薩摩藩が、西洋音楽に興味を持ったのは、文久3年(1863年)7月、この藩が鹿児島湾において英国艦隊と戦った戦闘が契機になっている。この戦いでは、いま三笠に座上している東郷平八郎も父吉左衛門および二人の兄とともに、齢17で参加した。かれは五ツ蔦の定紋を打った陣笠をかぶり、ツツソデのブッサキ羽織にタチアゲ袴をはき、両刀を帯し、火縄銃を持ち、母親の益子の「負クルナ」という声に励まされて家を出、持ち場についた。英国艦隊は艦砲で尖頭弾と火箭を送り、薩摩藩は沿岸砲に円弾をこめて応酬し、戦闘は結局は勝敗無しの引き分けといった結果になったが、この戦闘中、英国軍艦の上では士気を鼓舞するためにしばしば軍楽が吹奏され、それをきいた薩摩藩士たちは敵の身ながら感動し、戦後、「あれはよかもんじゃった」ということになって、いつか機会があれば藩に取り入れたいという相談があった。それが実現した明治4年、兵部省付属になり、翌5年兵部省が廃止され陸海軍両省がおかれたときこの軍楽隊が陸軍と海軍に二分された。このため、海軍軍楽隊のメンバーにはこの日露戦闘の時期でもなお薩摩人が多く、「軍艦行進曲」の作曲で有名な瀬戸口藤吉も薩摩生まれで明治15年海軍軍楽隊生徒になった。
「外国には、国家の次にその国を代表する歌があるが。残念ながら日本にはない。おまえ、作曲してみないか」といって、華族女学校の先生である鳥山啓というひとのつくった「軍艦」という歌詞を示した。国民的な歌唱の主題として「軍艦」が選ばれたというのはいかにも明治国家らしく、ある意味では象徴的なことであった。鳥山啓の歌詞ははじめ「此の城」という題がついていた。瀬戸口はこの作曲に熱中し、つくりあげて「軍艦」という題にして明治30年に発表したがそれが気に入らず、1年ほど推敲を重ねて、「軍艦行進曲」を仕上げ、明治33年4月30日、神戸沖観艦式ではじめて演奏された。このころの「軍艦行進曲」はハ長調で、その後のものと少し違っている。その後、歌うには高すぎるということで、明治43年、ピアノ編曲で出版されるとき瀬戸口がこれをト長調にあらためた
ロジェストウェンスキーの容貌は、神が「非凡さ」ということをテーマに彫り上げるとすればこの顔になってしまうだろうと思われるほどにすぐれた造形性をもっていた。聡明でよく澄みよく輝いた両眼、端正な鼻と品が良くて意志的な唇、といったぐあいに道具だてを個々に取り上げても優れていたが、それが顔として総合されてもなお、一個の力を感じさせる容貌であった。かれはロシアの将官としてはめずらしく貴族の出ではなかったが、その容貌は貴族中の貴族であることにふさわしいものであった。かれは抜群の成績で海軍兵学校を出、尉官時代はその有能さで上官から畏敬された。佐官時代は主に陸上勤務であったが、砲術の研究者として優秀であった。ただし独創的な業績やひらめきは少しも持っていなかった。さらに海軍省にいたときは事務家としても、物事の処理者としても有能であり、部下に対しても厳しく、上官に対しても言うべきことは言った。もし彼の生涯において戦争というものがなかったならば、この不戦の提督はロシア海軍の逸材として国家の内外で大切にされ、幸福な余生をどこかの別荘で送ったことであろう。が、かれはロシアの多くの提督の中から選ばれ、とほうもない冒険と計算力を必要とする戦争に引き出されてしまった。
ロジェストウェンスキー
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> そこまで褒めるほどの容貌か?


クルセリは商船の頃、何度もインド洋を経験していた。そのRozhestvenski航路はスエズからコロンボ(セイロン島)にいたるのが普通で、その航路は各国の艦船にとってインド洋の銀座というべきものであった。ところがバルチック艦隊はそれよりもはるかに南の新航路をとりつつあるのである。その理由は各国の艦船に出会うことによって消息や所在を知られたくないためであり、まして日本の同盟国である英国艦船に見つけられたくなかった。インド洋は「大英帝国の湖水」という異名があった。ロジェストウェンスキーは万里船影なしという孤独な航路を進もうとしていた。
旗艦スワロフは、上甲板から砲甲板にいたるまでぎっしり石炭袋を積み込み、いかにも巨体を重そうにして波を切っていた。石炭袋の堆積のすきまごとにこの艦の食糧である牛が肩身を狭めるようにして息づいていた。牡牛もいたし、牝牛もいた。子牛までいた。牝牛は乗組員に牛乳を提供すべく乗せられていたのだが、波濤による動揺のためどの牝牛を乳が出なかった。牛たちは、排泄物を容赦なく甲板に流した。そのたびに水兵や主計兵が清掃した。艦隊はほぼ単縦陣ですすんでいた。45隻というこの全艦隊の長さは10キロに及ぶであろう。これにさらに近い将来、ネボガトフ少将の第三艦隊が加わってくる。この大艦隊の遠征がもし成功すれば、ピラミッドの造営も万里の長城もアレキサンダー大王の遠征も光を失ってしまうに違いない。
巡洋艦以上はまだいいにせよ、駆逐艦の航海は大変であった。350トン程度のこの時代の小さな型の駆逐艦ではこれほどの大航海は無理だというのがいわば常識であった。しかしながらいざ戦闘のとき猟犬の役目を果たす駆逐艦がなければ、戦闘艦隊の機能は果たせない。まったくこの小さな艦はやっかいだった。乗組員にとっても、外洋の大波にたえず揺れ、時には谷間に滑り込み、さらに山を登るような運動を繰り返して、その苦痛は非常なものであった。さらに艦隊全体にとってもこのちっぽけな艦は、すぐに石炭を焚き尽してしまい、「残炭ナシ」というような信号を以前はひっきりなしに(9隻もいたために)旗艦へしらせてきた。そのつど駆逐艦の石炭補給だけのために全艦隊が洋上で停止せねばならず、まことに足手まといであった。今度のインド洋横断航海にあたってはこの問題を少しでも解消するため、大鑑がワイヤー・ロープでもって駆逐艦をひっぱってゆくことにした。
艦隊は洋上でしばしば停止した。ある艦が故障したと言えば洋上修理ということでいっせいに停止し、石炭搭載のときも停止した。「ロジェストウェンスキーの奇蹟」とまでいわれたこの大航海は、たしかに奇蹟というにふさわしかった。極東への途中、一か所も給炭所をもたずにかれらは航海し、なおつづけようとしているのである。なるほどフランスは露仏同盟のよしみによってたしかに好意的であった。しかしその植民地の港をこの艦隊に開放しなかった。解放したい気持ちはやまやまあっても、日本政府はフランスに中立国としての厳正な態度をまもらせようとしばしば申し入れをしたり、ときには抗議をしたりして、実に執拗であった。フランスは実のところ、日本国などをなんとも思っていないのだが、しかし日本の背後にいる英国に遠慮をし、その分だけバルチック艦隊へのサービスをひかえた。軍艦というのはおびただしく石炭を食う。そのための給炭所を持つことなしに45隻が遠洋航海するというのは考えられないことであったが、しかしロシア人たちはそれをやってのけた。それを可能にしたのは、以前にも少し触れたように、ドイツの石炭会社からゆくさきざきで石炭船をだしてもらうことであった。そのための実施要領は、艦隊側と石炭会社との間で綿密に計画されており、その計画はとどこおりなくすすんでいた。ただ不自由なのは、洋上で漂いながら石炭を補給することであった。この作業には士官まで参加した。その労働のすさまじさは、港内でのそれをはるかにうわまわるものであった。「この石炭搭載作業がいちばん艦隊の力を消耗させた。帆船艦隊の奴隷漕手のほうがわれわれより楽だったかもしれない」と、じっさいにリバウ港を出て以来、この作業のつらさを肩や腕や呼吸でもって知り尽くしてきた戦艦アリョールの主計下士官ノビコフ・プリボイは書いている。
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