女神たち
ヘラ
ゼウスの妃ヘラ、ヘラの名は明らかにインド=ヨーロッパ語系統には属さない。この語族の来襲以前から先住民の信仰を集めていた大女神がヘラの前身である。ヘラが前ギリシア的な独立した女神であったことは、考古学的に実証されているばかりではなく、歴史家のヘロドトスも「ヘラはギリシア北部の土着民ペラスゴイからギリシア人に受け継がれた神である」と言明している。ゼウスをもたらしたインド=ヨーロッパ語族は、先住民の信仰対象を自分たちの最高神の配偶者や子に移すという習合方法によって宗教的支配を図った。しかしゼウスは主権を完全に掌握したわけではなく、過去の信仰の根強さや宗教的融合の不完全さは神話に影を落とすことになった。実際は、ヘラは婚姻と結婚生活の守護神であるが、神話上のゼウスとヘラは円満な夫婦ではなく、たえず口論を繰り返している。歴史的な観点から見ると、ゼウスとヘラの不和の神話には征服民族と土着民の宗教的軋轢が反映されていると解釈するのが自然だろう。神話世界では卓越した大女神の古い記憶はほとんど失われている。ゼウスとヘラの聖婚の神話は前13世紀頃には成立していたと推測され、最高神の妃という従属的な役割へのヘラの転落はすでにその頃始まっていたと思われる。ヘラは夫ゼウスの愛人やその子どもたちを迫害する意地悪な女神に格下げされ、その執拗なまでの嫉妬深さを物語る逸話には事欠かない。
3000年前から、嫁ってお荷物だったのですね。
アプロディテ
ギリシアの女神たちには先住民族の大女神の痕跡が多かれ少なかれ認められるが、アプロディテについては、むしろオリエントからの影響のほうが大きいといわなければならない。この女神の支配領域は、性的欲望とそれを誘発する美に関連している。その根本には多産や豊穣など、大女神に直接連なる職掌もあるが、アプロディテの場合には近東、特にメソポタミアの女神との類似性が顕著でシュメルの女神イナンナやアッカドの女神イシュタルのギリシア的形態であるとさえいわれる。アプロディテの力の前には、最高神ですら屈服せざるを得ない。戦場から夫の注意をそらすために、ヘラはアプロディテから魔法の力を持つ帯を借りて身につける。するといつもなら他の女にしか目が向かない恐妻家のゼウスが、このときばかりはめずらしいことにヘラに欲望を抱き、戦争のことなどすっかり忘れて妻と甘いひと時を楽しもうとする。しかも、こんな山の上では周囲から丸見えだからとヘラが人目をはばかるのに対して、ゼウスは雲でおおってしまえばなんでもない、オリュンポスの館に戻るには及ばないとまで言い出す始末。官能をつかさどる女神の威力はかくも驚異的である。
これも昔からですね。女神たちはこの事実を知っているから男としては厳しいところです。有害図書指定ジョージ秋山のラブリン・モンローにて「男の人って可哀そう。一生、性欲の奴隷ですものね。」というような台詞があったのを思い出しました。
アプロディテの恋人たち
羊飼いのアンキセス その子どもがウェルギリウスの『アエネイス』の主人公のアエネアス。アエネアスはトロイアの英雄。
アドニス キュプロスの王女ミュラは実の父親に恋心を抱き、その感情を恥じるあまり死を選ぼうとした。しかしミュラの乳母は一計を案じ、実の娘だという事実が露顕しないように巧みに仕組んでミュラを父親の寝室に送り出した。だが逢瀬を重ねるうちにとうとう恐るべき事実が発覚し、父は娘を殺そうとする。ミュラは逃亡し、神に祈り、生も死も拒んだところ、その体は没薬(ミュラ)の木に変身した。この木の裂け目から生まれたのがアドニスである。
官能の女神の強い力を断固として拒否する女神もいる。処女神のアルテミスとアテナ、そしてヘスティアである。性的欲望を喚起するアプロディテと貞潔を尊ぶアルテミスの拮抗をみごとに象徴するのはパイドラの恋物語である。パイドラはアテナイの英雄テセウスの後妻で、古典期の悲劇詩人エウリピデスの『ヒッポリュトス』(前428年)に登場する。舞台で繰り広げられるのはあくまでも人間達のドラマであるが、その背後には神々が厳然と存在する。テセウスは先妻との間にヒッポリュトスという息子がいた。彼は狩猟に明け暮れ、純潔の女神アルテミスだけをひたすら崇拝していた。この青年の眼中には女性など一切なく、愛と官能の女神アプロディテを毛嫌いして敬意を払わない。神威をないがしろにされたアプロディテは、異性愛を拒否するこの不敬な若者に憤慨し、彼を罰するために彼の義母に激しい恋心を吹き込んだ。パイドラはヒッポリュトスに思いをつのらせ、自らの恋を恥じ、思いつめる。パイドラの乳母がその思慕の念をヒッポリュトスに伝える。ところがこの潔癖な青年には義母の懸想は邪悪な忌むべきものと映る。愛を拒まれたパイドラは恥ずかしさのあまり、首を吊って自害する。けれどもそのとき意趣返しにパイドラは、ヒッポリュトスが自分を辱めようとしたという、嘘を伝える書置きを夫に残した。テセウスは亡くなった妻の言葉を鵜呑みにして、即座に息子を館から追放するとともに、呪いをかけた。ヒッポリュトスは海から突如として現れた怪物に襲われる。戦車から落ち、馬に引きずられた青年はこうして短い生涯を終えたのである。