乃木希典はようやく攻撃の力点を203高地に置いた。軍司令官独自の判断であり、かれの参謀長伊地知幸介の発議によるものではなかった。この決定の席上、伊地知は沈黙していた。かれはこの期にいたってもなお、「あんな高地を奪って何になるか」という考え方を変えていない。伊地知に言わせれば、「203高地主攻説をなす者は、ここを奪取してその頂上に観測点を置き、旅順港内の敵艦隊を陸上砲で撃つというが、たとえ奪取できても砲兵の設備をすることを多大の月日を必要とする。机上の空論である」と、いうことであった。むろんその後、実際に行われた後、この伊地知論のほうが空論であることが実証された。
乃木希典
もしこれが、最初からプログラムに組んでいればどうであろう。この高地がまだ半要塞の状態であったとき、第一師団がここを攻撃しているのである。むろん撃退されたが、このときわずかでも増援軍を送っていれば占領できたことは確かである。そのせっかくの好機を、乃木軍司令部は自ら捨てた。その後、この高地を放置した。その間、ステッセルは、あらゆる砲塁のなかで最強のものをこの高地に築き上げたのである。
203高地は、旅順市街の西北約2キロの地点に、大地がちょうどうねるように隆起している。付近には案子山、椅子山があり、谷を隔てて相つらなり、203高地のそばには赤坂山と海鼠山がある。いずれも要塞化され、峰々が連繋して隙間の無い火網を構成している。ねずみいっぴきが走っても、鉄砲火の大瀑布にたたかれねばならなかった。この高地の殺人機構というのは、日本人の築城術の概念をはるかに越えたものであった。まず、高地の西南部に今日断面の堡塁がある。その堡塁の内壕の深さは2メートル以上であった。横蔣がいくつかあり、また砲塁司令所は強固に掩蔽されている。さらに高地の東北部にも同様の砲塁があり、6インチ砲をそなえ、各鞍部には軽砲砲台があり、それら堡塁や砲塁のあいだに暗路が走って、交通路になっている。山の中腹には、鹿砦がつらねられ、その前に散兵壕があり、その火線には銃眼掩蓋があって機関銃が配置され、ついで山腹一帯には、鉄条網が張り巡らされている。
部下の諸隊が剣電弾雨のなかに箆れてゆくことについても、「彼らの生命に関して、豪も個人的感情を交えなかった」(目黒真澄訳) このあたりに明治の特質のひとつが潜んでいるらしい。日本歴史は明治になるまでの間、他の歴史に比べて庶民に対する国家の権力が重すぎたことは一度も無い。後世のある種の歴史家たちは、一種の幻想を持って庶民史を権力からの被害史として書くことを好む傾向があるが、たとえば徳川幕府が自己の領地である天領に対してほどこした政治は、他の文明圏の諸国家にくらべて嗜虐的であったという証拠はなく、概括的にいえばむしろ良質な治者の態度を維持したといっていいだろう。庶民が、「国家」というものに参加したのは、明治政府の成立からである。近代国家になったということが庶民の生活にじかに突き刺さってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵の憲法の下に、明治以前には戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家というものは「近代」という言葉の幻覚によって国民に必ずしも福祉をのみ与えるものでなく、戦場での死をも強制するものであった。日本の戦国期の戦争といえば足軽に至るまで軍人は職業であった。その職業から逃れる自由ももっていたし、もっと巨大な自由は、自分たちの大将が無能である場合、その支配下からのがれる自由さえ持っていた。このため戦国の無能な武将たちは、敵に負けるよりも先に、その配下の将士たちがかれらの主人を見限って散ってしまうことによって自滅した。
伊地知は「陸の心配は陸でやる」といった。が、伊地知には専門をたてにとる癖があり、素人が何を言うか、という気持ちがあった。この伊地知がもっていた最大の滑稽さは、軍事というものには素人と玄人の違いがあると信じ込んでいたことであった。
-自分は、砲兵の専門だ。
と、たえず言っていた。要するに海軍の提案を素人案として一蹴した。ついでながら大砲の操作法といった技術分野には素人と玄人の問題があるにしても軍事(ストラティジック)というものそのもには素人・玄人というものがない。このことは軍事の本質に関わることであり、例をあげると、長篠の役における武田軍団の諸将はことごとくその敵の織田信長よりもはるかに玄人であった。が、信長が案出した野戦における馬防陣地の構築と世界戦史上最初の一斉射撃のために壊滅してしまった。そのくせ信長や秀吉の戦法は江戸軍学にはならず、武田信玄の古風な甲州陣法が軍学になって幕末まで継承されたというところに、旅順における伊地知幸介を生むにいたるところの日本人の心的状況の一系譜があるだろう。
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