「維新以後の女王」71人の女王すべてが結婚したわけではない。夭折・早世して適齢期までその生涯を全うできなかった女王が10人おり、また出家したり結婚をしなかった女王も居るし、現在、結婚前の女王も居る。こうした未婚の女王を除くと結婚したのは54人となる。54人の出身宮家の内訳は伏見宮11人、有栖川宮3人、閑院宮3人、久邇宮15人、山階宮1人、北白川宮8人、梨本宮2人、賀陽宮3人、竹田宮3人、朝香宮4人、東久邇宮1人である。皇后になったのは久邇宮良子女王1人である。また梨本宮方子女王は朝鮮王族の李琨妃となっている。皇族妃となったのは、伏見宮知子(久邇宮朝融王妃)、有栖川宮利子(伏見宮貞愛親王妃)、賀陽宮佐紀子(山階宮武彦王妃)の3女王であった。これらの5人は結婚後も皇族(王族は準皇族的存在)としての地位と身分を得ていたのであった。皇族に次ぐ華族家に嫁いだ女王は42人、公爵家が7人、侯爵家が8人、伯爵家が15人、子爵家が10人、男爵家が2人、そして爵位がない家に嫁いだ女王は7人であった。
特徴的なのは爵位の無い家に嫁いだ7人の女王である。みな1929年~1945年にかけて生まれており、結婚したのは新典範制定以降の者たちばかりである。いわば戦後の新時代に結婚した女王たちであり、かつての身分関係による婚姻制度から自由になっていたことがうかがえる。これら7人の女王の結婚相手のうち歴史的な著名人は、伏見光子が嫁いだ尾崎行良で、「憲政の神様」と称された尾崎行雄の孫であり、日本航空取締役であった。とはいえ、名門ではあるが勲功華族でもなく、むしろ大衆勢力側の代表的な人物の家柄であった。そのほか、伏見章子はサッポロビール勤務の草刈広、久邇英子は本州製紙会長の三男で木下経営事務所の木下雄三、竹田素子は三友食品取締役の佐藤博、竹田紀子はレイケムカンパニーの渡辺宣彦、朝香美乃子は日新製糖常務の坂本善春と結婚した。
女王の離婚
閑院宮華子
伏見宮貴子、閑院宮華子、久邇宮正子、賀陽宮美智子、東久邇宮文子の5女王が離婚を経験している。旧典範時代に離婚したのは伏見宮貴子である。貴子女王は松平直応伯爵と1877年に離婚後、同じ諸侯家の松平忠敬子爵と再婚している。美智子は旧典節時代の1943年に徳大寺実厚公爵の二男である斉定の夫人となるが1945年9月に李琨。その後、皇籍離脱で賀陽美智子となり、学習院大学フランス文学科を卒業、財団法人国際教育情報センター理事、菊医会名誉会長、煎茶道「永晈流」副総裁などを務めている。なかでも閑院宮華子の離婚は当時の世上の話題となり、かなり醜聞的なものであった。華子は賜姓華族の華頂博信侯爵家に嫁いでいたが1951年に離婚する。華子は満42歳、博信は46歳であった。戦前には海軍軍人であった博信との間に2男1女をもうけていたが、戦後になって読書好きの学者肌で養鶏場などを作ったりする博信と、社交好きでダンス教授などをする華子との関係に亀裂が生じたのであった。華子には工業クラブ嘱託の戸田豊太郎という愛人がおり、華子の実兄の閑院宮春仁王がこれに怒り、戸田との再婚を封じるために華子を軟禁して教会などに通わせた。ところが純仁夫人の直子(一条実輝公爵4女、閑院宮春仁王妃)が、純仁に同性愛癖があると暴露し1966年に離婚した。この間、華子は戸田と結ばれ、博信も再婚したのであった。
増殖する近代宮家
幕末まで四親王家しかなかった宮家が、どうして維新後に急増してしまったのであろうか。背景には朝廷の政治的地位の上昇と皇族と公卿の政治的躍進などがあることは想像されるが、法的な根拠がどこにあったのか明確にする必要はあろう。そもそも、幕末維新期に青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)のほかにも、勧修寺宮(山階宮晃親王)、仁和寺宮(小松宮彰仁親王)などの宮門跡が次々と還俗し、皇族の数が増えたが、この間、皇族の出家も禁じられた。すなわち1864年には皇子や皇女の出家剃髪が禁止され、さらに1868年、皇族や公家の子弟は僧侶とせず、力量次第で政治に参与させる方針が定まったのである。こうした結果、四親王家以外の新たな還俗親王家が増大することとなるが、必要以上の肥大化を抑えるため、新宮家の嫡子以下は臣籍降下させることとし、1868年に「親王・諸王の別、皇族の世数及び賜姓の制」を定め、皇兄弟と皇子を親王とし、皇兄弟と皇子以外を諸王として、親王より5世王は皇族の名を得るが、皇親とはしないとの継嗣令の規定を前提とした処置を取ったのである。この結果、伏見宮と有栖川宮の嫡子は従来の通り天皇の養子として親王宣下し、閑院宮は嫡子相続の際に天皇の養子として親王宣下するが、賀陽宮、山階宮、聖護院宮、仁和寺宮、華頂宮、梶井宮の子孫は嫡子も含めて賜姓華族に列することとなったのである。
1870年、桂、有栖川、伏見、閑院の四親王家のほか新たに創建した親王家は、すべて一代に限り、二代目以降は「賜姓華族」とすると布告されたのであった。ところが、一代皇族たちは漸次、勅旨により特例として宮家の継承が許され、いわゆる宮家皇族(直営ではない宣下親王による宮家)を構成していった。
高松宮妃喜久子の実母・実枝子女王
10代威仁親王の二女である実枝子は徳川宗家別家の徳川慶久夫人となったが、その実子には諸説ある。夫の慶久は15代将軍慶喜の7男で実母は側室の新村信であった。明治35年(1902年)に慶喜の公爵となり、明治43年慶喜が隠退して慶喜が公爵を嗣いだ。慶喜と実枝子との間には5女1男があり、長女慶子は夭折、2女喜久子は高松宮宣仁親王妃、長男慶光は徳川宗家別家である公爵家を嗣いだ。ほかに喜佐子と久美子の2女がいるが、二人は、ともに実枝子が連れてきたお側女中の子との説がある。そして、これに立腹した実枝子も歌舞伎役者との間に子をなしたとも言われ、「慶久さまがお妾にお生ませになった2人のお嬢様は無事に育ってお嫁にいらっしゃいましたけど、実枝子様の方は存じません」としている。