Chapter1. 初期 1790-1840
ブルスと呼ばれるヨーロッパの証券取引所は17世紀に各国政府が自国の債券を募集し、大手の商業貿易会社が海外事業のために新たな資金を調達する場所として設けられている。1611年、オランダに世界初のブルスが設立され、およそ75年後、イギリスがこれに続いた。これらの証券取引所は発展を続けていた商品取引所と肩を並べるかのように新しい金融概念である株式や債券を活発に取引し始め、政府や初期の貿易会社は個人投資家を資本の源とみなすようになった。政府にとって、投資家からお金を借りたほうが税金を引きあげるよりも望ましく、はるかに安全だった。イギリスの歴代政府は、市民に重税を課したことがきっかけで一度ならず面倒な事態に直面したことがあった。アメリカ連邦政府は独立戦争が終わると国の財政が微妙で危険な事態に陥っていて、その事態がかなり深刻なものであることに気づいた。1789年から1790年にかけてニューヨーク市で初の連邦議会が開かれ、アメリカ合衆国の前身となった植民地が抱えていた戦争負債や大陸会議の負債はすべて新政府が引き継ぐことになったが、負債を返済しようにも収入はゼロに近かった。そこで合衆国政府は8000万ドルを借り入れようとニューヨークで連邦政府債券を発行した。
このような資金調達の場面で、アメリカ政府の主な競争相手となったのは国内で急速に独り立ちし始めていた各種の基幹産業や金融機関だった。これらの企業や金融機関のほとんどがイギリス資本の貿易会社のアメリカ支店ともいうべきもので、独立戦争の前から植民地でもよく名が知れわたっていた。商人や貿易業者、投資家は政府よりもこれらの法人をはるかに信頼していたので、新政府が債券を発行する時、かなり高利の利率を設定しなければならなかった。
バトンウッド合意:貿易商人は価格を設定するオークショナーとオークショナーと取引するディーラーの二手に別れ、オークショナーたちが証券価格を操作した。オークショナーとディーラー達はもっと長続きのする取引の場を作ろうと考え、価格操作を一掃し、バトンウッド(アメリカスズカケノキ)の下に集まって株式や債券を売買する正式な取引所の設立を取り決めた。
初の中央銀行
連邦議会が始めて召集されると第一の議題として合衆国銀行の創設が取り上げられた。合衆国銀行は1791年に設立され、本店はフィラデルフィア、ニューヨークを含めて東部海岸の主要都市に支店が設けられている。この中央銀行は当時既に数多くあった州許可の商業銀行と違って州境を越えて視点を持つことができた。このことが多くの州法銀行を苛立たせ、州法銀行は連邦政府や議会に打ち勝ち、州外の銀行が支店を作るという形で他の州に手を伸ばすことを阻止し続けた。1811年に合衆国銀行の許可が失効して中央銀行が解散した時点ですでに120以上の銀行が州の許可を取っていて、その多くが独自の銀行券を発行していた。数年のうちに市場には紙幣が溢れかえるようになり、これが元となって連邦政府は1817年、正貨支払いに頼り始めることになる。しかし数多くの新しい銀行とその所有者たちは、紙幣印刷の権利や能力を自分達の手に握っておくためにも強力な中央銀行に必死で抵抗した。
ニューヨーク取引所
対英戦争がもたらした混乱はバトンウッド合意に署名したディーラー達の事業を維持するために証券取引の組織化を進めようという動きを加速した。ディーラー達は1817年、ニューヨーク証券取引所(NYSEB)を設立することを決めた。NYSEBという呼び名は1863年まで使われ、その後、Boardが取れたNYSEに改めている。しかし新体制は理想から程遠く、取引成立時の証券価格は公表されなかった。価格の記録は毎日残されていたが、いつでも新聞が入手できるものではなかった。株価の情報が乏しかったのは日々取引されている証券の数が少なかったからで、1818年の時点で、合衆国政府債券5種類とニューヨーク州債券、銀行会社の証券10種類、保険会社の証券13種類、それに外貨取引が数種類という実態だった。上場されていた株式のほとんどはその地方の会社のもので、全国的レベルのものとはいえなかった。
新しい取引所ができたとはいってもあらゆる証券取引が新取引所で行われていたわけではなかった。取引から「会員限定」ということで締め出された人は多かった。そこで非会員のブローカー達は取引所の外に集まり、ウォールストリートの歩道で取引をしていた。場外取引のブローカー達は取引所で扱わない株の取引を専門で行うようになり、それが急速に発展して、ニューヨーク場外市場へとつながる流れを作り出した。ニューヨーク場外市場はのちにアメリカ証券取引所(AMEX)となるが、1920年代初期まで永続的な屋内施設に入ることはなかった。
第二合衆国銀行が1816年に設立された。第一合衆国銀行の認可が失効した5年後のことであった。第二銀行を設立するように議会に圧力をかけていたのがステファン・ジラールとジョン・ジェイコブ・アスター(二人は財務省証券のシンジケーションで財を成した)だった。ジラールは断固として中央銀行制度が必要だと考えていた。州法銀行は中央銀行が州法銀行の発行した銀行券や貨幣を貯め込んで地金と兌換してくれと言い出すようでは困ると不満だった。中央銀行の関係者はインフレや通貨価値の下落を食い止めるために操作が必要だと主張したが、州法銀行はそうした主張に対して自分達の金を作り出す権利、能力が侵害されると考えていた。
(見たことある? そう、20ドル札やー。アンドリュー・ジャクソン大統領)
ジャクソンは1833年、大統領に再選されるとすべての政府資金を合衆国銀行から引き揚げることで中央銀行を支持しない意思を明確にした。当時、合衆国銀行は財務省の供託所としても機能していて、この資金引き揚げは資金の流動性という面で金融危機につながった。多くの銀行が廃業に追い込まれ、海外の投資化も新規の株式投資を差し控えるようになった。1837年のパニックは19世紀で最悪の不況となった。多くの銀行が正貨支払いの停止によって廃業し、これらの銀行に経済的な生命線を託していた多くの中小企業が倒産した。とくに農業が受けた打撃はひどく、数多くの農民が破産に追い込まれた。
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