近代オリンピックがフランスの貴族ピエール・ド・クーベルタン男爵(1863年-1937年)の提言によって始まったことはよく知られている。古代にオリンピック大会が行われていた場所は、地震や度重なる川の氾濫のために厚い泥に埋もれ、1400年もの間忘れ去られていた。近代の第一回オリンピック大会がギリシアの首都アテネで開催されたのは1896年のことである。近代大会の主眼である世界平和を尊重する精神も、4年毎の開催という慣例も、古代のオリンピックに習ったものである。オリンピックと平和の結合は、古代以来の伝統なのである。古代オリンピックの会期中には、たとえ戦争中でも一時的に停戦するという取り決めが守られた。
 まず、オリンピック(Olympic)という英単語は、古代に競技会が行われていたオリュンピア(Olympia)という地名から派生した。オリュンピアと神々の住む聖なる山オリュンポスと音が似ているので混同されがちであるが、両者はまったく別である。ペロポンネソス半島の北西部にあるオリュンピアで初めて運動競技会が行われたのは、前776年のことと伝えられる。そして最後の大会となった第293回大会が開催されたのは後393年であったからこの行事は実に1169年間もの長い年月にわたって継続したことになる。これほど長い歴史を誇る競技会が終焉したのは、最後の大会の前年つまり後392年に、ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教をローマの国教と定めたためであった。それによって、キリスト教以外の宗教の行事が全面的に禁止されることになったのである。
 近代五輪の主眼は、各国の政治的対立や選手達の宗教的相違を乗り越えて、スポーツそのものを競いあうことに置かれている。それと対照的に、古代の大会は最高神ゼウスに捧げられた宗教的な行事だった。近代オリンピックは開催都市は大会ごとに変わるが、古代には、4年に一度の競技会は必ずゼウスの聖地オリュンピアで行われ、その時期もほぼ決まって同じであった。夏至の後の2回目もしくは3回目の満月の日がその中日にあたるとき、つまり8月中旬から9月中旬の間のことで、真夏の炎天下である。ギリシアの夏の暑さは格別なので、なぜこんな灼熱のさなかにスポーツに専念したのか不思議に思われるが、その理由はこの時期が農閑期であったことと関係する。収穫が終わり、次の作業までほっと一息ついて、人々が旅に出られるのはこの時期なのである。古代の観客達がオリュンピアを訪れる目的はスポーツ観戦だけではない。ゼウスの聖域を参拝するための巡礼でもあった。
 開催期間は現代では2週間程度だが、古代の初期はわずかに1日だけであった。(後には5日間にのびた) 第13回大会まで行われていた唯一の競技は短距離競争であった。オリュンピアの競技場のトラックを走る競争ではその距離は1スタディオンであった。スタディオン(stadion)という距離単位は、観客席を備えた運動競技場という意味での現代のスタジアム(stadium)の語源になった。1スタディオンの正確な長さは時代や地域によって一定ではないが、だいたい180m~192.2mで、歩幅の600倍にあたる。この距離をヘラクレスはひと息で駆け抜けたという言い伝えが残っている。その後、スタディオンを往復するディアウロスや、24倍の距離を走るドリコスと呼ばれるレースなども競技種目に加えられるようになった。禁止事項は咬むことと目に指を突っ込むことだけという乱暴な格闘技も古代にはあった。パンクラティオンと呼ばれたこの種目はときには死者も出るほど荒々しいものでそれだけに人気も高かった。
> 近代、UFCとなって復活しましたが、現在のUFCはキンテキが反則でしたね。パンクラスは・・・まぁ、そういうルールじゃないっすね・・・
戦車競争にも現代の常識との相違が見られる。汗と涙を流して過酷な練習に耐えたスポーツマンにこそ栄誉が授けられるべきだとわたしたちは思うが、古代の戦車競争の優勝の栄冠は危険と背中合わせに戦車を操縦する御者にではなく、戦車と馬の所有者だけに授けられたのであった。
> グラディエーターみたいなヤツなのかなぁ? だったら見たいねぇ。
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古代大会は原則として、裸で競技に望むことになっていた。全裸のアスリートの姿はおもに陶器画に描かれているにすぎず、文献記録によると、選手は下半身をおおう下着だけは身につけていたようである。理由はいくつか推測されている。真夏の暑さもその一つだろう。だがギリシア人は鍛えられた肉体と日焼けした肌を誇り、身体をおおうのは野蛮人の好みとみなして、それとは対比的に自分達の優れた身体を誇示しようとしたという説明はなかなか説得的である。オリンピックの出場資格に触れておくと古代の競技者は男性だけであった。ヘライアという女子専用の別の競技会も催された。古代オリンピックでは出場は勿論のこと、観戦さえも禁じられていた。女性は競技への出場こそ許されていなかったものの優勝はできた。戦車競争の栄冠は御者ではなく、馬と戦車のオーナーに与えられたからである。スパルタ王の娘キュニスカは戦車競争で優勝して「私は、すべてのギリシア人の中で、冠をいただく最初の女である」という碑文を残した。