おれにゃあ品とか社会的道徳とかいっさい関係ねぇ
田中角栄は小佐野賢治に頭を下げて
「頼む、日本電建を再建できるのはあんたしかいない。あの会社をそっくり引き受けてもらいたい。」
日本電建労組は田中角栄の刎頚の友、入内島金一社長に退陣要求を突きつけていた。赤坂の山王ホテルで、小佐野はま
ず話を聞こうと労組幹部をあつめた。経営者側から出席したのは小佐野ただ一人である。労組からは18人が出席した。
組幹部たちが一室に入るとすでに小佐野が正面の席にすわっていた
。背広は着ていなかった。白いワイシャツ、ノーネク
タイであった。小佐野が切り出した。
「組合が社長に辞めろ、というのは常識外だ。しかし、まあ、とりあえず話を聞こうじゃないか。」
労組委員から事情が話された。小佐野はそのたびに「ふむふむ」とうなずいたり、「そりゃわかるが無理だな」という。話をした
相手に対し、大きな体をやや斜めに向けている。答えるとき、相手の目を見ない。口数は少ない。そんな小佐野がふいにこう
いった。
いっとくがね。おれにゃあ、品とか道徳とか社会的善悪とかいっさい関係ねぇ
ぞっとするような迫力があった。そうして始めから決めていたように突然こう宣言した。
「よしわかった。社長を辞めさせる。一時金も全額だそう。ただし、条件がひとつある。本部専従の組合執行委員は全員一人
ずつ、私に最敬礼して、会長ありがとうございます、とお礼を言え。それがいやなら会社を潰す。もともとボロ会社なんだ。田
中が泣きついてきたから、手を貸してやったまでだ。いつ辞めたっていいんだ。会社の一つや二つ、私には関係ない。」
小佐野は日本電建の経営に本格的に乗り出すや、それまでの会社経営の要職にいた役員40-50人の首を1年もたたぬうちに
あっという間に切った。それらの役員たちに代わって、遠方の支店長を本社の役職につけた。本社の役職についた者はほぼ
全員小佐野信奉者となった。労働組合に対しても小佐野はアメとムチを使った。組合員などは地方の支店長などに大抜擢し
た。地方に行かせる前に自宅に呼び、大盤ぶるまいし、洗脳した。こういうものたちは小佐野のすごさを地方の社員に自然に
PRして歩く
ので一石二鳥だった。小佐野はさらに田中角栄によって3つに分裂していた組合の統一を命じた。このときも小佐
野は組合執行部を脅した。「組合同士でもめたら会社を潰す」
現場を離れてはものは見えない。
国際興業の始業時間は8時45分である。小佐野は朝の8時にはかならず会社に来ていた。高給取りであればあるほど、それに
見合うだけ働けというのが小佐野の鉄則なのである。
一般の社員は決められた時間に来て、決められた時間に帰ればいい。うちは今日は専務に会いたいと思ったら朝早い時間に
くれば会える
ような体制になっている。」
国際興業は上場会社ではない。あくまでも小佐野個人がオーナーである。つまり誰にも文句を言われる筋合いはないのである。
小佐野の印鑑へのこだわりは国際興業が大きくなっても続いた。小佐野の側近だった一人も語る。
「小佐野社長はどんな小さな書類、どんな細かい伝票にいたるまで、すべて自分が印鑑を押していた。小切手類の1枚でも、自
分が納得しないものは出さない
。机の引き出しに印鑑類をしまい、鍵をかけている。我々は社長がいない時には決済ができない。
ふつうは、会社がおおきくなるにつれ、社員などは他人に管理させるものですよ。ところが小佐野社長は他人に任せない。これ
は徹底していた。私はこの男は只者じゃない、というよりも、すごく用心深い男だという気持ちの方が強かった」
 小佐野は暇な時間ができると国際興業の役員たちを呼んで花札のオイチョカブを楽しんだ。彼が博打に熱中したのはなにより
気が紛れるからである。小佐野は趣味をほとんど持たない。小佐野は役員たちを無理矢理誘って、花札を始める。ダメだとは言わ
せない。そして負けのカネは負けとしてその場で現金で取る
。その場でなければ、つぎの給料から差し引く。これが小佐野の手
なのである。彼は常々言っていた。「カネを持たすとロクなことがない」
小佐野の賭博好きは徹底していた。小佐野はラスベガスにある古代ローマ風の建物で有名なカジノホテル「シーザースパレス」
に40人ほど取り巻きをつれて一大博打旅行に行った。その40人の中には自民党代議士であった浜田幸一や関東大組織のヤクザ
の幹部がいた。かれらは小佐野のツケでコインに替えて博打に興じた。結局このとき小佐野一行は「シーザースパレス」に借りを
つくって帰国した。カジノホテルの支配人ワインバーガーはわざわざ日本にまで取り立てにやってきた。小佐野と交渉したが、小佐
野はのらりくらりと逃げた。博打のカネだから証文でもとってない限りいくらでも逃げられる。小佐野は「明日来い」といって要領よく
逃げた。が最終的には払うことになった。いざ支払う段になって小佐野は値切った。
その後、ワインバーガーは、ツケで遊ぶのは日本人が多いというのでわざわざ日本に取立て会社をつくった。その代表に奥田
喜久丸という東宝のプロデューサーを据えた。
が、その会社は、のちに外為法違反であげられてしまう。なお昭和55年、浜田幸一代議士のラスベガス賭博事件が発覚した。
浜田が負けた150万ドルの穴埋めはロッキード社からのカネであったという疑惑が持たれた。
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