たいていの国の海軍刑法では、ネボガトフの「降伏しよう」という処置はその主将が死刑に該当することになっている。奮戦してのちの降伏なら「名誉の降伏」ということになるのだが、戦わずして敵に降り、その艦船もしくは兵器を敵に交付した場合その指揮官は死刑-ということになっている。ロシア海軍はとくにこの点で厳格な伝統を持っていた。かつてクリミア戦争のとき、ロシア軍艦1隻がトルコ海軍に奪われ、トルコ軍官として戦域を出没していたことがある。ときの皇帝はこれをロシアの汚辱として、全海軍に対し、「かの軍艦を捜索し、撃沈せよ」と命じ、執拗に督励したことがある。その皇帝の名は皮肉なことにこのネボガトフの旗艦の名前であるニコライ一世であった。
寺内正毅は陸軍大臣になってから何かの用事で士官学校にやってきたことがあるが、校門に「陸軍士官学校」と陽刻された金文字の看板が青さびて光沢を失っているのを発見した。重大な発見であった。かれはすぐ校長の某中将をよびつけ、大いにしかった。この叱責の論理は規律主義者が好んで用いる形式論理で、「この文字は恐れ多くも有栖川宮一品親王殿下のお手に成るものである」からはじまる。「しかるをなんぞや、この手入れを怠り、このように錆を生ぜしめ、ほとんど文字を識別しかねるまでとは。まことに不敬の至りである。さらにひるがえって思えば、本校は日本帝国の士官教育を代表すべき唯一の学校であるにもかかわらず、その扁額に錆を生ぜしめるとは、ひとり士官学校の不面目ならず、我が帝国陸軍の恥辱であり、帝国陸軍の恥辱であるということは我が大日本帝国の国辱である」と説諭した。
この愚にもつかぬ形式論理はその後の帝国陸軍に遺伝相続され、帝国陸軍にあっては伍長に至るまでこの種の論理を駆使して兵を叱責し、自らの権威を打ち立てる風習ができた。逆に考えれば寺内正毅という器にもっとも適した職は、伍長か軍曹がつとめる内務班長であったかもしれない。なぜならば寺内陸相は日露戦争前後の陸軍のオーナーでありながら、陸軍のために何一つ創造的な仕事をしなかったからである。
「陸軍大学校に教科書が無いのははなはだ不都合ではないか」といった。寺内は独創より不秩序を憎む人であった。しかし想像力の養成の場である陸軍大学校において、思考統一のための教科書を作るということそのことが、重大であった。
井口は職を賭して反対した。「教科書というものは、人間が作るもので、ところがいったんこれが採用されれば一つの権威になり、そのあとの代々の教官はこれに準拠してそれを踏襲するだけになります。いま教科書が無いために教官たちは頭脳の限りをつくして教えているわけであります。すなわち教官の能力如何が学生に影響するために、勢い教官は懸命に研究せねばならぬということになり、このため学生も大いに啓発されてゆくというかたちをとっております。まして戦術の分野にあっては教科書は不要であります。どころか、そのために弊害も多いと思います。しかしそれでもなおこれを作れとおっしゃるのでありましたら、私は教頭を辞めさせていただくほかありません」と井口が言ったため、寺内もそれ以上言わなかった。
あとがき
まず旅順のくだりを書くにあたって、多少、乃木神話の存在がわずらわしかった。それを信奉されているむきから様々なことを言ってこられたが、べつに肯綮にあたるようなこともなかったので、沈黙のままでいた。乃木希典という人については、私はすでに「殉死」において書いた。この「坂の上の雲」にかれが登場するについては、この作品の主題上、彼の人間について触れることを遠慮した。この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが100%にちかいからであり、いまひとつは、この作品の書き手-私のことだ-はどうにも小説にならない主題を選んでしまっている。千数百年、異質の文明体系の中にいた日本人という一つの民族が、それを捨てて、産業革命後のヨーロッパの文明体系へ転換したという世界史上最も劇的な運命を自ら選んだだが、そういう劇的なことというのは、小説という世界に引きずり込むことは実に難しい。
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