日本人の宗教意識-統計に見る奇妙な結果
1988年の日本の諸宗教の信者数である。
神道系 111,791,562
仏教系 93,109,006
キリスト教系 1,422,858
諸教 11,377,217
計 217,700,643
(文化庁「宗教年鑑」平成元年版による)
だがよく見ると、この数字はどこかおかしい。信者数の統計を見ると、2億を越している。そこでもう一つ別の統計を見ていただきたい。これは世論調査から出された数値である。
日本 アメリカ
信仰を持っている人 33% 93%
信仰を持っていない人 65% 7%
(NHK「日本人の宗教意識」 日本放送出版協会1984)
信仰を持っている日本人は1/3にすぎず、アメリカと比べてみるとまさに無信仰の国と言ってよいほどである。
どうしてこのような奇妙な結果が出るのであろうか。どうやら最大の問題は信者数における神道系の数字にありそうだということは推測できる。神道系のうち、8639万人は神社本庁の信者ということになっているから、これは戦前の国家神道以来の氏神-氏子関係が持ち越されているのではないだろうか。本人の知らないうちに信者に組み込まれているとすれば、いささか恐ろしい気もする。仏教の場合、信者数の統計では9000万を超え、総人口の8割に迫る信者数を持ちながら自覚的な信者は27%にしか達しないところをみるとやはりその食い違いが気になる。信者数の統計には檀那寺と檀家の関係が持ち込まれていると思われる。
そもそも日本の仏教というのは学問的にはなかなか扱いにくい領域です。まず何よりも非常に多面的であり、かつ現代でも生きた宗教ということがあります。例えば、インドの仏教を考えてみますと、確かに仏教発祥の地であり、数多くの仏典もインド起源ですから、仏教の研究をする場合、つねにインドの仏教をおさえておかなければなりません。私たちの研究室では、日本の仏教の研究を専攻する人でも、まずインドのサンスクリット語の習得が義務付けられています。
> インド哲学、俗に言う「印哲学科」か…。人気のない学科ということで名前だけは聞いたことがあったのだが、なかなか面白そうな学科じゃないか。
数理研究を進めていていつも行き当たるのは、日本の仏教は数理面の研究だけではごく一部しか解明できないという実態です。葬式仏教と言われるような仏教の実態、あるいは民衆の中に溶け込んだ様々な行事や風習などは、数理的な説明があったとしても建前にすぎず、むしろ日本人の生活習俗が仏教の形を取って現れたという面も少なくありません。例えば、古代の仏教の実態を知るのには、南都六宗の学問仏教も重要ですが、それはしょせん一部のエリート層の営みであり、大多数の民衆とは無関係です。民衆の間で信じられていた仏教の実態は、例えば「日本霊異記」などを読んだほうがよほど生き生きと描かれています。それゆえ、日本の仏教の実態を明らかにするためには、数理や歴史資料のみならず、文学やさらに仏像などの美術の分野も不可欠になります。
漢文仏典と訓読
私自身の研究の中心は、インド・中国あるいは朝鮮と渡ってきた仏教を、日本人がどのように受容し、変容していったかを文献に即して明らかにすることにあります。そもそも日本に入ってきた仏典は、基本的に漢文のものです。すなわち、その段階ですでにインドの仏教から一つの屈折を経たものになっているわけです。しかし、漢文の原文をそのまま用いたのではなく、訓読という独特の読み方を工夫しました。例えば「如是我聞」とあるのを「是(かく)の如くに我聞けり」というふうに、日本語として通るように読み替えたものです。漢文は外国語であるとともに日本語であるという二重性を持つことになります。原文がそのまま残されるので、完全な翻訳よりも原文を確認しながら読むことができ、誤解が少なくて済みます。非常に便利なのですが、そこに落とし穴もあります。漢文は当然訓読するもののように考えられ、外国語であることがともすれば忘れられがちです。漢文としての本来の語法や文脈が無視され、勝手な訓読がしばしばなされます。
訓読の前提に立った独創というのと少し違う次元で、漢文と日本語のはざまで独自の思想を展開したのが道元です。道元は宋に4年も滞在して如浄などの教えを受けています。ですから、かなり中国語ができたと思われるのですが、実際には道元の漢文にはおかしなところもあり、その語学力にはいささか疑問があります。道元は如浄の「身心脱落」の語を聞いて境地を開いたとされるのですが、この「身心脱落」は「心塵脱落」を聞き違えたのではないかという説もあります。もっとも「心塵」(xinchen)と「身心」(shenxin)では聞き違えようもないと思うのですが、ただ「心塵」を「身心」と聞き違え、「身心」と解したとすれば、ありうることかもしれません。
> 意地悪だなぁw
沼地日本
仏教の土着と風化ということを考えるとき、最近しばしば思い浮かべるのが、遠藤周作の「沈黙」という小説です。「沈黙」は江戸時代初期の弾圧化のキリシタンを扱ったものですが、そこには宗教が土着するとはどういうことなのかという思い主題が展開され、仏教もその問いかけから逃れることができません。「沈黙」の主人公ロドリゴに向かって、棄教した宣教師フェレイラはこう語りかけます。その箇所を引いてみましょう。
「20年間、私は布教してきた。」 フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰り返した。「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」
「根をおろさぬではありませぬ」 司祭は首を振って大声で叫んだ。「根が切り取られたのです」
フェレイラは司祭の大声に顔さえ上げず眼を伏せたきり、意思も感情もない人形のように、「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」
しかし、その努力が実って信仰が広まった時期があったではないかというロドリゴの必死の問いかけにフェレイラは追い打ちをかけるように言い放ちます。
「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思い込んでいた」
これはもちろんキリスト教のは話です。しかし、仏教の場合、それと無関係と言い切ることができるでしょうか。そもそも仏教者から真剣にこのような問いが正面から発せられたことがあったでしょうか。仏教は日本に定着したと言われます。だが、その定着の中身は何だったのでしょうか。
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