サブタイトルが重要で、会津藩に焦点を当てた本です。ちょっと残念です。
幕府の長州攻めは失敗した。これを見たイギリスは幕府を見限り、薩摩、長州に舵を切った。イギリスの武器商人トーマス・グラバーは、いまやもう一人の薩摩、長州藩の軍事参謀であった。グラバーは、18,19歳のころ、上海に渡り、安政6年(1859)9月に長崎にやってきた。このとき21歳である。居留先はジャーディン・マセソン商会の長崎代理人であるケネス・マッケンジーのところだった。そこで修業し、やがて独立した。最初の仕事は日本茶の輸出だった。それから艦船や銃器の販売を始めた。いまや日本の未来を左右する政商であった。
幕府は押される一方である。倒幕の危機が迫っていた。御三家、親藩、どこも我関せずである。会津、桑名(三重県)だけが骨身を削って頑張っていたが、全てが限界に近かった。幕府の中で一人、この事態に歯ぎしりをしている男がいた。勘定奉行小栗上野介である。小栗はフランス公使のレオン・ロッシュの協力を得て、幕府の再建に取り組んでいた。軍備の強化と横須賀製鉄所の建設が当面の目標だった。財源はフランスの経済顧問クーレとの間で締結した3500万フランの借款契約だった。イギリスのオリエンタルバンクが中に入り、取引が成立した。ドルに換算すると約600万ドルである。軍艦、大砲、小銃などの整備購入に250万ドル、横須賀製鉄所に250万ドルを予定した。他に外国人の技術者の給与に10万ドルを割いた。借入金の返済は生糸や鉱山の開発などで資金を生み、そこから返済を考えた。
捏造された倒幕の蜜勅
西郷らは慶喜を朝敵とする蜜勅を作成したのである。『大西郷全集』では、策謀の張本人は公家の岩倉具視だとある。これは西郷かくしの色彩が濃厚である。どう見ても西郷がかんでいることは疑う余地が無い。会津の資料『京都守護職始末』は、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の3人が蜜勅を薩摩、長州にくだしたと記述した。この日から慶喜と容保の思いもよらぬ転落が始まる。それが西郷の巧妙な謀略だと気づいたときは遅かった。慶喜は全てを失い、丸裸にされて捨てられる。
孝明天皇が不可解な死を遂げたのは、慶応2年(1866)の12月25日だった。「孝明天皇は脇役ではない」と指摘したのは、大阪経済大学の家近良樹教授である。近著『幕末の朝廷』(中公叢書)で、孝明天皇はアメリカなどが強制してきた、いわゆる「グローバルスタンダード」を嫌悪していたと指摘している。それは「世界通商の仕向け」「万国普通の常例」「世界不通の御法」といったお題目のもと、文化・文明の両面で、欧米的価値観を日本側に強引に押し付けようとすることに対する批判、健全なナショナリズム精神の萌芽だったと述べた。
元皇族の竹田恒泰氏も「孝明天皇と明治維新」(『Voice』平成19年2月号)は反対していたと記述した。天皇の不可解な死についても疑問を投じた。孝明天皇の研究は、明治維新から太平洋戦争が終結するまでの約80年間、ベールに包まれたままだった。明治維新にもっと深く関わったのは、明治天皇ではなく、孝明天皇だった。にもかかわらず、なぜ研究が進まなかったのか、これは不思議なことであった。
慶応2年12月11日に、内侍所で臨時神楽が行われた。孝明天皇は少々風邪気味だったが出御し、途中で気分が悪いと退席した。天皇は翌日発熱し、13日は症状が悪化した。14日には痘瘡(天然痘)による発熱と診断された。15日は手に吹き出物が現われ、16日には顔にも吹き出物が生じた。典医一同は孝明天皇の病名は痘瘡と診断した。やがて回復に向ったが25日、一転して重体に陥った。激しい嘔吐、下痢、下血を繰り返し、この日の夜11時頃には「九穴より御脱血」という重症となり、のたうちまわって苦しんだ後36歳の若さで息を引き取った。これは砒素による毒殺であると噂があった。石井孝は痘瘡が回復の時点で突如、病状が悪化したのは、砒素を盛られたことによる急性砒素中毒と判断した。明治天皇の祖父中山忠能は「毒を献じた結果であり、陰計が企てられた」と日記に記した。この場合の毒は砒素ではなく、痘毒だった。主謀者は誰か。岩倉具視の名前が噂された。しかし確証は得られず、今日まで謎に包まれたままになっている。孝明天皇の死は政局を一転させ、会津藩は後ろ盾を失った。明治天皇はわずか15歳の若さである。維新そのものには何の影響も与えなかった。それに対して孝明天皇は「攘夷佐幕」、つまり攘夷断行と公武合体の2点を一生、貫き通した人物であり、最後まで王政復古を望まず、討幕派の最大の障害となっていた。
江戸無血開城の舞台裏
主戦派の勘定奉行小栗は罷免され、恭順派の勝海舟に薩長との全権交渉が任された。幕府海軍は西郷にとって確かに脅威だった。しかし、補給がきかない。保管している弾薬の量は差ほどでもないはずだ。撃てば撃つほど弾薬は消費する。その補給がなければ、もはや軍艦ではない。西郷には余裕があった。だがそのことには一切触れず、会うと返事した。勝の言い分は江戸の無血開城と慶喜の生命の保証、財産の保全だった。結局、江戸城を引き渡し、慶喜が江戸を去ることで会談は決着した。実はこの会談にはもう一つ、隠された事実があった。イギリス公使パークスが戦争に反対していたのである。江戸が壊滅すれば日本経済は大混乱し、貿易にも支障が出るというのがパークスの言い分だった。これを聞いた西郷は愕然とした。イギリスの反対を押し切れば、武器弾薬が押さえられてしまう。戦争にならなかった。残るは会津と荘内だった。なかでも最大の抵抗勢力は会津だった。しかし慶喜も勝も会津を援護はしなかった。会津を目指して薩摩、長州ほか連合軍の侵攻が始まった。幕府の身代わり、生贄として会津が選ばれた。
偽りの明治維新―会津戊辰戦争の真実 (だいわ文庫) | |
星 亮一
大和書房 2008-01-10 |
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