好古は馬を借り、ニコリスクから4キロ離れた演習地の廠舎に宿営中の部隊へゆき、騎兵隊と歩兵隊の様子を見学した。実は演習は予定の10分の1ほどの小規模で終わった。シベリア各地の諸軍団がこのニコリスクの荒野に集まってきて空前の大演習をする予定だったところ、9月上旬、シベリアの各地に大雨が降って道路や鉄道があちこちで使用不能になり、このため予定の軍隊移動が全部駄目になり、演習はニコリスク付近に駐屯中の二個旅団の対抗で行われたにすぎなかった。「ロシア人はがっかりしているだろう」 好古は大場少佐にいった。世界第一の陸軍の威容を見せて日本人の戦意をくじくという意図は、どうやら無に帰したらしい。好古にすれば、それでも大いに参考になった。参考になったどころか、ロシア騎兵の強力さは、想像以上のものがあった。騎兵連隊は6個中隊より成り、騎数は各中隊毎大体120騎である。その馬匹はみな強健で、「わが騎兵の馬匹に比し、そのおおいに優れるをみとむ」と、好古は正直に日記を書いている。さらにロシア騎兵のぜいたくさは、中隊毎に馬の毛色を変えてあることであった。日本の場合は、それどころではない。明治20年にアルゼリ種の馬90頭と、その翌年に170頭入れたものをたねにその後増やし続けているが、あまりふえもせず、依然としてロバの従兄程度の日本在来種が中心になっている。第一、馬を繁殖させるための種馬所と種馬牧場すら、やっと明治29年にできあがったという始末で、これによって本格的な馬匹改良にのりだしたのである。その後、7年にしかならない。
内務大臣プレーヴェ
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ロシア政府では侵略主義者が既に宮廷をにぎってしまっており、穏健な人物だとみられていた内務大臣のプレーヴェですら「そもそもロシア帝国がこんにちこのような盛大さを誇りえているのはすべて軍人の力によるもので、外交官のおかげではない。極東問題のごときはよろしく外交官のペン先よりも、軍人の銃剣をもって解決するのが本筋である」といっていた。銃剣で解決するということがロシアの態度の裏にある以上、日本の解決案に対し妥協のにおいが全くしない回答を出してくることは当然であろう。むしろ挑戦を主眼としていた。しかし強大国ロシアは、弱小国日本が気が狂わない限り戦いなど決意するはずが無いと思い込んでいる。皇帝ニコライ二世が「朕が戦いを欲しない以上、日露間に戦いはありえない」といったのは、別に豪語したわけではなく、それがロシア人の常識的観測であった。いま旅順の要塞を強化し、シベリア鉄道で満州に兵力をどんどん送っているのは「銃剣外交」の威力を高めるためであり、かならずしも対日戦を予想してのことではない。予想するのもばかばかしいという意識が、ロシアの政治家にも軍人にもあった。日本はロシアの強硬な回答に対し、折れざるを得なかった。小村外相はローゼン公使に対し、これ以上は譲ることができないという、ぎりぎりの譲歩案を出した。要するに満州朝鮮交換案というか、ロシアは満州を自由にせよ、そのかわり朝鮮に対しては一切手を出さない、というものだった。