武井保雄会長は広域暴力団山口組系後藤組の後藤忠政組長との交流と、彼に金銭を贈っていた事実を認める発言をしている。後藤忠政組長は、暴力装置と経済力を兼ね備えた山口組内でも実力派の組長である。彼は平成14年7月、山口組若頭補佐に昇進した。この役職は文字通り同組ナンバー2を補佐する最高幹部の一人で、山口組を運営する執行部の中でも組織の中枢に位置する。さらに平成4年5月、「ミンボーの女」の伊丹十三監督を襲撃したのは後藤組である。
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京都戦争の火種 昭和61年2月、武井会長と崇仁協議会藤井委員長との会談をきっかけに、武井の親族が100%出資するファミリー企業の徳式(中森修社長)とサンセイハウス、崇仁協議会の3者の間で不動産売買立ち退き(地上げ)に関する契約が締結された。当時、武富士の事業開発部長の職にあった藤川忠政は、京都府警に録取された供述調書の中で次のように説明している。「昭和62年12月22日付で地上げに関する契約の一部追加変更書を締結し、地上げ資金も280億5000万円に増額し、崇仁地区、約3300坪の地上げを進めました。」崇仁協議会の役員には会津小鉄会の元組員が名を連ねていることでもわかるように、非常に同会の色合いが強い団体だったが、山口組系中野会(当時)の勢力拡大に伴って同会にも急接近して行ったそうである。こうした崇仁協議会側の対応が、数年後、中野会の中野太郎会長襲撃事件を頂点とする、いわゆる”京都戦争”と呼ばれる中野会と会津小鉄会の流血抗争に発展していった。