方が無いので日本に持ち帰ってきた。当然のことながらこれは税関で引っかかる。だが意外なことに2000万以上もの時計にかかった関税は10万円程度だった。このロレックスはマカオと日本を行ったり来たりしながら最終的に質屋へと還流していった。
無用の長物となったアメックスのチタンカード ブラックカードと言うとVIPや大金持ちの象徴としてあこがれの対象とされる。世の中にはブラックカードを超えるさらにVIPなカードがある。あるとき私はアメックスからチタンでできたクレジットカードを支給された。チタンでできているだけに金づちで叩いたくらいではこのカードはびくともしない。必要なくなったとしても、ハサミを入れることもできない。カードの後ろには磁気テープがついているのだが、なにしろチタンだけにATMで使うことすらできないのだ。「これは何のためにあるカードですか。キャッシングや買い物の枠が増えるとか、グレードアップされるのでしょうか?」と尋ねてみたところブラックカードと機能は変わりないという。カード会社の担当者が少々困った口調で、「お客様の中にはウォレットをズボンのお尻のポケットに入れているときにカードが折れてしまうという方もいるものですから…」と答えたのには笑ってしまった。本当はステイタスとしてこういうものをありがたがる者がいるため、カネ持ちの権威付けとして存在するのだと思う。
11年9月7日、大王製紙の連結子会社7社から資金を借り続けていた事実が社内メールの告発によって発覚してしまったのだ。就任からわずか数ヵ月後の9月16日、私は大王製紙会長を引責辞任した。大王製紙の連結子会社は海外に2社、国内には全部で37社ある。これら連結子会社のうち、7社から資金借り入れを行った(大王製紙本体からは資金は借り入れていない)。これらの7社ではいずれも私が代表取締役を務めていた。国内の連結子会社37社のうち、31社までは井川家、ならびに井川家の個人会社が過半数の株を所有している。その中でも特に私や井川家の持ち株比率が高い会社を選び、以下の1~7から借り入れを進めていった。合計106億8000万円。巨額の資金は「LVSインターナショナルジャパン」というカジノ会社に直接送金した8億5000万円を除き、すべて私個人名義の預金口座に振り込まれ続けた。


エンロン内部告発者 6/6~最後

エンロンが様々な会社への株式投資をヘッジするために作ったラプター(ファストウによる出資による)は、エンロンから数億ドルも借り入れていた。ラプターはコンティンジェントなエンロン株(特定の事実が発生したときに効力を持つ株)で出資されていた。7月には株価は40ドル台後半と前年には考えられない水準まで下げていた。ラプター株も連れて下げると、エンロンはラプターを支えるためにどんどん株を注ぎ込まなければならない。このためすでに数億ドルを投入していた。ファストウがそんなにリスクの大きいハイテク株のヘッジを、自分のファンドで提供したことが意外だった。しかし今や事態が理解できた。ファストウはたった3%しかリスク・マネーを投じていないのだ。残りのリスクはエンロンの責任なのである。
アーサー・アンダーセンの会計士たちは、大きな会計上のミスに気づいていた。2001年の第1四半期にラプターを再編成したときに誤りを含む決算を承認していた。エンロンはラプターに12億の預り証と引き換えに12億ドルコンティンジェント普通株を投入していた。アンダーセンはこの額を誤って費用ではなく受取手形(資産)に計上してしまった。この誤りは2回の四半期の間見過ごされていたが、第3四半期になってこの12億ドルを減資しなければならなくなった。すでにスキリングの退任で会社に疑念の目が集まっている。どうすればうまくやれるだろう?まして株価が36ドルから30ドル近辺まで下げているというのに。レイのたゆまぬ売込み努力によって株価が持ち直すかと思われた矢先の9月11日の朝、オサマ・ビン・ラディンの手先にハイジャックされた二機の民間航空機が世界貿易センタービルに突っ込んだ。ニューヨーク証券取引所は翌週まであかなかった。再開した市場では全銘柄がまっさかさまに落ち、エンロン株も25ドルになった。
2001年11月8日、エンロンは8KレポートをSECに提出した。「この裁縫国は2001年9月までの9ヶ月間の開示済み決算報告には影響しません」文書はそう述べていた。しかし、ビジネスマスコミは鵜呑みにしなかった。ザ・ストリート・ドット・コムは「エンロンの再報告は不十分」と見出しを立てて、修正報告にはLJM1のみが反映され、LJM2について、特に厄介なラプターのビークル類については反映されてない、と暴いた。その日、エンロン株は8.41ドルまで下げた。
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エンロンは今や投資不適格と格付けされる危機に直面していた。もしそうなれば様々な簿外ビークルの負債即時返還条項が働くことは経営陣の誰もが知っていた。ワーレイ、マクマホンはオマハに飛んで、バフェットがもう一つの救済劇に興味があるかと打診した。返事は連れなかった。エンロンがどうやって金を儲けているのか、バフェットにはついぞ理解できなかったし、ヒューストンの投資家フェイズ・サロフィム同様、彼は自分が理解できるビジネスにだけ投資するのだった。


ハイデガーの思想 4/4~現存在の時間化

存在了解にせよ世界内存在にせよ、現存在において現在・過去・未来といった時間の場(ホリツオント)が開かれることによってはじめて可能になる。つまり、現存在において存在という視点の設定が行われるのも生物学的環境を超越して世界が構成され、現存在がそれに開かれるのも、現存在がおのれを時間として展開すること、おのれを時間化することによってはじめて可能になるのである。というよりも、もともと現存在が現存在として存在するということ、つまり人間が人間になるということは、そこに現在・過去・未来という時間の場が開かれるということなのである。ハイデガーが「現存在の存在は時間性である」というのは、この意味に他ならない。「存在了解は時間性を場にして行われる」というのも同じ意味である。存在了解こそが現存在を現存在たらしめるものであるし、その存在了解、つまり存在という視点の設定は現存在が己を時間化することによって可能になる。
「存在と時間」の第一部、ことにその第一、二篇は準備作業だといったが、そもそもそれは何をどのように準備するものだったのであろうか。まず一方で、現存在が存在了解の場だということ、つまり存在という視点の設定が行われる場だということを論証し、他方で、現存在の存在が「時間性」だということ、つまり現時のうちに差異化が起こり、未来と過去という次元が開かれてくる時間化の働きこそが現存在の存在を成り立たせていることを明らかにする。その上で、存在了解と時間性のあいだに密接な連関のあること、つまり存在了解が時間性を場(ホリツオント)にして行われることを示す-これが第一部第一、第二篇の仕事である。時間化の働き(ツアイテイグング)という概念は動詞にすると「おのれを時間化する(ジッヒ・ツアイテイゲン)」であり、いわば「おのれを時間として展開する」あるいは「時間として生起する」といったほどの意味である。ところで先にも述べたように、ハイデガーは現存在がこのようにおのれを時間化し、時間として展開する仕方は決して一通りではなく、そこに本来性・非本来性が区別されると考えている。この本来性・非本来性は何か道徳的ないし宗教的基準で計られるわけではなく、あくまで構造的な違いなのである。つまり、現存在がおのれを時間化するに際して、おのれに与えられた構造をどの程度満たしているか、ことにおのれの可能性とどのように関わり合い、どのくらいの射程で未来の次元を開くかによって、それは計られる。ハイデガーによれば、本来的時間性においては、その時間化はまず未来への先駆として生起し、そこから過去が反復され、そして現在は瞬間として生きられる。ここでは未来が優越し、3つの時間契機が緊密に結びついている。


溶ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録 3/4~カジノの仕組み

最近の麻雀はデータの統計もしっかり取られていて、一発ツモの確率まで計算されている。一発ツモの確率とはある統計では約10%だそうだ。ところがツイている者は半荘の間にリーチを4回かけた際、4回中3回も一発ツモしてしまったりする。そのプレイヤーが一発ツモを仮に3回連続で引いたとすれば、0.1の3乗、つまり1/1000の確率を引いている計算になる

いや、ならないんですってw
4回リーチをかけて3回連続一発を出す確率は、仮に一発ツモが10%だとしたら、1/1000×2-1/10000だから約1/500だ。さらに参加者が4人居て、4人が同様に4回リーチをかけているとすれば、一発ツモを引く奴が現れる確率はさらに約4倍。一晩で5半荘やるとしたらまた約5倍。すると約1/25まで確率は高まる。これが数学的に計算される「必然の偶然性」である。井川さん、もしよろしれけば、私、特別講師として一度お伺いいたしますよ。

ザラ場で何百万円、何千万円をかけて大勝負する客はそう多くは無い。1香港ドルから遊べるスロットマシンもあるため、そこで粘れば数千円で何時間も遊ぶこともできる。そうした観光客を目当てにしていてはカジノの収益はさして上がらない。ではどこでカネ儲けをしているのか。それはVIPルームに乗客を呼び込み、高待遇をしながらドンドン金を投入させるのだ。VIPルームとは、ホテルの上階にあるスイートルームのような場所だとイメージしてもらえばいい。VIP客の場合、入り口も駐車場もほかの客とは別の場所に設置されている。専用エレベーターで人目につかないように部屋に直行できる。賭け金が小さいザラ場はいわばブティックにおけるショーウィンドウのようなものだ。芸能人や有名実業家であればなおのこと人目につかないところで勝負したがるものだ。

Wynnだけでなく、どこのカジノでも“カジノの売上”(=純カジノ収益=客の負け分の総和)は大半がハイローラーによるものであることは10K(米国の有価証券報告書)から読み取ることができる。数学的に必ずプラスになるように担保された”カジノの売上”と異なり、カジノの収益は、売上からいかに人件費などの運用コスト、ホテルの建設費用などの金利負担を減らせるかという厳しいもので、「カジノの収益=カジノ産業の純利益」は数学的にまったく担保されていない。クレジット(債券)に詳しい者は、米国カジノ産業は永遠のハイイールド債の供給者であることからもカジノビジネスが如何に厳しいか推測することができるだろう。


エンロン内部告発者 5/6~電力自由化の下の悪意ある供給者《超重要、読め》

カリフォルニア州の市民の生活はダボール発電所があるインド・マハラシュトラ州のそれに似始めていた。停電は頻発し、電力価格はうなぎ上りだった。カリフォルニア・エジソンは5億ドルの債務が履行できなかった。カリフォルニアは経済的、社会的混沌に陥っていた。しかしテキサスの電力トレーディング大手であるエンロン、エル・パソ、リライアント、ダイナジーなどは有卦に入っていた。各社の利益は前年比100~400%増で彼らはこれを努力の賜物と主張した。テキサス人は利己的で緩みきったカリフォルニアの市民の因果がめぐったとおもっていた。エンロンはワシントンに根回しをしていた。最も心強かったのは、エコノミストの上院議員夫妻フィル・グラムとウェンディだった。エンロンの取締役会に参加する前の1992年、ウェンディはエネルギー先物契約を政府監視の対象から外した。夫は今や、2000年12月のコモディティ先物現代化法案によってエネルギー・トレーディングを規制緩和すべく活動中だった。この法案には強い反対があった。その主勢力は大統領の経済市場諮問グループでそこには財務長官ローレンス・サマーズ、連邦準備局のアラン・グリーンスパン、SECの会長アーサー・レビットらが名を連ねていた。エンロンはこの法案のために200万ドル近いロビイング費用を払い、一方グラムはクリントン政権の末期に不利だった法案をいったん引っ込めあたためていた。ブッシュが政権につくとグラムは同法案を新たな名前で再提出し、首尾よく成立させた。エンロンはトレーディングについて大きな自由を得た。エンロンがどれだけの電力を持っており、どこからどこへ、なぜ、どのように電気を動かしているかは、もはや誰に知られる必要も無かったし、そうする手段も無くなった。2000年のハイテク株失速にもかかわらず、エンロンは90年代の最後の3年間に22ドルから72ドルへと挙げた。
> 電力自由化の先駆けだぞ。安易な電力自由化賛成論者はよく読んどけ。
> しかもその時、私はちょうどカリフォルニアに居た。オイル価格が高騰しているから電気代が上がったと聞いていたが、背後にはエンロンの悪さも要因の一つであったとは…。
90年代半ば、カリフォルニアは電力の規制緩和に踏み切った最初の州となった。きっかけは企業が群れをなして州から去っていき、壊滅的な不況をもたらしたことだった。法外な収税に加え、高いエネルギーコストも原因のひとつだった。規制緩和は、旧弊で甘やかされて、搾取的だった電力会社を懲らしめ、1998年には電力のユーザー単価を10%下げるはずだった。問題はどこにも無いように思われた。しかしこの解決法は、結局、事態をより悪化させた。カリフォルニアはエネルギーの卸売りを規制緩和し、小売面では価格キャップ性を維持した。同時に電力会社に長期固定価格(したがって割安)で電力を購入することを禁じ、不安定なスポット市場への依存度を高めさせた。失敗の舞台装置は揃っていた。電力会社は発電会社に大金を払いながら、その費用を利用者に転嫁できなかった。エンロンは電力をもっと効率よく供給するためによりクリーンで安い燃料を使う発電所を建設する、と約束した。この市場でエンロンが必ずしも善玉ではない証拠はいくつかあった。その一つは1999年五月、同社の会計部門が収益計上に苦しんでいた頃に起きた。それはのちにシルバー・ピーク事件と呼ばれる。
1999年5月24日の事件が起こった。ベルデンは莫大な電力を古い送電網を使って送ろうとした。15メガワットの送電線に、1900メガワットの電力を通そうとしたのである。そんなことをすれば送電網に負担がかかるのは当然だった。カリフォルニアは過負荷への自動反応システムを備えていた。州内の全サプライヤーに電気信号が発信された。この電線を使うつもりですか?それを中止して線をあけることはできますか?そうしてくれたらお金を払います。この日、カリフォルニア・インディペンデント・システム・オペレーターのある人物がたまたま電線を監視していた。彼女はなぜこんなに細い電線越しに大電力を送り込んでいるのかと訝しがった。「本当にこんな送電をしたいのですか?」彼女はこれは事故ではないのかと思い、確認の電話をした。ベルデンが意識的な行動だと認めたとき-「ええ、当社がやったことですよ」-彼女はいっそう不審に思った。「どうしてですか?」「ええと、まあ、そうしたかったからです。別に隠すわけじゃないけれど…」 オペレーターは「ずいぶんおかしな配電スケジュールですね」と言った。ベルデンは同意した。それだけに送電網の規制当局に報告しなければならないと思った。この送電は「無意味」に思えたからだ。
しかし、エンロンにとってこの送電は無意味ではなかった。ベルデンの行為によって送電網には負担がかかり、その日の午後には電力価格が70%も跳ね上がったからである。州の電力交換当局の調査委員会はこの事件を調べ、1年後、ベルデンに25000ドルの罰金を課した。無意味な罰金だった。その日エンロンは1000万ドルを精算し、州の電力ユーザーは約500万ドル余計に支払わされたからである。カリフォルニアの無人自動システムは、完全に電力供給会社の善意のもとに成り立っていた。しかし彼らは善意の人々ではなかった。ベルデンのようなシステムの悪用者は、これを新手のゲーム、つまり常に「当たり」になったままのスロットマシンにした。彼やその同類は、州の規制当局から不正を見つられた時はいそいそと罰金を支払った。
規制当局が気づいていなかったのは、ベルデンが単独犯ではなかったことだった。2000年6月、規制緩和によって安価で良質なサービスを得ているはずだったカリフォルニア州の市民は、そのどちらも得られなかった。州内の電力卸売価格は30%も跳ね上がり、これは電力を供給するテキサスのエネルギー会社-リライアント、エル・パソ、ダイナジーそしてエンロン-らを狂喜させた。エンロンやその競争相手は口では規制緩和について安い価格、選択の自由そのほかを約束していたが、金を儲けるためには安定供給ではなく安定不安が必要であることを知っていた。安定した市場では誰も電力供給を気にしない。電灯はいつもつくし、エアコンが働かないことも無いからだ。しかし電力供給に不安があると顧客は気をもみ始め、供給が細るにつれて家庭生活や事業運営に支障が無いよう、いくらでも喜んで払うようになる。一方顧客の怯えにつけ込んでより多くの、そしてより長期の電力購入契約を取る企業は、安定的な電力の供給者よりもずっと儲けられる。
2000年秋、カリフォルニアの主な電力会社は問題を抱えていた。電力不足なのに規制緩和のために依存を深めていたスポット市場は価格が高すぎて手が出なかった。電力会社は高コストを顧客に転化させてほしいと主張し始めた。立法府に拒まれるともはや残る手段は供給制限のみだった。カリフォルニアは、その後、連邦エネルギー規制委員会(FERC)に電力卸売価格にキャップをするよう請願した。FERCがこれを認めると売り惜しみをしていた州外の電力供給会社は姿を消した。2000年12月、状況は危機的だった。この月、同州は初めての第三段階「ローリング・ブラックアウト」を経験した。つまり予備電力がそこを尽きかけたのである。州の規制当局は慌て、州外の電力供給会社を呼び戻すために、FERCの価格キャップを外すよう要請した。供給会社は以前にも増して高い請求書を手に戻ってきた
しかしヒューストン本社の弁護士スティーブン・ホールは心配し始めていた。彼は10月に社の電力トレーディング事業を調べ始めた。カリフォルニア公益委員会の調査を受けたからである。調べれば調べるほど、不安は増した。エンロンは電力線にわざと過負荷をかけたり、価格キャップを逃れるために電力を州の内外に移したり、履行していないサービスの料金を請求していた。これらの手法はISO規約違反であるばかりか刑事犯罪であるという警告だった。
カリフォルニアの状況は価格キャップ制の廃止とエンロンの行動のために、改善しなかった。それどころか事態は悪化の一途をたどった。2001年1月中旬、カリフォルニア・エジソンは5億9600ドルの電力会社への支払いと債券の償還ができなくなり、ローリングブラックアウトは北カリフォルニアにも広がった。すなわちシリコンバレーとその周辺地域である。グレイ・デイビス州知事は緊急法案を起草して、州が電力を買い上げられるようにした。これによって恩恵を受けたのはテキサスの電力会社だけだった。今や彼らは、憐れな州職員を相手に高値で長期契約を交渉できた。電力料金は1月と3月に延べ40%値上げされた。4月にはパシフィック・ガス&エレクトリックが会社更生法適用を申請した。

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ハイデガーの思想 3/4~本質存在と事実存在

存在了解 存在とは何か。
ハイデガーは少なくともこの時点で、この問いへの-たとえ後に修正せざるを得ないものである-明確な答えを出していたはずである。ただそれを述べるはずだった下巻が書かれないでしまったので、その答えもついに表に出されずに終わってしまった。謎めいた、あるいは思わせぶりなヒントが散在するだけである。しかし、これが分からなければ彼の言うことはほとんど理解できないことになろうから、なんとかその散在するヒントから無理にでも引き出してくる必要がある。一つの手がかりは、「存在は存在者ではない」ということである。存在とは、いわば存在者を存在者たらしめるものであるから、それ自体は一個の存在者ではありえない
「現存在が存在を了解するときにのみ存在は『ある(エス・ギプト)』」
「存在は了解のうちに『ある(エス・ギプト)』」
「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は『ある(エス・ギプト)』」
『ある(エス・ギプト)』とルビをふったのは、これが『存在する(ザイン)』という意味での『ある』ではないということを示そうとしてのことがある。もしこれが『存在する』という意味での『ある』だとすると『存在』がふたたび『存在するもの』『存在者』になってしまい、『存在は存在者ではない』という原則に抵触することになる。それを避けようとしてハイデガーは存在に関しては『ある(エス・ギプト)』を『与えられる』と読み替えてくださっても良い。これらの命題は『存在』は現存在の行う『存在了解』の働きのうちにあるのだ、ということを言おうとしているのである。
第二部の第一篇ではカントの「純粋理性批判」の図式機能論と時間論が次いで第二篇ではデカルトと中世スコラ哲学の「存在概念」がさらに第三篇ではアリストテレスの「時間論」が検討されるはずであった。しかしこの題材の選び方はどう見ても適当ではない。第二部全体の主題からすれば、ここではあくまで伝統的存在論の存在概念の検討が行われるべきなのであるから、カントの時間論やアリストテレスの時間論を話題にするのはおかしいのである。ハイデガーもそれには気づいていたのだろう。第一篇のカント解釈、つまりカントの「純粋理性批判」は存在と時間という問題設定の間際まで迫りながらそこに至りつけなかったと見るカント解釈は2年後にそれだけ切り離して「カントと形而上学の問題」(1929年)という独立の著作に仕立て上げられている。これは妥当な措置であった。西洋哲学氏の展開についてすでにかなり明確な見通しを持っていたはずのハイデガーがなぜこんなに不適切な題材の選び方をしたのか、これが私には長い間不思議だったが、最近少しそのわけが分かってきた。この時点ではいわばまだ無名だったハイデガーは、自分の持ち出そうとするあまりにも大胆不敵な考えにためらいを感じて、逃げをうったのではあるまいか。後年ある講義の中で彼は、下巻に当たる部分も当時すでに印刷されてはいたのだが、それをヤスパースに読ませたらさっぱり分かってもらえなかったので出版を断念したと言っている。ヤスパースが理解できなかったのも、おそらくためらいからひどく曖昧な書き方をしていたせいではないかと思う。私も、この時点でハイデガーが下巻にあたる部分、ことにアリストテレスの存在概念の分析を同時に発表していたら、果たして学会に受け入れられたかどうか疑問に思う。「存在と時間」上巻があれほどの成功を見た後とは話が違うのである。


溶ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録 2/4~経営者として

経営者として心がけたことの一面を抜粋すると、きわめて真っ当なことをおっしゃっており、非論理性=感情が支配する日本のビジネスの現場で苦労なさっているのが分かるw
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「大王製紙は過重労働がひどすぎる」 業界の中にはそう揶揄する人もいるが、確かに大王製紙従業員の物理的な労働時間はそれなりに長かった。そのためか新卒採用者のうち、3年のうちに辞めてしまう者がずいぶんいた。だが、花王だろうがユニ・チャームだろうが、優良な企業は適当に働いて利益を出しているわけではない。現在で言えば、好調といわれるユニクロにしてもDeNAにしても、社員はみな必死になって働いていることだろう。労働時間が長かったり、仕事内容がハードだからといって、単純に「ブラック企業」と言う一部の論調には違和感を覚える。ラクをして利益を出せるほど、ビジネスは甘くない。
長時間会社にいたからといって、労働時間に見合った成果を挙げているとは限らない。現に就業時間内に仕事をピシッと終わらせた上で、人よりも高い成果を上げている社員はいる。ビジネスは根性論で語っていても仕方ない。数字を冷静に分析し、正しい戦略と方法論を実行できれば収益を上げられるのだ。
大王製紙の経営者として、私は空虚な言葉だけの議論を徹底的に排除することにこだわった。会議の席上、こんなことを言う人間がたまにいる。
「コストを徹底的に削減し、営業部員との意思疎通、コミュニケーションを密にします」
こういう抽象的な言葉が飛び出したときには、私はすかさず具体性を問うようにしていた。「『コストを徹底的に削減』ってどこのコストをいつまでにいくら削減するの? 『営業部員との意思疎通、コミュニケーションを密にする』ってメールを毎日1通は必ず送ると言う意味?それとも週に1回は必ず直接あって話をする?」 美麗な言葉を口にしてその場をごまかそうとする人間は、このような指摘をされると、とたんに言葉が詰まってしまう。「コミュニケーションを密にする」など、何も言ってないに等しい。「テレビ会議でもかまわないから、週に2回は必ず開発部と営業部の会議を開く」といったように具体論を述べなければ仕事は先へは進まないのだ。日本人が使いがちな「徹底的に」「とことん」といった情緒的な言葉も要注意だった。

井川さんの言ってることはまともなんだけど、日本人は感情の生き物だから「コイツ嫌い」とか思うと言うこと聞かなくなっちゃうんだよねw 俺も「えっ仕事でしょ?嫌いって何?」と思うんだけど、その民族性は変えられないね。都構想がどうのじゃないの。橋下なんか嫌だで民は反応するものなのだ。


エンロン内部告発者 4/6~電力トレーディング

1998年第一四半期、トレーダーらは試行錯誤の果てに、トレーディングの規模を拡大すればもっと金が稼げるという感触を得ていた。スキリングは同意し、トレーダーらのポジション制限を引き上げ、より大きなリスク投資ができるようにした。トレーダーたちは契約によって十分な電力を手当てし、送電網の要衝も支配して大きな儲けのチャンスを待ち続けた。それが訪れたのは1998年6月だった。中西部の発電所のいくつかが、7,8月の需要期を控えて、改修のために操業を停止した。しかしこの年はちょっと勝手が違った。猛烈な熱波が例年より早く襲来したのである。同時にバックアップ電力を供給するはずだった発電所の操業が台風で停止した。電力供給は瞬く間に逼迫し、価格は急騰した。小規模な電力会社は資産ショートに陥った。つまり相場が上昇する中で電力が購入できず、供給契約を履行できなくなったのである。通常なら長期契約の下でメガワット・アワー当たり20ドルから40ドルほどで販売される電力がいきなり500ドルにもなった。中小電力会社が供給義務履行不能に陥ると、本物のパニックが起きた。ブラックアウト(大停電)の恐怖の下で、電力価格はものの数分間で7500ドルにも急騰した。かつてならこうした地域的な供給不安が発生すると電力会社同士は常識的な価格で電力売買して融通した。しかし98年の夏には、紳士協定もマナーも遠い昔に姿を消していた。
しかしエンロンにとってはこれは7月のクリスマスだった。安価な電力を持つべき場所で持っていたのだから。あるトレーダーは、一日で6000万ドルを売り上げた。中西部の電力危機はわずか数日で終わったが、エンロンはそれからも長い間、利ザヤを取れた。小さな電力会社は破産した。ケンタッキー州最大の電力会社LG&Eはこの一週間の電力危機のために2億2500万ドルの損失を計上し、電力トレーディング事業から手を引いた。オスカー・ワイアットの会社コースタル・コーポレーションは1460万ドルの損失を出した。ダイナジーそのほかの会社は規制当局に価格統制を懇願した。市場操作の噂も報道された。しかしエンロンはそんな泣き言は言わなかった。中途半端な規制緩和がこの価格高騰の原因のひとつだと主張し、この電力危機を更なる規制緩和を求める材料に使ったのである。
エンロンは米国で4つの発電所を運営していたが、これらは規制電力事業ではなく、様々な州法や連邦法によって運営を任されていた。例えばテキサスの発電所は「認定施設」扱いだった。これは別の規制電力会社の事業地域で、地元の規制当局から特別許可を受けて発電所を運営するという立場である。しかしエンロンが電力会社になってしまうと-ポートランド・ジェネラルを買収すればそうなる運命だった-こうした発電所は認定施設の扱いを取り消されてしまう。そうなれば負債契約条項違反になり、それぞれの発電所に残る膨大な負債-数百万ドル規模だった-は、すぐに返さなければならなくなる。したがってファストウの使命は、エンロンをこれら発電所の所有者ではなくす道を見つけることだった。


ハイデガーの思想 2/4~書かれなかった下巻

アメリカの文学批評家ジョージ・スタイナーは1918年から1927年までの10年間にドイツ語圏出された一群のほんの織りなす星座のうちに「存在と時間」を据え、それらの本に共通する性格を捕らえることによってこの時代の独特の気分を見事に浮かび上がらせている。その一群の本とは、エルンスト・ブロッホの「ユートピアの精神」(1918年)、オズワルト・シュペングラーの「西洋の没落」第一巻(1918年)、カール・バルトの「ロマ書」注解所版(1919年)、フランツ・ローゼンツヴァイク「救済の星」三巻(1921年)、アドルフ・ヒットラーの「わが闘争」2巻(1925,1927年)、それに「存在と時間」上巻(1927年)である。ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(1922年)、ジェルジ・ルカーチの「歴史と階級意識」(1923年)を付け加えても良いと思っている。
シュペングラー
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スタイナーはこれらの本に共通するいくつかの特徴を挙げる。これらの本が利用可能なあらゆる洞察を総動員して、世界史の全体について何か統一的な見方を提示しようとしていると言うことを意味する。次にこれらの本はすべて何らかの意味で予言的・ユートピア的著作だと言うこと、そしてそこから帰結するのはこれらの本がいずれもある意味で黙示録的だということである。ユダヤ教やキリスト教において「黙示録(アポカリプス)」と呼ばれるのは、現世の終末と来るべき世界についての神の秘密の教えを告知する文書のことである。第一次大戦の敗戦は、ドイツ人にとって単にドイツ帝国の崩壊を意味するだけではなく、2000年来の西洋文明の終焉、つまりまさしくシュペングラーの言うような「西洋の没落」として受け取られた。スタイナーはこれらの本には一様にそうした終末論的・黙示録的雰囲気がみなぎっている、と見るのである。ところでこうした性質は暴力的性格と結びつく傾向がある。それは徹底した否定を目指す暴力であり、弁証法的に肯定を生み出すようなヘーゲル的否定ではない。「神は世界に永遠の拒否を告げる」というバルトの暴力的な宣言、人間の心や社会のうちに現存する一切の秩序の転覆を図るブロッホの「ユートピアの精神」、シュペングラーの「西洋の没落」にひそむバロック的暴力、「わが闘争」に見られる絶滅することによる悪魔祓いの戦略、ハイデガーの思索に核心に潜む「無化(ニヒデン)」の働き、これらは人類の歴史と希望に向けられた徹底した否定の多様な現れである。「論理哲学論考」こそ-「語りうるもの」を明確に語るための理想言語の提唱だけではなく、「語りえぬもの」については沈黙すべきだと言うその厳しい禁令を含めて考えるなら-もっとも過激な言語革命の企てであるし、「歴史と階級意識」は、ルカーチ自身が後年その「黙示録的」な性格を指摘し、そのゆえの失敗を認めているからである。