生来、賭け事を好むケインズは、早くも同年8月頃からきわめてアクティヴな個人投資家-というより投機家、さらにいえば相場師-としての活動を開始する。
> 半端じゃないリスクの取り方ですね。一回ぶっ飛ばしているものの平均年間リターンは21%。いつの世も成功者はこのくらいですよね。ハァ・・・、俺、セコイなぁ・・・。
1919年秋以降、ケインズの投機活動は本格化する。それも当初は既に旧い固定相場制が崩壊し、フロート化していた外国為替の投機に集中した。彼のスタンスは、基本的にドルには強気で、フランス・フラン、マルク、リラなど欧州通貨に対して弱気というものである。そして、大蔵省時代の仲間であったオズワルド・T・フォークの会社にわずかな証拠金を入れて、外国通貨の先物売買を、大規模に、かつ連日のように行った。
事実1920年1月までに6154ポンドの利益が転がり込む。
> 1918年末の資産は7000ポンドだった。
この当初のめざましい成功に味をしめたケインズはフォークと組んで、彼ら自身の資金にそれぞれの友人達から集めた資金を加え、30000ポンドのファンドで為替投機を目的とする「シンジケート」を組成し、1920年1月に活動を開始する。ただし2ヵ月後の同年3月末、わずかな差額証拠金による大量売買に危険を感じたフォークは、自らのグループの資金を引き揚げてしまった。シンジケートのパフォーマンスは、4月末までに9000ポンドの利益を実現し、8000ポンドの評価益を得た。
5月に入ると、外国為替市場の流れがケインズの思惑とは異なった方向に展示、マルクをはじめ欧州通貨がスターリング・ポンドに対し上昇し、ドルが低下する。動きは急で、やがて彼は破産寸前の状況に追い込まれる。4月から5月にかけて彼は13125ポンドを失い、「シンジケート」も8499ポンドを失った。しかも証拠金はわずかで取引商社から7000ポンドの追加払込を求められたケインズは、自らの手持ち有価証券の処分と、マクラミン社から好意的に支払ってもらった『平和の経済的帰結』の前渡し金1500ポンド、さらにアーネスト・カッセル(金融業者)からの借入金5000ポンド等で辛うじて切り抜けた。そして「シンジケート」関連の「道義的な」ものを含めて多額の負債が残った。もっとも1920年5月の為替相場の動きは一時的で、3ヵ月後にはおおむね元に戻り、ケインズの相場観は正しかったことが立証されえた形となった。
> いや、相場観は正しくない。一時的な異様な動きも含めて相場なのだ。
プロヴィンシャルとナショナル・ミューチュアルの保険会社のほかに、ケインズはシティの実業家としていくつかの投資会社の設立、経営に参加した。まず1921年7月設立AD投資信託、ケインズとフォークが大戦中の大蔵省の旧Aディヴィジョンのメンバーに呼びかけ、資本金50000ポンドでつくった投資信託会社。発足当初、業績はきわめて好調で高配当を続けたが、結局1929年の恐慌で、生き残ることができなかった。因みに、ケインズは1927年11月-経緯は定かではないが-持ち株を売却し取締役を降りている。
次に、1923年1月設立のPRファイナンス会社。これはケインズが友人達の資産を増やすことを目的に、フォークらと語らって作った会社で、資本金11万5000ポンド、フォークを会長として出発した。PRは「万物流転」を意味するギリシャ語の頭文字を取ったもの。当初、おおむね順調であったが、主要業務たる商品投機の失敗で、1928年以降、赤字が累積しはじめる。企業再建を巡って経営内の意見対立が先鋭化し、1932年にはフォークらが去り、経営責任がケインズの肩にのしかかる。以後、彼の懸命の努力と市況の回復で、1935年5月、株主、友人に迷惑をかけない形で辛うじて自己清算に漕ぎつけた。
最後に1924年1月に、インディペンデント投資会社が、これまたケインズ、フォークが中心になって設立された。ケインズは当時なお景気循環に関する理論的知識を投資にうまく適用することによって確実に利益を上げることができるという信念を持っていたので、そういった趣旨がいささか自信過剰なトーンで「設立目論見書」にうたわれていた。のみならず、ケインズは社名まで、当初「クレジット・サイクル投資会社」にしようという提案をしたようである。資本金は当初35万ポンド、のち100万ポンド。例によってまずまずのスタートを切るが、プロスペクタスの自信とは裏腹に、アメリカの投資信託や公共事業の優先株に大々的に投資していたこともあって、数年後にはその全資本を失うことになる。
ここでも独断専行の傾向を持つフォークとケインズの確執は激しく、特に1931年9月のイギリスの金本位制離脱の前後、ドル建てローンのポンド建当座貸越への切り替えの是非を巡る二人の見解の相違から亀裂は決定的となり、遂に両者とも一戦から退きシティーの伝統的なマーチャントバンクであるヘルベルト・ワッグに経営が移管され、再建が図られることとなった。同社は現在も存続しているそうである。
> 共同経営は、決断を鈍らせるな。それにしても全部破産・吸収か。勝った実績を評価されて次々と資金が集まるのは、負けない地味な私よりも遥かに優れている証拠でもある。
1942年6月には男爵位バロン・ケインズ・オブ・ティルトンを授けられてケインズ卿となり、世間的な意味でも頂点を極める。そしてイギリスのひいては世界の命運を担って、ブレトン・ウッズ会議やアメリカの対英借款交渉等に、文字通り、身命を賭することになる。
> ベルサイユ条約、イギリス金本位制離脱、ブレトン・ウッズ会議と凄まじい経歴だね、こりゃ。さすがに教科書に載るだけのことはあるわw
世界に先駆けて産業革命を達成したイギリスは、「世界の工場」として、約1世紀にわたり、当初、綿業、毛織物業など軽工業で、やがて鉄鋼、造船、機械など重工業分野でも、国際的な覇権を確立する。しかし、このヴィクトリア盛期にほぼ対応する大英帝国の黄金時代も19世紀末が近付くにつれて、かげりが生じはじめる。特に工業において、ドイツやアメリカなど新興工業国家の追い上げが厳しく、なかんずく、近代的な重化学工業の分野では既に第一次大戦前にこれら両国に覇権を譲る形となりつつあった。
こうした分野でのイギリスの立ち遅れの基本的な背景は、工業の担い手である企業のあり方にあったように思われる。「世界の工場」次代の企業形態は、個人企業ないしはパートナーシップが支配的であった。イギリスの工業の興隆期、創業者は確かにマーシャルのいわゆる「経済騎士道」にふさわしいタイプの人物も少なくなかったと思われるが、概して世襲制であるため、経営資源が組織的に蓄積されず、企業家精神も衰退しがちである。資金調達面でも当然、限界があるため、設備の近代化も進まない。1862年の「会社法」制定によって、ようやく近代的な大企業の発展への道が開かれたが19世紀末葉、石油、化学、電気、自動車といった「ニュー・インダストリー」の時代を迎えるやいち早く、専門的経営者の支配する株式会社が、資本市場を通じて大量の資金を調達し、積極的に技術革新をすすめる体制を整えたドイツ、アメリカの優位が決定的となってゆく。
> 資本主義の台頭、基軸通貨の移行の歴史であるこの部分は、日本人が株式市場の意義を考えるために熟読するべきではなかろうか。
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