戦前うけた皇室教育
敗戦まで、全国津々浦々の公立小中学校には「奉安殿」があった。正門から後者に向かう一隅に立てられ、その回りは柵で
囲んである。木造校舎の場合でも、奉安殿だけは、小さいながらもレンガかコンクリートづくりの堂々たるものだったので
異彩を放っていた。このなかには天皇、皇后両陛下のお写真、つまり「御真影」と「教育勅語」も一緒にしまわれていた。
そして四大節の式日や卒業式には、モーニングかフロックコートに白手袋をはめた校長が、それらを重々しく取り出し、
講堂で全校生徒に拝礼させたのである。四大節とは四方拝(元旦)、紀元節(建国記念日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(明治
天皇誕生日)である。教育勅語の朗読をもしトチッたりしたら大きな失態とされ、二、三箇所も誤読したり、つまずいたな
ら左遷の運命にさえあった。戦前の著名な作家、久米正雄の父は、大正のころ小学校長として校舎の火災にあい、奉安殿が
焼けてしまった。そのため、責任を負って自決までしている。当時は「不敬罪」があって警察や憲兵がきびしくチェックし
ており、宮内省から賃下げの写真を焼失させたのは死に値すると見たのである。
戦後の動乱の中での天皇、皇室
21年元旦に、陛下はいわゆる”人間宣言”をされている。神様-神格天皇であったことを否定されたのだ。しかも天皇の上
にはGHQのマッカーサー元帥が”日比谷天皇”といわれて君臨していた。天皇の退位、戦争責任などが諸外国からつよく求
められ、国内では共産党幹部が、天皇制打倒、戦争責任などを声を大にして叫んでいた。世田谷区では米の配給が10日
もおくれていた。怒った区民達百余人は赤旗を先頭に皇居になだれ込んだことがあった。食糧メーデーが皇居前広場であった
が、そのなかの一人がプラカードに「朕はタラフク食っているぞ。なんじ臣民飢えて死ね。ギュメイギョジ」と書き、それ
が新聞、ニュースでとりあげられて話題になった。まだ「不敬罪」があるころで政府が告訴すると被告は左翼シンパの弁護
士をつけて争った。
そこへマッカーサー元帥が「すべての人間は平等である。天皇といえども同じだ」と表明したから政府としてはいかんとも
しがたい。ただの名誉毀損に切り替えざるを得なかった。
23年1月、参議院の初代副議長についた松本治一郎氏は、天皇の拝謁を拒否、という前代未聞のことをやってのけた。
国会の開会式には、衆議院、参議院の正副の議長が、天皇に敬意を表してお辞儀に上がることになっている。それには作法が
あって天皇に背や横を向けては失礼という考えから、横ばい、あとずさりをして退出することになっている。しかし、新憲
法の下、国民が主権者ということになっているのに、戦前の作法のままだったから「そんな蟹の横ばいみたいなマネができ
るか。人間天皇になったはずだろう」と側近に噛み付き、ガンとして拝謁しなかったのである。このように、天皇、皇室観
が一変するほど、敗戦の痛手は各地各所で大きかった。
皇室に入られ、美智子さまが驚かれたことの一つは、天皇家、宮家では、長男と次男は待遇に雲泥の差があるということだ。
数百年、千年前までは兄弟で皇位をめぐる争いがありそれが天下の動乱にもなった。兄弟間の争いだけでなく、父天皇の好
みや、時の勢力関係などにより長男が退けられて、弟が皇位につくこともあった。天皇家が鎌倉時代の中期に南朝と北朝に
分かれた原因などはその好例である。それらの反省に立って、長幼の序が厳しく言われるようになったのだ。特に天皇家に
おいてはそれが絶対的で、昭和天皇のすぐ下の弟秩父宮(雍仁親王)や今上陛下の弟常陸宮(正仁親王)のように兄君とは1歳か
2歳違いでも天皇になる方とそうでない方ということで、ご生後すぐから別々に養育され、待遇にも大きな差がつけられた。
旧皇族、華族、常磐会
皇族の女子は結婚によって皇籍を離れる。また新王でなく、「王」の称号の男子の次男以下も先に書いたとおり民間人とし
て社会に出るのである。皇籍を離れるに際しては、国から5000万円あまりの一時金のほか、勲章をいただく。皇族を続け
る男子が成年の際最高位大勲位菊花大綬章をいただくのに対し、民間に入る見込みの人は成年式にあたり一ランク下の勲章
となる。それが勲一等旭日桐花大綬章だ。ちなみに女子皇族で成年に達した人、あるいは秋篠宮妃殿下になった紀子様のよ
うに、民間から入った人は結婚の日、勲一等宝冠章を受ける。これは女子だけに与えられる勲章である。一度に大量に離脱
した例は、敗戦で、直宮三家(秩父、高松、三笠の各宮)を除いて一斉に「臣籍降下」したのだった。東伏見、閑院、伏見、
山階(やましな)、賀陽(かや)、久邇、梨本、北白川、竹田、朝香、東久邇の十一家である。
常磐会の会長松平信子女史は、東宮職参与として皇太子(今上陛下)のお妃選考に大きな力を持っていた。しかし、正田美
智子さんの登場で、お妃選考における自分の席が棚上げされてしまった。女史は娘に当たる秩父宮妃の力を借りてまで抑え
ようとした。小泉信三と黒木従達氏はこれをはねつけて皇室会議に漕ぎつけたのだった。小泉氏らは女史の顔を立てるため
に二つの頼みを託した。お妃教育で「礼儀作法」を講じてもらうこと。東宮女官長を推薦してもらうことだった。結婚により
美智子様には女官が必要になる。女史は、遠縁の牧野純子さんを推挙した。二人とも旧姓は鍋島で、常磐会においては会長
と理事の関係だった。すなわち牧野女官長は常磐会の意を受けたお目付け役として就任したのだった。代々木の松平信子さ
んの家で皇后の女官長保科武子さんを交えた三人でしばしば会合をもっていた。保科さんは北白川宮家の出。美智子さまが
妃として浮上するまで数年間は、北白川肇子さんがつねに本命視されていたが、その大叔母である。もちろん常盤会会員だ
った。ふつう、皇后の女官と皇太子妃の女官があい会することはあっても仲良く私的な会合をもつことなどあまりない。
それが美智子憎しに燃える松平女史が、牧野東宮女官長から美智子さまの話をあれこれと聞き、それを悪意にとって伝え、
ときには溜飲を下げる。そして保科さんからは皇室の人々に松平さんからは常盤会の役員、さらに親しい会員にと、美智子
さまに対する歪められた話が広がっていく
。牧野女官長は本来、美智子さまを忠実にお守りする立場にある。前代未聞のこ
の行為は、まさしく反逆以外のなにものでもない。
> う・・・いくつなんだ松平女史? 随分ネーさんに見えるけど、小学生なのかな?

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