ロシア軍の本防御陣地は、清河城の南東にある。「まるで旅順だ」というところから、「小旅順」という呼び方で呼び始めた。むろんロシア軍陣地は野戦陣地にすぎず、旅順のような恒久要塞ではなかった。陣地作りのうまいロシア軍はこの付近の地形を利用しては巧みに陣地を作り、日本軍が近づくと猛烈な火網を構成して彼らに無数の死を生産させた。日本軍が陣地攻撃をするにあたってあいかわらず銃剣突撃をもってする型をくりかえし、そのためにかつて203高地において払ったような犠牲を払ってしまったからである。
型といえば、元来、軍隊というのは型そのものであり、その戦闘についての思考は型そのものであった。ついでながら型をもっとも種類多く暗記している者が参謀官になるという習慣が、日露戦争後に生まれた。日露戦争の終了後、その戦訓を参考にして作戦関係の軍隊教科書が編まれ、陸軍大学校における作戦教育もそれが基調になっていた。その日露戦争の型をもって滑稽なことながら太平洋戦争までやってのけるという、他のどの分野でも考えられないほどの異常さが、軍隊社会においてはむしろそれが正統であった。「日本軍は奇妙な軍隊である。その中でもっとも愚かな者が参謀憲章を吊っている」と、太平洋戦争の末期、日本軍のインパール作戦を専制的に防いでこれを壊滅させた英軍の参謀が語っているように、軍人というのは型の奴隷であり、その型というのは、その軍隊と、それが所属する国家形態がともどもに滅びさるまで滅びない。
日本軍の野砲は、31年式とよばれるもので、この一種類しかない。厳密な呼称は「速射野砲」という。ついでながら、日清戦争で用いられた日本の制式野砲は-ちょっと信じがたいことだが-青銅製であった。当時、世界中の陸軍で青銅という中世期的な材料を使った野砲を制式としていた国は日本だけで、この妙な砲を採用した理由は維新後十数年のあいだの日本陸軍の神経質的な苦悩から来ている。戦争には鉄を必要とする。のちにはこれに石油が加わる。いずれにしてもそれらの資源が国内において皆無に近い日本という国は、原型として近代的軍事国家を志すのは無理であった。維新後、前時代をつきゆるがした尊皇攘夷思想が、国家体制に吸い上げられて国防強化というかたちになったが、それには火砲を必要とした。このためドイツのクルップ砲を購入し、これをもってとりあえず陸軍制式に順ずるあつかいにしたが、しかしこれは臨時の処置で外国製の砲と砲弾をもって軍隊をつくるわけにゆかないという考え方がつねに正当性を持ち、この正当性が陸軍首脳の頭を悩ませ続けた。
「問題は、国産火砲をつくることにある。わが国産の鉱物を材料とし、わが国の工場でこれを製作しなければならない」
という基本的な考え方が確認された。ところが「わが国産」という肝心の鉄鉱石が日本にはないためにこの勧化方は買えて陸軍首脳の神経を痛めるもとになった。意外な人物から日本の陸軍省にあてた手紙が届いた。かつてナポレオン三世政府の命により、旧幕府の陸軍顧問として日本に駐在したことのあるブリューネーという砲兵士官で、かれは、
「日本には銅が多い。青銅砲はどうか」
といってきたのである。さっそくイタリアからこの砲の製造に必要な諸機械をとりよせ、大阪工廟にすえつけ数門製作した。これにクルップ砲弾をこめて試射したところ、その結果は良好であった。
「非常に結構なものだ」
「結構」といわれたこの青銅野砲の初速は420m、最大射程わずか5000mであった。これと同じ口径(75ミリ)をもつドイツのラインメタル式の野砲が初速700m、最大射程14000mであることをおもうと、おもちゃのようなものであった。この青銅野砲でもって日清戦争を戦った。