「何かしたい」けど、「今はできない」人たち

「やればいいじゃん!」 これは僕が口癖のように言っているアドバイスだ。「やりたい」と言いながら、さまざまな言い訳を並べ立て「今はできない」と逃げ回っている人たち。彼らは、大きく2つのパターンに分けられる。一つは「本当に何もやりたくない人」だ。口先では理想を語り、大きな夢を語るものの、本気でそれを実現したいとは思っていない。夢を語っている自分が気持ちいい、というタイプの人たちだ。申し訳ないが、そういう人が本書を読んでも得るものは無いだろう。悪いことは言わないから、今すぐ本を閉じて、もっと心地の良い「夢」を語ってくれる自己啓発書を買った方がいい。

2008/09/23 被支配階級の特権

タルタロス「縛り付けた覚えなどないな。彼らは力で支配されることを望んだのだ
ハミルトン「望んだだと?
タルタロス「そうだ・・・世の中を見渡してみろ。どれだけの人間が自分だけの判断で物事を成し遂げるというのだ?
      自らの手を汚し、リスクを背負い、そして自分の足だけで歩いていく・・・
      そんなヤツがどれだけこの世の中にいるというのだ?
ハミルトン「・・・・・・
タルタロス「貴公らの革命を思い出してみよ。貴公らが血を流し、命を賭けて守った民はどうだ?
      自分の身を安全な場所に置きながら勝手な事ばかり言っていたのではないのか?
ハミルトン「彼らは自分の生活を維持するだけで精一杯だったのだ・・・
タルタロス「いや、違う。被害者でいる方が楽なのだ。弱者だからこそ不平を言うのではない
      不満をこぼしたいからこそ、弱者の立場に身を置くのだ。彼らは望んで『弱者』になるのだよ
ハミルトン「馬鹿な・・・人には自分の人生を決定する権利がある。自由があるのだ!
タルタロス「わからぬか! 本当の自由とは誰かに与えてもらうものではない。自分で勝ち取るものだ
      しかし、民は自分以外の誰かにそれを求める。自分では何もしないくせに権利だけは主張する
      救世主の登場を今か、今かと待っているくせに、自分がその救世主になろうとはしない。それが民だッ!

ハミルトン「人はそこまで怠惰な動物じゃない。ただ、我々ほど強くないだけだ
タルタロス「・・・聖騎士よ、貴公は純粋過ぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい
ハミルトン「何を与えるというのだ?
タルタロス「支配されるという特権をだッ!

俺はこれを何度引用したことかw

教育は、よく「投資」にたとえられる。子供たちへの教育は未来への投資だとか、社員教育は会社にとって投資であるとか、スキルアップのための自己投資と言ったフレーズは、あなたもしばしば見聞きするだろう。僕ももちろん、「学び」はそれぞれにとっての投資であるべきだと思う。投資とは、投資した側へのリターンが発生すること、すなわい投入した資本がそれ以上に大きな価値を社会に生み出すことを言う。だが、今の学校教育は「投資」になっていない。いざという時に引き出すための「貯金」にとどまっているのだ。

貯金の本質は我慢である。そして99%の我慢は、ただの思考停止にすぎない。一方、投資の本質は先読みだ。自分が何を求め、どんな社会でどう生きたいのか考え抜くことが求められる。

メディアはこぞって「あれだけの高学歴で、なぜ新興宗教に?」と大騒ぎしていた。世界的エリートになるはずの者たちが、あんな宗教にダマされるなんてわけがわからない、というわけだ。僕の目に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳に慣れた人たちが、信仰先を変えただけ。彼らは結局、出家と称して世俗から離れた後も、「親のようなもの」を求め、「学校や会社のようなシステム」を欲し続けていたのだ。これらの欲求の根っこにあるのは「目上の人に認められるのは良いことだ」「与えられた環境で我慢(修行)し、上の位を目指すべきだ」といった、誰もが抱えるごくありふれた思い込みーそう、「学校で教えられた常識」である。

僕は宗教には何の興味もない。肯定も否定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。その理由もおいおい述べよう。残念ながら普通に暮らしている限り、「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。それは「常識」の洗脳が、国家ぐるみで行われているからだ。国家は全国に46,000箇所もの”出先機関”を設け、この国で暮らす人たち全てをその魔の手にかけている。その出先機関とは「学校」だ。

学校にとっては知識など、添え物程度の意味しかない。学校はただ、ゆがみきった「常識」を植え付けるために存在する機関なのである。ここで簡単に「知識」と「常識」の違いについて触れておこう。知識としては、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。主観の一切入り込まない事実に基づく知。それが知識である。一方、常識とは「解釈」である。主観の入りまくった、その時代、その国、その組織の中でしか通用しない決まりごと。それが常識である。

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堀江 貴文

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