1991年を通じた政治的激変の最終結果として、ソ連共産党は解散、ソ連邦は解体し、独立国家共同体(CIS)が成立した(1991年12月21日)。ソ連邦を構成していた15の共和国はそれぞれ政治的独立を達成した。同年「八月政変」直後におけるバルト三国の完全独立によって、15共和国で構成されていたソ連邦は事実上解体していたわけであるが、その後ウクライナとベラルーシの独立宣言が相次ぎ、ゴルバチョフ・ソ連邦大統領の連邦維持を目指して捨て身の反撃にもかかわらず時代の趨勢となったディスインテグレーションの流れを止めることにできなかった。「八月政変」は、保守派が改革派を抑えるために行ったクーデターであったと一般的に評価されている。しかし保守派が改革に全面的に反対してわけではないし、かれらは連邦存続に自分達の存立基盤を見出そうとしていたからクーデターに訴えるだけの理由が無かったわけではない。保守派といわれるのは、軍部、内務省、国家保安委員会(KGB)、軍産複合体、それに長い間一党独裁政党としてそれを支配してきた古い意識と体質の共産党などであり、かれらは、エリツィン氏登場後1年間における連邦の弱体化、ロシア共和国をはじめとする共和国の権限強化に危機意識を深めていた。新条約によって、連邦は徴税権を失い、連邦の財政収入は各共和国が納める分担金に依存することになるが、連邦の力が急速に低下した状況下では、各共和国に分担金の支払いをどこまで強制できるのか非常に疑問視されたのである。クーデター計画そのものの粗末さと甘さによって、政敵であるエリツィン氏らに一撃も加えられないまま自滅してしまった。クーデターは連邦維持を狙った保守派の意に反して、連邦化遺体を促進すると言う逆の結果をもたらしたのである