2.ルートヴィヒ2世変死事件
いまやドイツの観光ルートの定番になってしまった感のある、南バイエルン地方のノイシュバンシュタイン城。森の中の白亜の美しい城は楽聖ワーグナーを愛したバイエルン王、ルートヴィヒ2世の名と固く結びついている。ここを訪れる観光客は年間200万人を越えるといわれるが、そのなかでも日本人がダントツに多いことは言うまでもない。このルートヴィヒ2世が城の建築に夢中になったために、国庫の赤字を招き、あげくは退位にまで追い込まれ、スタルンベルク湖で悲劇的な死を遂げたことはあまりにも有名である。
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無数の王侯たちがひしめく19世紀ヨーロッパで、特にきわだった美貌で知られていたのはなんといってもこのルートヴィヒ2世だろう。彼が19歳でバイエルン王に即位した時、その輝くような美貌はまさに地上に降り立った神のように讃えられた。すんだ瞳は哀しいまでに青く、目鼻立ちは女のように整っていて、彼の乗った馬車が通ると女たちはおもわずうっとりと見とれたという。“童貞王”と呼ばれたルートヴィヒ2世はあだ名の通り、40年余りの生涯を独り身で通した。その間、俳優、貴族、馬丁などの若く美しい同性たちが、もっぱら彼の禁じられた恋の対象となったのである。
> 女性読者、なんだ・・・いくら美男と言えどもホモか!と怒らないように。
奔放な恋愛生活とは別に、ルートヴィヒ2世には生涯忘れることができない崇高なプラトニック・ラブの対象があった。その一人が従姉のオーストリア皇后エリザベート、そしてもう一人がかの天才オペラ作曲家、リヒャルト・ワーグナーである。若くして王につくやいなや、秘書官に八方手を尽くしてワーグナーの行方を捜させた。ワーグナーは当時、51歳。30代でザクセン王室の宮廷指揮者に任ぜられ、自作「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」上演も成功したが、1849年にドレスデンの5月革命蜂起に関与し、追われる身となって国外に逃亡した。その後はザクセン官憲の逮捕状と借金取りに追われ、ヨーロッパ各地を転々とした挙句、当地の安宿にひっそりと身を隠していたワーグナーにとって、ルートヴィヒ2世の申し出はまさに奇跡の訪れであった。ルートヴィヒ2世はワーグナーに居城近くの邸を与え、それまでの借金を完済させると共に多額の年金を支給した。かくて君主と楽聖の、奇妙な友情が始まったのである。ルートヴィヒが「わが師、わが友、わが光」と呼べば、ワーグナーも「あまりに美しくて、夢のように消えてしまわぬかと心配だ。彼こそ私の幸運の全て。彼がもし死ねば、私も次の瞬間に死ぬ」と書き記している。

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贅沢よのぅ。ルートヴィヒに召還されたのが1864年、62年からとりかかっていたマイスタージンガーの完成が1867年、初演が1868年。ワーグナーの最高傑作とも言えよう、名曲マイスタージンガーが、ルートヴィヒの目の前で作曲されていたとは! 民の下賎な無駄遣いとは異なる高貴なる贅沢。ルートヴィヒが、オーケストラとスコアとワーグナーを目の前に、「そこの演奏・・・、もう少し速度を落としたらどうなるかね?」 などと注文をつけていたに違いない。インターネット時代にクリック一つで安易な音楽鑑賞に浸っている下賎の民である私は、「ルートヴィヒとワーグナーは本当にプラトニックな関係なのだろうか? ワーグナーあの顔でまさか?」などと卑猥な勘ぐりをしてしまうのであった・・・。


ワーグナー歌劇は歌劇ではなく、楽劇と呼べ。楽聖とも讃えられたワーグナーが私は好きだった。楽聖で思い出すのが、私の源氏名はあらゆるところで、この”聖”の字を使っていた。インターネットのハンドルネームは学聖、麻雀を打つときは雀聖、点数表に自ら「雀聖」と記した後で、下賎の民どもの姓名を書いていた。いたるところで「聖」の源氏名を使っていたので、私はゴッドファーザーとして一文字とって与えた。そしたらその母が、私の源氏名を見つけるたびに、「聖が穢れる。これ以上その名前をかたらないで欲しい。」というので、今は大分少なくなったがまだ残っている。私の幼い頃を知る人が皆「生き写しのようだ・・・」というほどに、疑い深い私をもってしても「これは誰の子?」と思わないほどに似ていることが、名前以上の「血の穢れ」ということに気づいたほうがいいぞ。気づいたところで何もできないだろうがな。

ルートヴィヒ2世はワーグナーのためにオペラ座や劇場を建て、もはや彼なくしては一時も過ごせない状態だった。すっかり図に乗ったワーグナーは贅沢三昧をして借金を重ね、それをルートヴィヒ2世が片っ端から返済するという具合であった。ルートヴィヒ2世のワーグナーへの熱中振りは、当時の「芸術家とその庇護者」という概念を大きく越えたものだった。ルートヴィヒ2世の重臣たちはこの思いもよらぬ成り行きに困り果てた。小国バイエルンの財政がいつまでも保つはずがない。かくて政府は国家とワーグナーのどちらを選ぶかと王に迫り、苦しみぬいたルートヴィヒ2世は結局、涙を呑んでワーグナーに暇を出すことを決意したのだ。愛するワーグナーを失ったルートヴィヒ2世は、さらにもう一つの試練にも立ち向かわねばならなかった。ひそかに思慕していた従姉エリザベートまでが、彼を残してオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに嫁いでしまったからである。悲嘆にくれ、厭世的になっていたルートヴィヒ2世はしだいに国務を放棄して、雪深いアルプスの山中の城に隠遁し、内なる夢の王国に閉じこもってしまうのだ。
そんな彼が次に熱中し始めたのが、ほかならぬ城の建築だった。「タンホイザー」「ローエングリン」など、ワーグナーのオペラに熱中していた彼は、今後それらのオペラの登場人物たちが住むにふさわしい夢の城の建築を思い立ったのである。こうしてノイシュバンシュタイン、リンダーホフ、ヘレンキムゼーなどの城が、ワーグナーへの援助とは比べ物にならない巨費を投じて、つぎつぎ着工されていった。膨大な建築費用で国庫は赤字の一途をたどり、さすがの政府も業を煮やして、何度も城建築の中止を申し入れたが、ルートヴィヒ2世は頑として聞き入れない。1886年当時、すでにルートヴィヒ2世はすっかり名前だけの統治者に成り果てていた。日々、世間の情勢にうとくなり、彼に提出される勅令や文書はみな封が切られないまま日が過ぎていった。政府が出費をしぶるようになると、ルートヴィヒ2世はヨーロッパ各地に使者を送って融資を求めさせた。ある使者など、国王が祖国を去って移り住める場所を探せとまで命じられた。なんとこのバイエルン王国を売り払うというのである。
> 斬新ですね。国家の負債、国債の発行はありますが、歴史に残る、国家のエクイティファイナンスを試みた事例なのではないでしょうか。
1886年、宰相のルッツ男爵を中心に、大臣たちは国王廃立の陰謀を開始した。彼らが摂政として白羽の矢を立てたのは、先王マクシミリアン2世の弟で65歳になるルイトポルト公である。無欲なルイトポルト公は最初はためらったが大臣たちの熱心な説得に、ついに協力を約束してしまった。ルートヴィヒ2世が狂人であることを医学的に証明して、彼に退位を迫ろうとした政府は、ドイツでもっとも有名な精神病医であるグッデン博士に国王の狂気を証明してくれるように依頼した。しかしグッデンの報告書の内容はいささか誇張されすぎているようで、後世の多くの研究家がこれに疑問を投げかけている。ワーグナーの研究家として知られるニューマンは「狂気の証拠とされている事柄は、今日なら変人といわれている程度のもので
、ルートヴィヒ2世がたまたま国王だったために、作為的に強調されて示されたに過ぎない」と述べている。陛下はますます理性を失っていかれるだろうと予測される。病でご意思が完全に破壊されているため、陛下が王権を行使されることは、1年だけではなく、今後ご生涯の終わりまで不可能と認めざるを得ない。」 精神科医が国王の病気が1年以上続くだろうと予測しているのには理由がある。バイエルンでは憲法の第2節第2項で、国王が1年以上王権を行使できなくなった場合のみ、摂政を立てることが定められているからだ。
> 人並み外れた財力・才能・美貌を兼ね備えていたルートヴィヒが狂人扱いされたとは。やはり、非民の存在である王は、現在の日本のように国家の象徴たるべきで、汚い政治や事業に深くかかわらないほうがいいのかもしれない。
かくて陰謀はあまりにあっけなく成功した。幽閉場所として決定したスタルンベルク湖畔のベルク城。部屋に通されたルートヴィヒはあたりをゆっくりと見まわした。窓には鉄格子がはまり、ドアにはのぞき窓がつけられ、どのドアの陰にも監視人たちが目を光らせている。もはやこのベルク城は一種の精神病院なってしまったのだ・・・。ベルク城に着てからルートヴィヒ2世は人が変わったようだった。暴れたり反抗することもなく、急に落ち着いた態度を見せるようになった。看護人が力ずくで取り押さえねばならない狂人はどこに行ってしまったの後思うほどだった。1886年6月13日、ルートヴィヒ2世は朝早く目覚めた。夜中じゅうずっと雨が降り続いていた。その朝、ルートヴィヒ2世はそれまでと違う理髪師にひげをそらせ、髪を整えさせねばならなかった。さらにミサにあずかることも拒否されたため、それに反抗するように、ルートヴィヒ2世はアルコールを控え食事を軽くというグッデン博士の忠告を無視して多目の朝食をとった。朝食後、雨がやんだため、ルートヴィヒ2世はなつかしいスタルンベルク湖のほとりを散歩したいと言い出した。医者は喜んで許可し、その散歩に同行した。散歩から帰ったグッテン博士は国王の言動はごく正常で、病気の治療に協力的だと認め、ミュンヘンの首相に当ててこう電報を打っている。「今までのところ、万事順調」
午後4時半、ルートヴィヒ2世は再び散歩に出たいと言い出した。国王は看護人や憲兵がついてくるのを嫌がったので、彼の容体を楽観視し始めていたグッデン博士は自分だけがついていくことにした。空模様がまたおかしくなっていたので、グッデン博士と国王は傘を手に、見送るミュラー博士に「8時には戻る」と言いおいて城から湖に通じる木陰の道を下っていった。8時半、ベルク城内はパニック状態になった。憲兵も看護人も従僕も、カンテラを手に木立や茂みを必死に探し回り、ミュンヘンに「国王とグッデン博士失踪」と電報が打たれた。もしやのことを案じて、薄闇の中釣り舟が漕ぎ出された。そのとき、誰かの悲痛な叫び声が上がった。「何かがオールにあたったぞ!」「明かりをつけろ!何か人の体のようだ!」 あわててカンテラを近づけると、それはまぎれもなく、ワイシャツ姿のルートヴィヒ2世の遺体であった。ついでグッデン博士の遺体もその近くで発見された。
ここから世紀のミステリーが始まるのである。いったいこの晩、二人の身に何が起きたのだろうか? ルートヴィヒ2世もグッデン博士も水泳は卓美だったから、不慮の溺死ということはまず考えられないのだ。グッデン博士の死体の首には絞められた跡があり、引っかき傷が発見されさらに右手の爪が一本引きちぎられたようになっていた。しかし国王の体にはこのような痕跡は見つからなかった。調査の結果、博士が王に首を絞められたらしいことが推察された。それを示すものとして、湖の岸辺には、格闘したあとがありありと残っていた。岸辺の泥がえぐられたようになっており、水際に6つの足跡が残っている。後ろのほうの足跡は前のより少し型が大きく、水位の深いほうに向かっている。岸辺で格闘を繰り広げた後、ルートヴィヒが博士を殺して沖のほうに向かったのだろう。何といっても国王は身長190cm、体重85~95kgある巨漢で力も強い。国王は40歳、博士は65歳と年も開いている。しばらく格闘しているうちに、国王がグッデン博士の首を絞めて殺し、その跡一人で夜の闇の中を、湖の中にどんどん入っていった。その証拠に、グッデン博士の遺体は波打ち際で頭を水につけ足を陸に上げた状態で発見されたのに対して、国王の遺体は完全に水の中に浸かっていたのだ。
ところで事件の真相には、事故死、自殺説、逃亡説と大きく分けて3つの説がある。まず第一の仮説は、事故説である。疑問なのは、泳ぎが巧みで体も大きく力の強い国王がこれほどの浅瀬でどうして溺れてしまったのかということだ。二人の遺体を検視したミュラー博士は、ルートヴィヒ2世が水中で心臓発作を起こしたのではないかと推測している。自殺説はもう二度と自由になれないと思いつめたルートヴィヒ2世が絶望のあまり死を選んだというのだ。逃亡説は、事件があった夜、城の南門付近に半回転した馬車の車輪のあとが見つかっている。おそらく馬車は南門前でしばらく止まり、それから引き返していったのだろう。ちょうどその時刻に見慣れない馬車を見かけたというものも数人いる。
もしルートヴィヒ2世を逃そうとしたものが居たとすれば、それは従姉のオーストリア皇后、エリザベートだったかもしれない。実はエリザベートはオーストリア皇帝に嫁いだ後も二人はお互いを「鷲」「かもめ」と呼び交わして、ひそかに文通を続けていたのだ。偶然かどうか、その6月13日、エリザベートは滞在中のイシュルでルートヴィヒ2世の逮捕を知り、その足でスタルンベルク湖畔に来て、近くの小ホテルに宿をとっている。そこでこんな場面が推量される。一刻も早くルートヴィヒ2世を救い出さねばと考えたエリザベートは、忠実な見方であるデュルクハイム伯に使いを出す。しかしそのころにはデュルクハイム伯はルイトポルト公の側に捕らえられていた。そこで仕方なくエリザベートは一人でルートヴィヒ2世を救い出す計画を練る。もしかしたらそれはベルクから馬で1時間足らずのオーストリアに逃がそうという計画だったかもしれない。いずれしても彼女がこのときベルク城付近に現れていたことはただの偶然とはどうしても思われない。

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