仏教の真理観
仏教思想の大きな特徴は縁起にあると言われる。縁起というのはあらゆる現象世界の事物は種々の原因や条件が寄り集まって成立しているということで、それゆえにこそ一切万物は変転極まりない、これが無常といわれることである。このように万物が変化し、演技によって成立しているということは、裏から言えば、外に依らずして自存し、永遠に存在するようなものは何もないということである。したがって、縁起の原理は実体が存在しない、無実体であるということに他ならない。またインド哲学の用語では、このような実体はアートマン(我)といわれるので、縁起の原理はアートマン否定ということになり、これはアナートマン(無我)の原理ともいわれる。大乗仏教で主張される空(シューニヤター)も基本的には同じ原理を言っているものである。さて、このような縁起・無実体の原理に立つならば、この現象世界を離れて何か真実の世界があるという考え方は否定される。このことは西洋の哲学と比べると明白である。実体主義の最も典型的な例はプラトンのイデア論に見られる。イデア論によれば、我々が見ている現象の世界はイデアの真実の世界の影のようなものであり、イデアの世界は感覚ではとらえられないものとされる。神を完全な存在としてこの世界を不完全な存在とみるキリスト教の哲学や、またブラフマンを絶対と見る。ヴェーダーンタの哲学も同様に実体主義の立場にたつということができる。これに対して、仏教では現象世界以外の世界を認めない。しかし、現象世界の自体の中に実体が存在すると見る唯物主義とも異なっている。
中国の北方に興り、ヨーロッパにまで攻め込んだ蒙古が、最初に国書を送って日本に迫ってきたのは文永5年(1268)。思想史上でもこの事件は大きな転換点を形作る。第一に、歴史始まって以来の国難はいや応なく国家意識を高め、また日本の神々への関心を高める。神道がはじめて本格的に理論化され、思想界に登場するのはこの頃から建武の中興を経て、南北朝にかけての時代である。それに対応して仏教界でもいち早く日蓮の国家思想が見られ、さらに熊野信仰と結びついた一遍の念仏などが見られる。
第二に、元の興隆と南宋の滅亡(1279)により、中国への留学はもちろん、大陸の新しい動向に左右されることもなくなった点が挙げられる。前代には最も土着的と思われる親鸞でさえ、宋の仏教界の動きに大きな関心を寄せていたが、この時代にはそれは不要であり、不可能にもなって、いや応なく独自の道を探ることになる。
第三に、前代には比較的安定した社会を背景に宗教の問題に沈潜し、思索を深めることができたが、社会の激動に伴い、現実への関心や社会的活動が強くなってきている。日蓮の国家諌暁や折伏活動、一遍の遊行、叡尊・忍性の救済活動などいずれもこうした動向と見ることができる。


近世仏教の問題点 葬式仏教の一般化 統制下の仏教
今日、日本の仏教寺院がどのような役割を果たしているのかを考えると、僧徒の修行の場や信者の信仰の場となっている寺院もあるが、大多数はいわゆる檀那寺、すなわち境内に檀家の墓地を持ち、檀家の葬儀や祖先供養を最大の仕事としている寺院であろう。葬式仏教と言われ、多分に批判的に見られながらも、おそらくは当分この形態は変わりそうもない。このことは日本にいるとあたりまえのようにみえるが、アジアの他の仏教国を訪れ、厳しい修行に明け暮れる出家者と熱心な信者によって維持されてる寺院の姿にふれると、仏教とはもともとこういうものであったかと、感銘を覚えないわけにいかない。
江戸幕府の開創期には、すでに仏教界は世俗の権力に対抗できるだけの力を失っており、やすやすと幕藩体制の中に組み込まれ、それを補完する役割をも担わされることになった。まず手が着けられたのは諸宗・寺院法度の制定で、1601年~1615年までにわたって各宗ごとに出されたものが1665年に諸宗寺院法度に統合され、その後さらに詳細に規定された。その間しだいに整備されるとともに、現代にいたるまで大きな影響を残したのは本末制度と寺檀制度である。本末制度は本寺と松寺の関係を制度的に確定するもので1632~1633)と1692に各宗の本山に対して本末帳を提出させている。これは寺院を封建体制に組み込むことを目指したものであったが、同時に末寺に対する強大な権力を駆使できることになる本山が積極的に協力した点も見逃せない。
こうして寺院の縦の支配系列を強めるとともに、末端の民衆支配の手段として活用されたのが寺檀制度である。寺檀制度というのは寺院と檀家との関係を固定化させ、それによってキリシタンの禁制を貫徹させようというものである。すなわち、寺院が檀家の人についてキリシタンでないことを証明する寺請制度にはじまり、寛文年間には宗旨人別帳の作成が制度化される。この頃にはキリシタン禁制はもはや多分に名目的なもので、むしろそれを口実に戸籍を作成し、民衆支配に活用することこそ真の狙いであった。
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その過程で中世以後広まってきた仏教による葬式・法要が普遍化し制度化されることにもなった。徳川家康が公布したとされる「御条目宗門檀那請合之掟」は後代の偽作であることがわかっているが、そのなかには、死後には宗門寺の住持が戒名を与えるべきこと、先祖の法要を怠ってはならないこと、などが規定され、それに従わないと邪宗門とみなされるとされている。最初に述べた葬式仏教の形態はここに権力の笠を借りて強制され、その形態が強制力を失った今日に至るまでなお継続しているのである。
葬式仏教を固定化された寺檀制度にしても先にみたように、一面では日本人の宗教感覚に合致するところがあり、それゆえにこそ、それが日本の社会に定着し、強制力が失われた近代になってもなお持続することが可能であったと考えられる。ここでは思想の面を中心に考えてみたいが、この面でも近世仏教の評判はあまり芳しくない。中世のように、思想界で仏教が主流を占めた時代は終わり、いまや儒学をはじめ、他の思想潮流に主流の座を明け渡し、仏教は一傍流に甘んじることとなった。しかも、鎌倉仏教のように創造的なエネルギーを失い、世俗化し、通俗化してしまったと言われる。
この点を考えるために、ここで西欧における中世から近世への思想の転換を参考までに簡単に見ておこう。西欧の中世の価値観は、基本的に神を中心とし、ローマ教皇を頂点とする一元的なキリスト教的世界観に基づくものであったが、この価値観は15、6世紀のルネサンス、地理上の発見、宗教改革などを通して大きく揺らぐこととなった。
第一に、神中心から人間中心の世界観へと転換した。このことはすでにルネサンスに顕著であるが、哲学の世界では17世紀にデカルトが現れ、「我思う故に我あり」と主張して、根本原理を神から人間の世界へ引き下ろした。また、世俗から超越に優位を置く価値観から世俗性に重点が移された。例えば、宗教改革においても修道院のキリスト教から世俗のキリスト教へという傾向が顕著にうかがわれる。第二に神学的世界観から科学的世界へと転換した。これも世界を超越した原理を求める立場から、現実の世界の中に原理を求める立場への転換という点で、第一点と深く関係する。第三に、価値観の多様化が指摘される。この点で大きな意味をもったのは宗教改革であり、唯一絶対であったキリスト教会が分裂し、それぞれ相手の立場をも認めざるを得なくなった。
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