ローマの大火
当時のローマの道幅は5~6メートルしかなく、おまけに両側から増築された部分が道の上まで突き出し家並みは乱れており、消火は困難を極めた。みんな身の安全を計り、足弱の者たちをかばいながらも慌てふためいて互いに邪魔をし合っていた。人は押し合い圧し合いして地面に倒れる。火焔の中から救い出すことのできなかった身内をいとおしがって自ら命を断つものもある。もはや誰一人として火を消し止めようとはしなかった。それどころか奇怪なことに消そうとすると、多くの人が脅し妨げた。なかにはおおぴらに松明を投げながら「その筋の命令でやっているだ」と叫んでいる者も居た。ちょうどこのとき、ネロはアンティウムに滞在したが、知らせを受けてローマに帰ってきた頃には、パラティン丘とマエケナス庭園を結ぶ回廊宮殿に、今にも延焼しようとしていた。火を消し止めることができたのは、パラティン丘がカエサル家の建物を含めてすべて灰塵に帰した後であった。出火後6日目にやっと火はエスクィリヌス丘の麓で止まった。
ネロが行った大火後の応急措置と復興施策は行き届いたものだったが、忌まわしい噂をかき消すことはできなかった。ネロは都が燃え盛っている最中に館の内の舞台に立ち、眼前の火焔を見ながら、これを大昔の不幸になぞらえて「トロイの陥落」と歌っていたというのである。「ネロは新しい都を建て直し、それに自分の名前をつけようという野心を日ごろから抱いて」ローマを焼いたという一層聞き捨てならない噂も流れ、人々に信じられていた。スエトニウスによると、あの奇怪な放火団はネロの奴隷達だったので執政官も阻止する勇気がなかったという。しかし新都建設事業のためならば、何もローマを焼き払うという高価な犠牲を払わなくても可能なことであり、彼が苦にしていたというスラム街や曲がりくねった狭い街路を一掃するには、より有効適切な方法があったはずである。大火後の首都が面目一新したことは、ネロの年来の構想をある程度実現したことになるが、それが放火の動機であったとは考えられない。それでは奇怪な放火団は一体何者か? その正体を突き止める決め手は無いがただの火事泥棒ではないらしい。ブリタニクス-アグリッピナ-オクタヴィア派の残党、さてはシラヌス、スラ、プラウトゥスなどにつらなる人々のいずれか、あるいはそのすべてであっても良いだろう。ネロにこめられたつのる怨みが紅蓮の焔となてローマを焼き尽くし、その罪責を市民の悲嘆と苦悩のさなかに、ホメロス気取りで歌うヘボ詩人になすりつけたのではあるまいか。


「ネロが大火を命じた」という風評が広がり、ネロのせっかくの努力も帳消しになって民衆の間に不穏の空気が兆し、暴動も起こりかねない状況になった。そこでタキトゥスによれば「ネロはこの風評を揉み消そうと身代わりの被告をこしらえ、一般に人々がキリスト者と呼び、その隠された罪の故に憎まれていた人々に大変手の込んだ刑罰を加えた」。こうして人身御供にあげられたのはキリスト者であり、ここに首都ローマに始めてキリスト者の存在が大きくクローズアップされるのである。ローマ人の宗教は本来ギリシア人のそれとは異なっていたが、ヘレニズム文化の流入とともに、ローマの神々は次第にオリンポスの神々と同一視されて祀られた。死去した元首の神格化により、皇帝礼拝の道も進められたが、これは本来君主礼拝の慣例を持つ東方属州では盛んに行われ、ローマの神々とともに合祀された神殿も各地に建てられた。キリスト教以前にもユダヤ人は唯一神教のユダヤ教の信仰を守ったため「無心論者・人間嫌い」と非難されている。
ローマの大火以来、ネロの出費はかさみ、元首の金庫もやりくりが苦しくなってきた。しかもネロの個人的乱費のほかに、兵士、密告者への報酬、俳優、競技者への贈与などはますます額がかさんだ。アヴェルルス湖からオスティアへの大運河開鑿も中止された。ローマ再建のためにイタリア人と属州民に課した強制献金もすぐ底を突いてしまった。結局てっとりばやい方法は政治的陰謀に引っ掛けて貴族や富豪から土地や財産を没収することであった。アフリカ州全土の半分を占めていた6人の大土地所有者を死刑にして土地を没収したことなど最も著しい例である。それでも追いかつ数、金銀貨に卑金属の合金率を増してギリシア貨幣などとの交換レートを有利にしようとしたが、インド貿易ではローマ人の信用を落とし、本来、奢侈品の輸入超過を招いているバランスをいっそう悪化させた。
没落への道 属州と辺境の戦雲
現在のイースト・アングリア地方に居住したイケニ族はローマ人の搾取に悩まされていた。土地収用に来たローマの役人は、プラスタグス王の未亡人妃ボウディッカをむちうち、王女達を辱めた。イケニ族は憤激し、武器を持って立ち上がり、同じくローマの圧制を感じていた近隣の部族もこれに合流した。
アルメニア問題
ローマ帝国の当方国境における最大の問題はパルティア王国との長年にわたる対立抗争であった。アウグストゥスは強攻策を捨ててパルティアに対して融和政策を取り、それは後継者達によっておおむね踏襲された。両大国の間に緩衝国としてアルメニアがあったが、クラウディウス帝の治下でアルメニア王ラダミストゥスはローマの宗主権を認めていた。しかし帝の死の直後、パリティア人はこれに乗じたのかアルメニアに侵入したので、ラダミストゥス王はローマに救援を請うた。
ユダヤの反乱
エルサレムでは時の代官フロルスが、年貢の滞納を口実に神殿の宝庫から金を掠め取ったので、ユダヤ人が一種のレジスタンスを行い、「貧しいフロルスのために一文お恵みください」と、乞食の扮装をして物乞いをし、代官の貪欲を嘲弄したので、フロルスが怒って彼らを逮捕処刑したことがきっかけとなった。66年5月半ばのことだった。エルサレムでは市街戦が勃発し、民衆は神殿の丘を占領した。
ヴィンデクスの反乱
ローマの情勢は次第に悪化していた。とりわけネロの長旅に苛立っていたのはローマの民衆だった。彼らは「パンとサーカス」の不足を訴えた。ギリシアにいたネロはようやく68年になって帰国の途についたが、ローマには直行せず、ナポリに赴いた。ネロはアポロン神殿を詣で、新築成ったばかりの黄金神殿に入った。しかしそれもつかの間はやくもナポリに帰ってしまった。そこにヴィンデクスの反乱が報告された。彼は各地を巡り、属州民に呼びかけた。「ネロはローマ国を略奪した。彼は元老院の精華をすべてむしりとった。彼は放蕩に身を持ち崩し、母を殺し、君主らしいところは少しも無い。」 こうして彼は10万人を集めたと言われる。それは没落農民、脱走兵、逃亡奴隷の集団であった。それから彼はヒスパニア・タラコネンシス州の総督ガルバに手紙を送り、ネロに代わって元首になるよう勧めた。
ガルバはアグリッピナが追放から帰った後、彼女の求婚を拒んだことがあったので、彼女が妃となると復讐を恐れ、公職を離れて引きこもっていた。ガルバはヴィンデクスの最初の手紙には返事しなかったが、再度の手紙を受取ると幕僚に相談した。すると軍団長のヴィニウスは「ヴィンデクスの申し出を受け入れるか、彼と戦うかのどちらかにすべきです」と進言した。この言葉にガルバは説得されて、ネロに対する反抗に踏み切った。
高地ゲルマニア総督ヴェルギニウス=ルフスがネロの命令にしたがって、精鋭三個軍団率いてヴィンデクスに向かい進撃した。もともと烏合の衆だったガリア軍は軍団兵の奇襲にあい、2万人が殺され、残りは逃走して潰滅した。ヴィンデクスは絶望のあまり自殺した。ガルバは意気消沈して自殺しようとした。その後やっと思い直し、属州の小都市クルニアに隠退し、この冒険に身を投じるためになげうった閉まった昔の快適で、閑静な生活を懐かしんだ。元老院はいったんガルバを公的と宣言したが民衆の不穏な動きを目の当たりに見てガルバの密使と交渉を始めた。目先のきくティゲリヌスも形勢不利を察して、いつの間にか姿を消してしまった。もう一人の近衛軍司令官ニンフィディウスもガルバ側と通謀し、ネロを追放し、ガルバを元首に推戴しようと策動し始めた。ネロはエジプトに逃げる決意をし、忠実な解放奴隷たちをオスティア港に派遣し、その準備が整うまで人目を避け別荘で待つことにした。
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ネロの一行は暗い夜道を急ぐ間に通行人とすれ違う。「この人たちもネロを捜索しているのかな」と囁く者もいれば、「首都ではネロについての新しい情報がありますか」と尋ねる者もいた。ネロは猛烈な渇きを覚え、傍らの溜まり水を手ですくって飲んだ。「こいつはネロの蒸留水の味だ」と思わず言う。ネロの考えついた、蒸留水に雪を入れて冷やした飲み物である。腹が空き、のどもまた渇いてきたが、差し出されたまずいパンは食べる気になれず、ぬるま湯を少し飲んだだけだった。ついに随行者達は口をそろえて「お覚悟なさい。自害して、差し迫った屈辱を避けられますように」と勧めた。ネロは死にきれずに泣いて、次の言葉を繰り返していた。「なんと惜しい芸術家が、私の死によって失われることか!」 彼がぐずぐずしていると一人の使者が現れ、一通の書状をパオンに渡したネロは元老院から公敵と宣言され、彼を古式通りの処刑にするため目下捜索中と記してある。古式通りの処刑とはどんなことかとネロが尋ねると処刑者を裸にし、V字型の首枷にはめ、むちで叩き殺すのだと聞かされて、いよいよ自決する覚悟を決め、身につけていた二本の短剣を抜き、刃先を試した。それでもまだ自分を刺す勇気が出ない。「まだ最後の時は来ていないぞ」と言い訳をする。それから「妻」のスポルスに私の最後を歎いてくれと頼むかと思うと、他者には「先に死んで手本を見せてくれ」と願う。しかし、さすがに自分の臆病に愛想が尽きたのか「これ以上生きることは醜態だ、恥だ」と言いかけ、ギリシア語に言い換えて「ネロらしくも無い。似つかわしくない。こんな時こそ決断が肝心だ。さあ、奮発しろ」と自分を叱りつける。とうとう馬蹄の音が次第に高く聞こえてきた。ネロを生きたまま捕らえてくるように命じられた騎兵の一隊である。これを耳にするとネロは震え声でホメロスの詩句を口ずさんだ。「早駆けに走る軍馬の蹄の音我が耳を打つ」 そして剣をのどに突き刺すとエパフロディトゥスが介添えした。ほとんど生きも絶え絶えのところに騎兵隊の100人隊長が駆け込んできてネロを助けに来たかのように、傷の上に外套を置いた。ネロはあえぎながら、「もう遅すぎたよ。それがお前の忠誠か・・・」とつぶやいて、こときれた。68年6月9日の夜明けのことだった。その生涯は30歳と約6ヶ月。元首の在位期間は13年と8ヶ月ばかりであった
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