1991年2月から2000年12月までの10年間、私は国連難民高等弁務官として世界の難民と救済に専念した。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に求められたのは、難民や国内避難民、さらに被災民まで網羅した人道救援活動を主導し、かつ調整する役割を担うことであった。
世界の辺境にあって難民の救済にあっていた私およびUNHCR職員一同に対する日本の支援に心からの謝意を表したい。財政的には、日本政府は任意拠出によって賄われている事業経費において、アメリカに次ぐ第二の大口拠出国(ドナー国)となっている。外務省は高等弁務官の補佐官として優れた幹部職員を次々と派遣し、密接な協力を続けた。また、環境庁は、難民キャンプの設営に伴う大規模な環境破壊の防止と復旧をはかりたいという私の要請に応え、三代にわたって有能な技官・行政官を派遣し、事務所の環境対策の確立に大きく貢献した。
とはいえ、難民支援活動の中で、今一つ積極的な進展が見られなかったのは、庇護を求めて来日する難民への対応である。インドシナ難民の受け入れに当たっては日本政府は1万人の枠を設け、東南アジアに出向いて日本への受け入れをはかったこともあったが、その後、個々に来日して庇護を求める人々に対する条約の適用に当たっては、人道的配慮に基づく制度の透明な運営がいまだに確立されておらず、まだ満足すべき成果を収めるに至っていない。UNHCRに赴任する際、「日本は『人道大国』としての地位を占めてほしい」と私が語ったことが伝えられている。グローバル化が進み、相互依存が深まる今日、自分の村、町、あるいは国から追われ、悲惨な状況にある人々を放置し続けることはできない。