バルチック艦隊の成立は、1904年の4月30日である。「太平洋艦隊」とそれまで呼称されていたのは、旅順・浦塩両港を基地とする東洋艦隊のことであった。この極東における艦隊は、ウラジオストックという都市名が「東を征服せよ」という意味である如く、ロシアの中国・朝鮮侵略のための威圧用艦隊であった。その太平洋艦隊だけでも一流国の全海軍に匹敵するものであったが、それが東郷に圧迫されつつあり、提督マカロフまで戦死したことは、ロシア帝国の威信を大きく傷つけた。が、ロシアにはなお本国艦隊がある。「それを東洋に送ろう」ということで、ヨーロッパの各水域にある軍艦を集め、バルチック海において新編成され、名を第二太平洋艦隊と命名された。
「卿がその司令長官になれ」
皇帝の名ざしでそのお気に入りの侍従武官(海軍軍令部長兼任)ロジェストウェンスキーが就任した。
「しかし成功するであろうか」
という疑問が、海軍部内にも各省大臣の間にもあった。まず、その極東回航ということである。日本まで1万8千海里という気の遠くなるような距離があるうえに、これだけの大艦隊が回航されてゆくのである。途中の補給だけでも大変であった。士卒の士気が持続するかということもある。ともあれ、これだけの大艦隊の回航そのものが史上かつてない事業であった。「はたして可能か」と、海軍玄人筋でさえあやうんだ。
バルチック艦隊が、出港のための大集結をしたのは、バルト海(バルチック海)に面するリバウ港である。「これは呪われた港だ」と、ウィッテは憎々しげに言っているが、日露戦争前ここに港を築くことについて、ロシア政界や海軍の意見は2つに割れていた。普通、考えてみると、これほど良い港はないであろう。ロシアは大陸国で、海港を作るにふさわしい海岸線に乏しい。多くは冬季凍結する。露都ペテルブルグの護りをつとめる大軍港クロンシュタットも、1年のうち3か月から5か月も港内が凍る。
-不凍港を得たい。
という望みは、膨張するロシアの、黒煙が立つほどの渇望であった。むろん黒海にもそれがあり、いますでに極東では旅順港をもっている。しかしヨーロッパ・ロシアの心臓であるペテルブルグにもっとも近い位置に商・軍港兼用の港をもちたかった。その欲求から選ばれたのが、リバウ港であった。ここならば、冬季の使用に堪える。が、海軍の一部やウィッテは反対した。その理由は、湾入しているその頸部がせまく、「このため開戦とともに敵に封鎖されて何の役に立つまい」ということであった。ロシアでは常に物事が受け身で考えられた。このようにリバウよりもエカテリンスク湾に面したムルマンを海軍根拠地にするほうが良い、という意見が多く、ウィッテもその派であった。この両案の論争は先帝アレクサンドル三世の晩年頃に政治の表面に現れたが、同帝はその死の直前、