スターリン父子
帝政ロシアのグルジア地方の小さな町ゴリに住むジュガシヴィリという名のろくでなしの無学な靴修理工は残酷な仕打ちをも
って自分の息子を20世紀最大の独裁者に育て上げたことにより、世界の運命に大きな影響を与えたのである。グルジアは現
在同様、当時もスラヴ系の地方ではなかったがこの事実をグルジア出身のスターリンは忌み嫌った。彼は非スラヴ系であって
汎スラヴ主義者
となった人である。
ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・スターリン、ヨシフの父親は酒場のけんかでナイフでさされ、あえない最後と遂げたが、そ
れまでは片田舎の靴修理工として一応立派に働いていた。そんな父親に対して母親の方は野心家だった。息子を人々から
尊敬される司祭とするべくやれるだけのことはやって、自分と息子の住むひどい環境を少しでもよくしようとしたのだ。とこ
ろがスターリンは聖職につくのが嫌になってしまったのだ。13歳で神を信じなくなったのは明らかにダーウィンの進化論を
知ったからだ。
スターリンも、また彼が最初に参加した社会民主党の原理も、グルジアの革命家たちの間では成功を収めなかった。このため
にスターリンは自分自身ではなくグルジアを非難した。この時から彼は話すにせよ書くにせよ、ロシア的要素にどんどん重さ
を置くようになり、こうして後の「ソビエト史」が作られたのである。彼は「真のロシア派」に対抗するものとして「ユダヤ
派」を強く攻撃し、党から抹殺することを提案した。こうして逆説的ではあるが、抑圧されたグルジアの従属的な民を代表す
るジュガシヴィリは、ボルシェヴィズムを通してロシア「国家」に加わったのである。彼はますますグルジアの民族主義を非
難する方向に傾いていった。この事実は今日のグルジアの人々からは無視されているか、忘れ去れているようだ。
スターリンはマルクス主義のインテリ一家、アリルテワ家、ナジェージダと毛っこする。二人の結婚生活は不幸な結果となり、
結局彼女は悲惨な最期を遂げる。自殺というのが有力な見方だが、スターリンの敵の中には、スターリンの手で殺されたのだ
と噂するものもいた。
【少し騒がしい脅し】
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私が初めてスターリンを見たのは、その後同じものを何度となく見ることになったが、長方形のカラーポスターに描かれた彼
の肖像画だった。そこには、厳格であるが優しそうな顔があり、背は高く、くるぶしまでくる厚手の軍服の外套には軍最高司
令官の勲章が輝いていた。だが、それから大分経って彼を間近に見た私は、実物は小柄で、あばた面で、ぎらぎらした目はい
かにも抜け目なさそうであることがわかった
のだ。スターリンがガラハッド<アーサー王伝説に出てくる円卓の騎士>に似て
いるくらい正確に本人に似ていることが、その後私にはわかった。
スターリンの娘スヴェトラーナらによる、スターリンは英国の首相チャーチルを嫌っていたという。「チャーチルは君のポケッ
トから白銅貨一枚だってふんだくるやつだ。ローズベルトはそんなことはしないがね。やつがほしいのは小銭じゃないからな」
スヴェトラーナは、怪物スターリンの中にも、やさしく父親らしい特性がいくつもあったことを、、次のように回想している。
彼が「冬はいつも暖炉にあたっていた」ことや、「ロシア、グルジア、ウクライナの民謡を集めていた」こと。また召使いに
はやさしく「彼に仕える者たちには、礼儀正しく、気取らず、率直に接した」ことなど。「父は財産のことなど考えたことも
なかった。父は清教徒のように質素に暮らしていたし、その持ち物から持ち主を想像するのは難しかった。父は(1階)一部
屋しか使っていなかった
。それは事実だし、その部屋であらゆる用を足していた。夜はソファーをベッドにして眠り、電話は
そのそばのテーブルに置いていた。彼は自然と土をこよなく愛した。
息子ヤーコフには露骨に厳しい態度を示した。スターリンの後妻ナージャはヤーコフを庇い、幼いスヴェトラーナ共々、愛情
を注いだ。ナージャは何度となくヤーコフの肩を持ち、彼を不当に扱っているスターリンをたしなめた。1941年、独ソ戦
が始まるやいなや、ヤーコフは赤軍に参加し、独軍の捕虜となってしまう。スターリングラードの戦いで捕虜となった枢軸軍
の陸軍元帥パウルスとヤーコフの交換をヒットラーが申し出たが、スターリンが拒絶したというものだ。独軍がヤーコフを撃
ち、その目撃者だと名乗るベルギー人将校が哀悼の手紙を書いたというものだ。また別の説で、彼が強制収容所で電流の通
った有刺鉄線柵に身を投じ自殺したというものである。自殺はスターリンのコメントが報じられた後に起こったという。スタ
ーリンはナチの収容所にロシア人の捕虜は一人もいず、いるのは戦後殺される運命の反逆者だけだと答えた。さらにスターリ
ンはこう答えたという。「私にはヤーコフという名の息子はおらん。」
フロイトの意見「母親のまさにお気に入りだった人間は、征服者の傾向、即ち信じ込むことによって結果的に戦功に結びつく
信念を生涯持ち付けるものだ。」