堤康次郎との山梨交通紛争勃発
昭和34年(1959年)、小佐野は40万株の山梨交通の株式を買い集めた。小佐野の役員就任は1960年の5月の株主総
会で決定することが申し合わされた。ところが不思議な事件が起こった。山梨交通、二代目の河西坊ちゃん社長の姿
が掻き消えていたのである。河西は、恐るべき人物のところへ助けを求めて走っていった
のである。なんと西武の堤康
次郎であった。小佐野が恩人と仰ぐ「強盗慶太」と「ピストル堤」は伊豆箱根の観光事業をめぐり「箱根山合戦」と呼ばれ
るすさまじい戦いを展開している真っ最中であった。堤にも断れない理由がある。河西の父親である初代山梨交通社長の
河西豊太郎に恩があった。河西豊太郎は東武鉄道の根津嘉一郎の大番頭をつとめ、政財界に顔が広かった。武蔵野鉄
道創業に向けての悪戦苦闘を支えたのが根津であり、根津と堤のパイプ役となったのが河西豊太郎だったのである。河
西社長が堤のもとに走ったのも、父親が死ぬとき、「困ったことがあったら堤君に頼め」と遺言していたからである。堤はさ
っそく行動を起こした。まず「駿河観光」という会社を資本金2億円で設立した。が、これは実体のないペーパーカンパニー
であった。駿河観光と山梨交通を合併させようというのである。さらに河西一族と河西系役員はひそかに山交株を買い占め
始めた。その資金は堤が出した。昭和35年に入ると4月はじめから山交株が急上昇し始めた。1株50円であった株価がなん
と200円を突破し、300円に近づこうという勢いにまでなった。小佐野はなにがどうなっているのかまったくわからなかった。
自分では買占めなどやっていないのに、株価が急上昇している。
「山交株は河西一派が買い占めています。」
「何のためだ!」
「会長を追い出すためです」
「誰か金を出しているやつがいるのか」
「はい、西武の堤康次郎です」
「なんだと!」小佐野は我が耳を疑った。
「そんなことはありえない。俺は堤さんとは付き合いがあるんだ。山交に俺が関係していることも知っている。
堤さんが、俺がやっていることに手を出してくることはありえん!」
小佐野対堤のすさまじい株争奪戦となった。山交株は暴騰につぐ暴騰を続けた。ピーク時には850円までいった。小佐野が
3割、河西派が3割、西武側が3割で、河西は5月8日役員会で堤康次郎がつくった駿河観光との合併を持ち出し、一気に議
決してしまった。これを5月23日の株主総会で議決し、一挙に小佐野を葬り去ろうという作戦であった。
「謀略だ!役員にすら資産内容を知らされていない会社と合併して、俺の持ち株の比率を下げようという陰謀だ!」
小佐野は甲府地裁へ先の役員会での議決無効を提出した。同時に駿河観光との合併の案件を総会に上程せぬよう仮処分
の申請をした。小佐野は委任状を手に一族郎党を引き連れ会場の山梨県民会館に乗り込んだ。小佐野は「異議あり!」を連発
したが議長の河西俊夫は馬耳東風。それにくわえて前列にずらりとならぶ河西が頼んだ強面の総会屋たちが「進行!進行!」と
小佐野の叫びをかき消した
。駿河観光との合併は9月20日に実施することがあっけなく決議された。小佐野はむろん黙って
はいなかった。甲府地裁に「山梨交通株主総会決議執行停止の仮処分」を紳士した。6月28日、判決は総会決議の執行停
止を認めた。小佐野の主張が全面的に受け入れられたのである。
ついに陰の主役、堤康次郎が表舞台に登場してきたのは7月26日のことであった。「私も小佐野君も持ち株を河西君に譲ると
いうことにする。お互いに武器を捨てるということだ。」これには小佐野が怒った。7月27日に、堤は小佐野にそれまでとは違
った提案をした。
「小佐野君、わしの全株を君に渡そうじゃないか。そのかわりといってはなんだが、きみ、京浜急行の株を持っているね。
あれと交換してくれないか。」
堤は山梨には何の未練もない。ましてや山梨交通は万年赤字会社のようなもので、自分が経営に乗り出したところで、20年は
黒字に転換できないと考えはじめていた。小佐野は堤の申し出を即座に受けた。河西俊夫は堤が全株を小佐野に譲ったこと
を知り、東京の堤のもとに駆け込んだ。「どういうことですか!」が堤の言葉は恩人の息子に対する言葉とは思えぬほど、冷た
いものであった。「きみは事業には向かないから美術館の館長でもやったらどうだろうか」最後の土壇場で堤は河西を裏切った
のである。翌36年、河西は全株を手放し、社長を辞任した。
横井から株を巻きあげていただきたい
小佐野と横井、児玉の3人は、「富士屋ホテル事件」につづき、「西武鉄道買占め事件」でも奇妙な絡み合いを見せる。この事件
の発端は、横井が1969年から西武鉄道の株を買占めにかかったことに始まる。当時の西武鉄道の社長は康次郎の大番頭で
あった小島正治郎である。堤清二と堤義明はともに副社長であった。まだ西武グループのうち鉄道グループを義明、流通グルー
プを清二と分割統治することは決められていなかった。そこで内紛好きの横井が清二と義明の異母兄弟間に必ず近いうちに骨
肉の凄まじい争いが起きると予測し、約180万株買い占めた
。そして何故か義明のところではなく清二のところにでかけ、買取を
要求した。
横井は当時400円前後だった株を3,4倍もふっかけ、「大阪の仲間もおたくの株を買い漁っている」とグループ買いをほのめかした。
清二は横井の態度にさすが頭に血を上らせた。横井を張り倒してやろうかというくらいに怒ったという。横井は交渉決裂後もい
っこうに怯むことはなかった。持ち前の粘り強さで異常なほどの執念をみせて買い進んだ。執念深い横井は昭和46年の5月まで
に360万株も買い集めてしまった。あわてたのは西武側である。なにしろ360万株といえば、国土計画、安田信託、三井信託に
次ぐ、第4位の大株主に躍り出ることになる。もし横井が個人名義にでもすれば、個人筆頭株主横井秀樹という名が出てしまう

社長の小島ですら132万株しかもっていない。うろたえた西武幹部が小佐野のところに駆け込み訴えた。
「横井のことだ、株を持っているのをいいことにこれからどんな難癖をつけてくるかわからない。富士屋ホテルのときのように、
横井からなんとか株を巻きあげていただきたい。」
小佐野は東急だけでなく西武の堤義明とも深いつながりがあった。「それでは児玉さんに頼んでみましょう」
西武側は社長の児島正治郎、専務の宮内厳、岡野関治の3人の幹部で堤義明、清二は出席しなかった。立会人として、小佐野
児玉が出席した。360万株を横井が西武側に渡した。その代金の25億円は、横井の要求によって、そのうちの元で15億円を
現金、後の10億が小切手で支払われた。じつは小佐野は堤義明に借りがあった。小佐野が4千坪もの土地を芝の増上寺から買
った。そのとき、増上寺の檀徒総代の一人である堤義明の世話になっている。藤田観光の故小川栄一会長が『民族と政治』(昭和
51年4月号)で、その件について触れている。「たまたま児玉誉士夫氏が小佐野賢治氏の代理として私を訪問され、(中略)買い
取ることを申し出たので(中略)プリンスホテルの所有者である西武鉄道を通じて取引するべきことを要求したところ、すべての
話がまとまって、増上寺は西武鉄道に売却し、西武鉄道が小佐野賢治氏に転売する手段が成功し、同時にまもなく一切の立ち
退きも完了した。」
【株にまつわる事件】
2010.05.18: 秘録 華人財閥 ~李嘉誠と包玉剛 「英資財閥への挑戦」
2009.11.13: 7736企業乗っ取り 300億円強奪を示す財務諸表
2009.10.15: BNP作為的相場形成の疑義についての見解
2009.07.17: 秘史「乗っ取り屋」暗黒の経済戦争
2008.10.14: 日経225オプションの誤発注
2008.09.25: 世界一のお金持ちの楽しいShopping@GS PPS+Warrant
2008.08.18: 8868 スワップ契約についての考察
2008.03.20: 一族家における投資教育 ~新発CBとIPO
2008.02.02: 信用取引 証券会社の儲けと投資家(顧客)のうまみ
2008.01.28: ソシエテ・ジェネラルの大損