香港からKCRで深圳に向かう。
最近、羅湖の駅でイミグレを越える瞬間、エクスタシーを感じる今日この頃です。
一歩歩くたびに、深圳の雑踏に体が溶けていき、闇に全てを隠せる…そんな錯覚に襲われます。
狭く天井の低い通路と橋を渡り、イミグレを抜けるとパァーッと広がる風景が余計にそう感じさせるのかもしれません。
こんな感じの所を延々歩き…
ドーンと広がる羅湖駅前(中国は広い)
一番臨場感のある写真をhttp://sceneway.exblog.jp/より参照しました。
誰も私を知らない。何者も私に触れられない。誰も私を捕まえることができない。
(実際には、知り合いもいるし、通行人と肩が当たることもあるし、悪いことをすれば捕まるんですけどね)
法律・税制・通貨・物価・言葉が変わり、パスポートがないと超えることができず、様々な持ち込み制限があります。
その変化を噛締めながら、世界最強の日本パスポートで、すぅーっと、国境を越える瞬間、
開放感と優越感に浸ってしまうのは私だけでしょうか?
国境、そして国家、よく考えるととても不思議です。特に陸続きで、香港・中国のように簡単に国をまたげる場合。
(香港は国ではないとツッコミが来そうですが)
今日はその不思議な国家という概念をWikiより引用してみました。
国家とは、一定の領域と人民に排他的な統治権を有する政治団体もしくは政治的共同体のこと。
統治権とは、国際法や国内法で有する国土や国民など国家を治める権利のことである。主権や国権ともいう。
主権という概念の内容については、きわめて不明確であり、統一的な定義を下すことは困難である。
対外主権(最高独立性)
国家は互いに平等であり、その上に存在する権威はないため、「最高独立性」といわれることもある。近代国家である以上、対外的に独立していなければならず、逆に、対外的に独立していない場合は、それは国家ではない(国際法上の国家の要件が欠缺している)ということになる。
対内主権(統治権)
近代国家においては、国家は、自らの領土において、いかなる反対の意思を表示する個人・団体に対しても、最終的には、物理的実力(physische Gewalt)を用いて、自己の意思を貫徹することができる。
最高決定力(最高決定権)
第三に、「ある国家のうちで、実際に至高の存在は誰なのか? 即ち、実際に最終的に決定する力を持っているのは誰なのか?」というの問題も、「主権」の問題として語られることがある。
キーは、排他的な統治権と対外主権にあります。
国というのはあまりにも大きく、とらえどころが無いせいか、国の方向性や決定は合理的で、賢明だと思っていました。
最近は、国権は、上記の定義通り、一定の領域での利己的な主張に過ぎない。
その主張は必ずしも合理的なものではなく、非合理性が生み出す歪は、国境を越えながら、捉えることができる
ものだと思っています。
国境を越えるたびに、ある統治権から逃れ、別の統治権との出会いがあります。
最も自分にとって都合の良い主張をしている統治権に身を委ねたい。
そんな感覚がエクスタシーの根源なのでしょうか?