乃木は近代戦の作戦指導に暗い。しかしその人格はいかにも野戦軍の統率に向いていた。軍司令官はその麾下軍隊にとっての鑚仰の対象であればいいということでは、乃木はそれにふさわしかった。そのかわり、乃木に配する近代戦術の通暁者をもってすればいいということで、薩摩出身の少将伊地知幸介を参謀長にした。伊地知は多年ドイツの参謀本部に留学していた人物で、しかも砲兵科出身であった。砲兵科出身の参謀長でなければ要塞攻撃に適任ではないであろう。ところがこの伊地知が結局は恐るべき無能と頑固の人物であったことが乃木を不幸にした。乃木を不幸にするよりも、この第三軍そのものに必要以上の大流血を強いることになり、旅順要塞そのものが、日本人の血を吸い上げる吸血ポンプのようなものになった。
たとえば、海軍が献策していたのは、
「203高地を攻めてもらいたい」
ということであった。この標高203メートルの禿山は、ロシアが旅順半島の山々をことごとくべトンで固めて砲塁化した後も、ここだけは無防備で残っていた。そのことは東郷艦隊が洋上から見ていると、よくわかるのである。この山が盲点であることを見つけた最初の人物は、艦隊参謀の秋山真之であった。「あれを攻めれば簡単ではないか」ということよりも、この山が旅順港を見下ろすのにちょうど良い位置を持っているということの方が重大であった。203高地を取ってその上に大砲を引き上げて港内のロシア艦隊を撃てば、二階から路上に石を落とすような容易さでそれを狙撃することができる。艦隊を追い出すために陸から攻めるというのが陸軍作戦の目的である以上、203高地を狙うことが必要かつ十分な要件であった。ところが、乃木軍の伊地知幸介は一笑に付し、しかも、
「陸軍には陸軍の方針がある」
として、この大要塞の玄関口から攻め込んでゆくというような、真正直な戦法をとった。ついでながら203高地については攻略が悪戦苦闘したすえ、ギリギリの段階で児玉源太郎が総司令部の仕事を一時捨ててこの旅順の現地へやって来、みずから作戦の主権を握ることによってこの海軍案を採用し、総力を挙げてこの山への攻撃を指向した。そのころにはロシア側もこの山の重要さに気づき、すでに防備を施していたため、攻撃には大量の流血が伴ったが、ともかくもこの高地の奪取によって旅順攻撃は急転換した。旅順ははじめ一日で陥ちるはずであった。しかし要塞の前衛陣地である剣山の攻防から数えると、191日を要し、日本側の死傷6万人という世界戦史にもない未曾有の流血の記録を作った。
駆逐艦や水雷艇の役割というのは、長い武器を持った敵の騎馬武者に対し、短刀一本の裸身で飛び込んで行き、抱きついてその脾腹をえぐるものなのである。ずいぶん危険な仕事だが、そのかわり、大鑑の倍ほどの速力を与えてもらっている。(それがあの連中、開戦以来ろくな仕事をしていない)というのが、真之の不満だった。開戦早々、駆逐戦隊による旅順港口への飛び込み奇襲を行うとき、真之は敵戦艦を五隻沈めるものと期待していた。そうであろう。敵の旅順艦隊は「アヒルの昼寝」といわれたように、無警戒で錨をおろしていたのである。ろくな防材も施していない。しかも旅順の外港にいた。そこへ夜襲して、手探りで接近しつつ20本の魚雷を射ち、やっと敵の三艦を傷つけただけであった。魚雷を撃つとすぐさま背進し、全艦艇が無傷で帰ってきた。奇襲者が無傷で帰るとは、それだけ肉薄しなかったことであり、つまり軍艦を貴重だと思うあまり、差しちがえて自艦をも沈める覚悟が、日本の駆逐艦指揮官に薄いからである。
真之は、米西戦争におけるアメリカ人たちを常に思い出すのである。彼らはいかにも素人くさい軍人たちだったが、日本人よりはるかに冒険精神に富んでいた。(なにしろアメリカ人というのははねっかえりなのだ。ヨーロッパからの流れ者か、その子孫の集まりだから、本来、いのちがけの競技が好きなのだ)と、真之はおもうのである。
そこへゆくと、日本人は徳川300年の間、わが田を守る百姓根性が骨のずいまで沁みこんでいるうえに、あらゆる意味での冒険を幕府が禁じてきたために、精神の習性としてその要素が薄い。一方、日本人は忠実で決められたことをよく守るために、大鑑の乗組員にはむいている。戦艦の砲側にあって、上官の五体が飛び、同僚が引き裂かれて倒れようとも、水平たちは持ち場を離れようとはしない。主力艦隊の強味はたしかにそういうところにあった。が、個人としての勇気や、個人としての冒険精神を必要とする駆逐艦の世界は一見日本人に適っているようで、適ってないのではあるまいか。(日本人は倭寇の昔をわすれたのだ)
シモセ・パウダーといわれる下瀬火薬が発明されたのは、明治21年のことで、実験を重ねた結果、海軍が採用したのは明治26年のことであった。が、翌年に始まった日清戦争には使用されなかった。「日清戦争の時はすでに下瀬火薬ができあがっていたが、しかし機械の方がまだ不完全だったので使えなかった」という意味のことを、明治44年9月4日付の報知新聞に海軍造兵総監沢艦之丞が語っている。日清戦争の頃までは、砲弾にとって最も大事な着発信管は主としてオランダ製を使っていたが、この信管では下瀬火薬に不適当であった。のち、いわゆる伊集院信管が発明されることによって下瀬火薬は実用化されることになり、日露戦争前には日本海軍のすべての砲弾、魚雷、機械水雷にこの火薬が詰められた。
ものの量から見ればこの戦争は、日本にとって勝ち目がほとんどなかったが、わずかに有利な点は下瀬火薬にかかっていたといえるであろう。「軍艦のある場所で炸裂すれば、甲板上に人間がのぼれるものではない」とまでいわれたほど、凄まじい高熱をこの爆薬(炸薬)は出す。このため最初ロシア側は、「日本海軍の砲弾は毒ガスを拡散する」と、世界に向かって訴えたほどであった。その例として日本の魚雷が巡洋艦パルラーダの石炭庫に命中したとき、6人の水兵が消火しようとして現場に近づいたところガスにやられるようにして斃れた、ということをあげている。むろん毒ガスではなかった。下瀬火薬が爆発するときに発生するガスの熱がなみはずれて高く、3000度にものぼった。6人の水兵の不幸は、この高熱によるものであった。ロシア側は開国して30数年しか経たない日本が独創による砲弾を使うはずがないとみて、「日本軍は英国製のリダイト弾をつかっている」と、旅順の海軍部は発表している。
遼陽に展開しつつあるロシア軍に対し、日本軍は機敏な攻勢に出るべきであった。が、出ることができなかった。砲弾が足りなかったのである。海軍は、あまるぐらいの砲弾を準備してこの戦争に入った。が、陸軍はそうではなかった。「そんなに要るまい」と、戦いの準備期間中からたかをくくっていた。かれらは近代戦における物量の消耗ということに想像力が全く欠けていた。この想像力の欠如は、この時代だけでなく彼らが太平洋戦争の終了によって消滅するまでの間、日本陸軍の体質的欠陥というべきものであった。
もし日清戦争の10倍が必要なら、それだけの量を外国に発注したり、大阪砲兵工廟の生産設備を拡充してそれだけの準備をせねばならない。が、日本陸軍は、「砲一門につき50発(1か月単位)でいいだろう」という、驚嘆すべき計画を立てた。一日で消費すべき弾量だった。このおよそ近代戦についての想像力にかけた計画を立てたのは、陸軍省の砲兵課長であった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度の建前から、この案に対し上司は信頼した。時間もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。それが正式な陸軍省案になり、それを大本営が鵜呑みにした。その結果、膨大な血の量が流れたが、官僚制度の不思議さで、戦後たれひとりそれによる責任を取った者はいない。
「大砲小銃弾を打ち尽くした」という電報がひっきりなしに乃木軍から東京の大本営に打たれた。砲弾も小銃弾もなしに戦争をせよというばかばかしさは、どうであろう。「一門50発」という、開戦前の陸軍省の一砲兵課長の立案の失敗が、国家の運命を左右するところまで来ていた。戦争の初期、南山や金州でロシア軍の砲弾の洗礼を浴びてから、「せめて一門で100発を」というところまで修正されたが、事態は手遅れであった。砲兵工廟の生産設備は急に広がらないし、外国に注文しようにも(げんに注文した)すぐ間に合うものではなかった。
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