高橋是清再登場
金融恐慌の真っ只中で政権交代が起こった。憲政会の若槻礼次郎内閣が崩壊し、政友会総裁の田中義一が政権の座に就いた。昭和2年1927年4月20日、田中新首相は親任式を済ませた後、初閣議を開いた。蔵相に任命された高橋是清は夜9時過ぎ、私邸に戻った。数日前から十五銀行破たんの噂が流れている。十五銀行休業の噂を聞きつけた預金者が、夜中の2時半過ぎから銀行の店先に列をつくり始める。21日、改行時間と同時に多くの銀行で取り付けが起こった。騒ぎは全国に広がる。
就任二日目の高橋蔵相は電光石火、3つの施策を打ち出した。
第一は三週間のモラトリアムの実施、緊急勅令によって支払猶予令を発する。第二は臨時議会を召集して、台湾銀行の救済と経済界安定のための法案を成立させる方針を固めた。第三はモラトリアム実施までの2日間応急措置として全国の銀行を休業させることにした。
高橋が打ち出した「徹底的救済の方策」の第二は、日銀による市中銀行への非常貸し出しである。高橋は日銀と交渉して事実上、無制限の特別融資体制を作り上げた。兌換券の発行高も普段は10億円内外である。ところが25日現在の発行高は通常の2,3倍まで膨れ上がった。そのために日銀は思いがけない事態に直面した。紙幣の印刷が間に合わなくなったのだ。日銀はこの時期、すでに廃棄処分を決めていた破損紙幣まで動員した。その中には金庫にしまいこんでいた「猪」と呼ばれた昔の10円紙幣もあった。それでも足りず、急増で5円券、10円券、200円券を発行した。取り付け騒ぎが起こると、銀行の店頭に通帳を手にした預金者が殺到する。そのとき、銀行側の資金が潤沢だとわかれば預金者は安心して引き下がる。パニックを沈静させるためには、実際に資金が確保されていることを預金者に示す必要がある。200円紙幣は預金者への払い戻し用というよりも窓口に札を積み上げて見せるために発行された。だが印刷が間に合わない。一昼夜で刷り上げて25日発行された200円券の中には印刷は表だけで裏は白い紙幣まで登場した。日曜日と合わせて3日間の休業期間が過ぎた4月25日、高橋蔵相を初め、政府、日銀、銀行界の関係者は固唾を呑んで営業最下位の瞬間を見守った。ところが騒ぎは水を打ったように静まった。各銀行とも本支店の窓口に山のように札束を積み上げ、殺到するであろう預金者を待ち構えた。だが、玄関前に列をなす銀行は皆無に等しかった。「さすが高橋大蔵大臣だ」誰もが水際立った火消しぶりを絶賛した。
超緊縮財政 浜口内閣-井上蔵相
「非募債と減債」で宣言したとおり一般会計では公債の新規募集は打ち切る。特別会計でもすでに決まっている募集計画の半額以下に押さえ込んだ。予算案作りで井上蔵相がもっとも苦労したのが軍事費である。徹底した歳出削減で健全財政主義を実現しようとした井上は各省に対して1割以上の支出カットを呑ませた。だが陸海軍両省は応じない。粘り強い交渉で経費削減を了承させたが、支出削減は軽微だった。そのため5年度予算では軍事予算の比率は35.6%に達する。一般会計は16億800万余で4年度予算と比べて1割以上の超緊縮予算である。一般会計には公債も借入金も計上しない「無借金予算」が実現した。第二次大戦終了までの間で、無借金予算は明治28年度予算とこの昭和5年度予算だけである。
暗黒の木曜日
浜口・井上コンビが超緊縮政策を強力に推進していた時である。日本時間の10月25日であった。ニューヨークの株式市場で大暴落が起こった。「永遠の繁栄」と呼ばれるほどの長期の好景気を誇ったアメリカ経済が一転して冬の時代に突入したのだ。ところがウォール街の株暴落のニュースが届いた時、日本の経済界はさほど深刻には受け止めなかった。系金循環の波に従って、アメリカ経済の長期好況もしまいとなり、今度はその反動がめぐってきたという程度の認識だった。それどころか株暴落を歓迎する向きもあった。金解禁を予定している日本では金解禁を実施すれば日本からアメリカなど欧米諸国に※正貨が流出するのではないかと心配された。暴落前のアメリカでは熱狂的な株式ブームが話題を呼んだ。そのために高金利が続いた。日米の金利差が大きい状態で、日本が金解禁を行えば、アメリカへの正貨流出が起こる可能性がある。株価の下落によって、高金利にピリオドが打たれることは確実である。金利が低下すれば、日本が金解禁を行っても、正貨流出の恐れは少なくなる。そう予想してアメリカの株価下落に高官を抱いた人も多かった。
※正貨:金本位制の下で金との兌換性がある貨幣。
少数派の新平価解禁論
ウォール街の株暴落から1ヶ月も経たない11月21日、浜口内閣はついに金解禁の実施に踏み切った。金の輸出を解禁する場合、100円=49ドル85セントという平価で解禁するかそれとも解禁実施時の実質的な為替相場で解禁するかという議論である。新平価解禁論者は、為替相場の変動に従って平価を下げて解禁すべきだと主張した。旧平価で解禁すれば通貨の縮小、物価の下落などを引き起こし、不況を深刻化させ国内経済は大きな打撃を受けると警告した。高橋は自著「大正昭和財界変動史 中」で新平価解禁論の論拠を昭和1-3年当時のわが物価水準の国際的位置を見るに、米国のそれを100とするわが物価指数は120台であった大体2割方割高であることを表示していた。わが物価水準を国際並みにし、貿易の推進を期するためには、為替相場指数は120(1ドル2円を2円40銭、対米為替レート約42ドル内外)に相当せしめるか、またわが物価を約2割下げるか、いずれかの措置を必要としていた。
浜口内閣は迷うことなく旧平価による解禁に踏み切った。翌5年1月11日から100円=49ドル85セントで金の輸出を解除すると発表したのだ。金解禁を実施した場合、もっとも心配されたのは不況の進行と金の海外流出である。案の定、流出は解禁と同時に始まった。金と在外正貨はわずか半年で解禁前の流出予想額の2倍に達した。日本経済は金解禁の実施によって新しい環境の中に投げ出された。金解禁は国際金本位制への参加を義務付けている。ところが不運なことに、窓を開けた途端、「暗黒の木曜日」に端を発する世界恐慌の暴風がいきなり吹きつけてきた。金解禁前、生糸10斤につき135円70銭の高ねをはじき出した、解禁後3月初めに暴落105円80銭まで下落、5月には88円20銭、翌6年には55円40銭まで値下がりした。
1931年 官中で首相の指名を受けた犬養はその足で高橋是清邸に向かった。「大蔵大臣をお願いしたい」。組閣が完了すると間髪要れず金輸出再禁止を決めた。市場はすぐに反応した。株式相場と商品相場は急騰した。円相場は平価100円=49ドル85セントが12月中に早くも34ドル50セントまで下落。だが高橋蔵相は放置する。翌7年6月には26ドル75セント、11月には19ドル75セントまで下がった。再禁止前に円下落を見込んでドル買いに走った投機筋は笑いが止まらなかった。
【金融・通貨制度】
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