アメリカの文学批評家ジョージ・スタイナーは1918年から1927年までの10年間にドイツ語圏出された一群のほんの織りなす星座のうちに「存在と時間」を据え、それらの本に共通する性格を捕らえることによってこの時代の独特の気分を見事に浮かび上がらせている。その一群の本とは、エルンスト・ブロッホの「ユートピアの精神」(1918年)、オズワルト・シュペングラーの「西洋の没落」第一巻(1918年)、カール・バルトの「ロマ書」注解所版(1919年)、フランツ・ローゼンツヴァイク「救済の星」三巻(1921年)、アドルフ・ヒットラーの「わが闘争」2巻(1925,1927年)、それに「存在と時間」上巻(1927年)である。ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(1922年)、ジェルジ・ルカーチの「歴史と階級意識」(1923年)を付け加えても良いと思っている。
シュペングラー
スタイナーはこれらの本に共通するいくつかの特徴を挙げる。これらの本が利用可能なあらゆる洞察を総動員して、世界史の全体について何か統一的な見方を提示しようとしていると言うことを意味する。次にこれらの本はすべて何らかの意味で予言的・ユートピア的著作だと言うこと、そしてそこから帰結するのはこれらの本がいずれもある意味で黙示録的だということである。ユダヤ教やキリスト教において「黙示録(アポカリプス)」と呼ばれるのは、現世の終末と来るべき世界についての神の秘密の教えを告知する文書のことである。第一次大戦の敗戦は、ドイツ人にとって単にドイツ帝国の崩壊を意味するだけではなく、2000年来の西洋文明の終焉、つまりまさしくシュペングラーの言うような「西洋の没落」として受け取られた。スタイナーはこれらの本には一様にそうした終末論的・黙示録的雰囲気がみなぎっている、と見るのである。ところでこうした性質は暴力的性格と結びつく傾向がある。それは徹底した否定を目指す暴力であり、弁証法的に肯定を生み出すようなヘーゲル的否定ではない。「神は世界に永遠の拒否を告げる」というバルトの暴力的な宣言、人間の心や社会のうちに現存する一切の秩序の転覆を図るブロッホの「ユートピアの精神」、シュペングラーの「西洋の没落」にひそむバロック的暴力、「わが闘争」に見られる絶滅することによる悪魔祓いの戦略、ハイデガーの思索に核心に潜む「無化(ニヒデン)」の働き、これらは人類の歴史と希望に向けられた徹底した否定の多様な現れである。「論理哲学論考」こそ-「語りうるもの」を明確に語るための理想言語の提唱だけではなく、「語りえぬもの」については沈黙すべきだと言うその厳しい禁令を含めて考えるなら-もっとも過激な言語革命の企てであるし、「歴史と階級意識」は、ルカーチ自身が後年その「黙示録的」な性格を指摘し、そのゆえの失敗を認めているからである。
本の全体の構想から見てゆこう
『存在と時間』
「上巻」
序論
第一部 現存在と時間性へ向けて解釈し、時間を存在への問いの超越論的場として究明する
第一篇 現存在の準備的な基礎分析
第二篇 現存在と時間性
「下巻」
第三篇 時間と存在
第二部 テンポラリテートの問題群を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの概要を示す
第一篇 テンポラリテートの問題群の予備段階としてのカントの図式機能論および時間論
第二篇 デカルトの「われ思う、われ在り(コーギトー スム)」の存在論的基礎と「思考するもの(レース・コギタンス)」の問題群への中世存在論の継承
第三篇 古代存在論の現象的基盤とその限界の判定基準としてのアリストテレスの時間論
1927に出されたのは二巻のうち「上巻だけなのである」。そして「序論」によれば、この本の狙いは「存在の意味への問いを具体的に開発すること」、「存在への問いをあからさまに反復すること」、つまりは「存在一般の意味の究明」にあるのである。
ハイデガーは「存在の意味」を問うためには、まずその問いを問う人間の存在構造を明らかにする必要があると考える。その人間のことをハイデガーはこの本では「現存在(ダーザイン)」という妙な言葉で呼んでいる。これはハイデガー独自の用語である。人間のことはそのまま「人」とか「人間」と呼べばよさそうなものであるが、おそらく彼はこれらの言葉が曖昧すぎて、きちんとものを考える場合には役に立たないと考えをそれを避けているのであろう。たとえば「人非人」という言葉、「人にして人に非ず」という言葉があるが、これなどは上の「人」では生物学的な種としてのホモ・サピエンスを指し、下の「人」では一定の文化的・道徳的資質を備えた人間を指している。「人」とか「人間」とかはいくらでも多義的に使えるあいまいな言葉である。そこでハイデガーはこの言葉を避け、ここでは人間はあくまで「存在の意味」が問われる「現場」としてのみ問題にされるのだと言う意味で「現存在(ダーザイン)」と言う言葉を選んだようである。
書かれなかった下巻の意味
私がこの成立の事情にこだわるのには理由がある。というのも、「存在と時間」は結局失敗に終わり中断されるわけであるが、その失敗がどこで起こったのかと言う問題にこれが関わるからである。このばあい、2つの事態が考えられる。つまり、この時点でハイデガーのとっていた西洋哲学史全体についての味方が間違いだったと言うことなのか、それとも、その見方そのものは良かったのだが、それを展開するための準備作業に欠陥があったと言うことなのか。私は後者だと思っている。1941年夏学期の講義「ドイツ観念論の形而上学-シェリングについての新解釈」で「自分は今でもなお「存在と時間」を乗り越えて前進したりはしていない」と主張し、ただしそのばあい、「著作としての存在と時間と省察の名称としての存在と時間」は区別しなければならないのであり、自分が今言っているのは後者のことなのだが、と但し書きをつけているのもその証拠の一つになろう。そうだとすると、いま「存在と時間」を考察するに当たってわれわれは通常行われたようにその書かれた上巻から見てゆくのではなく、書かれなかった下巻、つまり第一部第三篇と第二部、言い換えればこの本の究極の狙いである「存在一般の意味の究明」と、「存在と時間」という視点からする西洋哲学史観とから考えはじめ、その上で、ハイデガーがそのための準備作業をどう組み立てようとしたのか、そしてそれがなぜ挫折したのかを見ていくほうが良いと思う。
> 行間を読むを越えて、未完成、”存在しない”下巻から読むってのは一般人の俺には無理な芸当だなw