関東大震災と震災手形
東京市内の銀行は138の本店のうちの121、310の支店のうちの222が消失した。結局、日銀と大信銀行という中小金融機関を除くすべての銀行が臨時休業に追い込まれた。井上(当時蔵相)は経済の混乱を防ぐにはモラトリアムしか方法が無いと判断した。商工業の活動を常態に戻すために支払猶予令はなるべく早く撤廃して欲しい。震災地宛の手形を日銀で再割引する道も開いていただきたい」委員たちは井上に陳情した。モラトリアムを打ち切って銀行を救済するために手形再割引制度を設けることに決めた。震災手形の登場である。だがこの震災手形は金融界の癌として、後々まで日本経済を苦しめた。昭和2,3年の金融恐慌の火種として燻り続けることになる。
銀行が震災前に割り引いた震災地を支払いちとする手形や、震災地に営業所を持つ者が振り出した手形、これらを担保として銀行が振り出した手がなどの震災手形を日銀が再割引することにした。これによって日銀が損失を受けた場合、1億円を限度として政府が保証することになった。井上はこの制度を設けた理由を議会で説明した。
「大正12年9月1日に銀行に集まっていた何十億円という手形は地震のため、関係者の身元がすっかり不明となり、その結果手形の流通性が失われてしまいました。その手形に流動性をつけ、銀行が手形を金にすることが出来るように、また関係者の財産整理もできるようにしようという点にあります」
政府は、震災のために流通が困難となった手形は約21億円と見た。そのうち決済が困難なものは5億円と想定した。5億円の2割の1億円は回収不能であり、日銀の損失になると見積もった。政府が1億円を限度に補償すると決めた根拠はここにあった。日銀の再割引を求めてきた手形は5億円という政府の見込みをやや下回った。総額4億3081万円えあった。そのうちのかなりの部分は大震災によって決済が出来なくなった震災手形である。ところが、震災とは縁のない未決済手形も相当数その中に紛れ込んでいたのである。9年の反動不況以来整理されずに持ち越されてきた不良貸しなどによる焦げ付き手形があった。それを震災手形と称してこのときとばかりに日銀に持ち込み、再割引を受けた人たちがいた。台湾銀行が持ち込んだ鈴木商店の9000万円の手形もその一つであった。大正バブルの崩壊以来、一部の銀行は巨額の不良債権を抱えて四苦八苦している。これらの銀行は震災手形再割引の制度ができることを知ったとき「しめた」と思った。日銀では、当該手形が震災手形かどうか判別することは事実上不可能だった。震災手形としてスタンプが押される。不良手形は日銀が再割引を保証した適格手形にはや代わりした。震災手形は不良手形を振り出した経営悪化企業の実態を包み隠す役割まで果たしたのである。
現代で照らし合わせると、
銀行が不良債権ぶち込んだという意味では住専問題かな? 
牛肉偽装事件、震災がらみだと、みずほの不当払い出し請求とか・・・
片岡直温蔵相
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片岡は高知県の高岡郡半山村(現葉山村)という山間の村で土佐郷士の片岡直英の子に生まれた。(浜口雄幸も高知)学業優秀だったが、家庭が貧しく、帝国大学というコースを歩むことはできなかった。近郷の寺に小僧に出された。片岡は16歳の時、後の高知師範学校の前身の高知陶治学校に進んだ。卒業後、小学校の代用教員や高岡郡役所書記などを務めた。21の時に状況、一度帰省して高知で自由党に対抗する政治結社を設立した。だが政治活動は実らなかった。25歳で再び東京に出る。内務省に入った。2年後、滋賀県の警部長に任命される。警部長は後の警察部長の前身である。
だが30歳で民間に転じた。学歴などから官界ではこれ以上の出世は無理とわかったからだ。滋賀県警部長の頃に近江商人で県会議員の弘世助三郎と知り合いになった。弘世は生命保険事業に関心を抱いた。片岡は弘世と相携えて日本生命保険会社を設立する。副社長となった。日本生命は発足後、3年で先発の生保二社を抜いた。片岡は日本生命副社長の傍ら、25年の第二回総選挙に高知県から出馬して当選した。
すげー・・・
金融恐慌 1927年
片岡蔵相の大失言
「東京渡辺銀行がとうとう破綻いたしました」むきになってつい口を滑らせてしまった。
「東京渡辺銀行に問い合わせてみたんですが、営業しているようです」 報知新聞の記者から教えられた。
「記事を止めてもらいたい」
「大蔵大臣が議会の予算委員会で喋ったことを差し止めるなんて、そんなバカなことできるか」万事休すである。
東京渡辺銀行と系列のあかぢ銀行は休業を決めた。
もともと1-2ヶ月前から金融界は一触即発の危機状態にあった。
1月、四国の今治銀行が休業、2月は東京起業貯蓄銀行など6行が大蔵省から営業を取り消された。四国の徳島銀行と徳島貯蓄銀行も休業を余儀なくされた。京浜地方の銀行でも緩やかな取り付けが始まった。そこへ3月14日、蔵相失言が飛び出したのだ。不安に駆られた預金者が銀行の店頭に押しかけた。
蔵相失言の5日後19日、東京の仲居銀行が休業、預金総額4500万円で東京渡辺銀行を上回っている。22日、村井、八十四、中沢、左右田の四行が休業、地方でも9つの銀行が閉店。23日、日銀は特別融資、非常貸し出しの総額は23日までに6億を越えた。懸念だった震災手形二法が議会を通過した。
数日後、金融危機の第二波が襲う。震災手形問題の最大の病巣ともいうべき台湾銀行である。貴族院は震災手形法案の可決に当たって三項の付帯決議を行った。台湾銀行が危ないという噂は関東大震災の直後から囁かれてきた。台湾銀行の経営危機を政府が公式に認めたことは一度もなかった。付帯決議はこの噂を国の機関が公式に確認するという役割を果たした。同時に付帯決議によって台湾銀行救済は政府の責任で行うことが公式に表明された格好になった。そのため、金融界で新しい動きが生じたのだ。そこまで台湾銀行を支えてきた民間金融機関が、ここぞとばかり逃げ出しを図り始めた。三井銀行を筆頭に、台湾銀行からコール資金を引き上げる銀行が急増した。台湾銀行は資金繰りに窮するようになった。4ヶ月前の昭和元年末、台湾銀行の貸出残高は6億円を上回った。にもかかわらず預金は9000万円余しかなかった。大幅な資金不足を日銀からの借入金2億8000万円とコール資金を含む1億5000万円の市場からの借入金で賄っていたのである。資金繰りの悪化で、鈴木商店救済のための追加融資はできなくなった。鈴木商店が倒産すれば台湾銀行の経営はすぐに破綻する。震災手形法案が貴族院で可決される前日の22日「台湾銀行は重役会議でこれ以上鈴木商店には貸し出しを行わないことを決定した。」 26日議会が閉幕した。台湾銀行の森広蔵頭取が片岡に「鈴木商店に対する新規貸し出しを停止することに決定しました」 もちは一方的に告げた。「日銀の了解をとったのか」 片岡は問いつめる。4月1日、融資ストップが報道、5日、新規取引中止を発表、8日、鈴木商店の機関銀行と見られた神戸の第六十五銀行が休業、4月28日、鈴木商店倒産。
【タカリの花道】
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