「王は神なり」という権威付けの論理は、もともとインド系の思想であって、それがジャワなどを典型として、東南アジア社会にも流入している。だがここでは事態が逆だ。権威は民衆の側にある。民衆の従ってきた慣習法のほうが常に強かった。村落国家の王は、神性もっとも薄き王だった。その意味では非インド的である。民衆が即位文書を朗読し、王-実際には村長、郡長に当る-がこれを承諾するという儀式は、つい最近まで行われてきた。そして時代を経るにつれて、即位文書に慣習法の規定が組み込まれ、精密になっていった。それは村落憲法へと昇格していったのである。王の義務はますます重くなり、その不履行には罰則さえ定められた。
実際に慣習法を成文化した村落憲法によって、追放されたり殺された王、女王があちこちにあった。ボネ王国では、6世王と8世王が16世紀と18世紀に殺され、11世、16世女王、19世王、27世女王が王位を追われている。他の国も同様である。民衆の権利はかくまでに強かった。昔、日本にも天皇機関説があった。南スラウェシの王たちは、言葉の純粋な意味において約束による機関にすぎなかった。だがそれでは慣習法社会の民衆は、なぜ天孫を王として迎えねばならなかったのだろう。
定着農耕と権力の関係である。インド、中国を考えればわかるが、一般的に定着農耕社会は強大な権力を生む。その土地が広大であれば権力はますます強大になり、しばしば大帝国、大王国が生まれる。定着農耕は焼畑農耕より2~3割生産性が高く、その分だけ余剰を生む。しかも先祖代々営々として築き上げてきた田畑だから、農民は夜逃げするわけにはいかない。統治者にとってこれほど都合のいいことは無い。逃げようの無い農民が高い生産力を持っているのだから、しぼりあげるのは容易である。
南スラウェシの社会史を考える時、一つ不思議でならないのは、どうしてルウで歴史が生まれたのかという問題である。この問題を考えるきっかけになったのは鉄である。ブトン島の東南端にはトゥカン・ブシ列島が連なり、その最南端のビンノコ島には鍛冶屋の集落があることなどを聞き込んだ。典型的な隆起珊瑚島で鉄鋼も無いのに山刀を打つ鍛冶屋の長屋がある。スラウェシ島からテルナテ島をつなぐあたりに、西からバンガイ、スラという小群島が並び、後者の一つがスラベシ島である。スラは”島”、ベシ(今日の発音ではブシ)は”鉄”である。トゥカン・ブシのブシも、スラベシのベシも、セレベスのベスもスラウェシのウェシもすべて鉄だった。バンガイ島やスラベシ島で昔、鉄を産したのか、調べはまだついてないが、ルウ地方の奥地にはたしかに鉄鋼山があった。
武器(鉄器)は文明なり か。