よく知られているように、ケインズは単なる経済学者ではなかった。彼は官僚であり、政治家であり、また保険会社やいくつかの投資会社等の経営者として、さらにはアクティヴな個人投資家として、多年にわたりロンドンの金融街「シティ」を舞台に活躍をした。ケンブリッジ大学でも、正規の教職ポストにあったのは経済学講師としての通算わずかに数年間に過ぎず、むしろ大半の歳月(四半世紀に及ぶ)を会計官としてカレッジの管理運営に当たったのである。
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ケインズがささやかながら初めて株式投資に手を染めたのは、1905年の7月でマリン・インシュアランス・カンパニーの株式4株を160ポンド16シリングで買っているのである。そして引き続きその6ヵ月後に、マザー・アンド・プラット社の株式4株を49ポンド7シリングで購入した。
1902年にイートン校を経てケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入ったメイナード・ケインズは、そこで数学を専攻した。24人中12位という成績で合格した。当面、彼の知的関心の中心は、経済学よりもモラル・サイエンスにあったように思われるのであるが、1905年秋頃から次第に経済学への傾斜を強めてゆく
文官試験への挑戦を決めてからも、及び腰のスタンスのため、その準備に集中した形跡は見られない。「僕はもう勉強し尽くしていて、10位以内には入れる自信を十分持っている。僕は1番だろうが10番であろうが気にかけないのだから、どうしてくよくよする必要があるの
2位合格でインド省へ
文官試験は104人中第2位の合格であった。一番になれなかったのは、皮肉なことに得意科目のはずの数学と経済学の不振のためであった。ケインズは「私は明らかに経済学について試験官よりもよく知っていた」と不満を述べた由であるが、要するに当時はまだ経済学が客観的で公平な試験になじむほど充分「制度化」されていなかったことによるものかと思われる。
> ダブルメジャーといい、文官試験といい、天才が興味の赴くまま、自由にやってる感あるなぁ。うらやましい才だ。


なぜインド省かと言えば、それが大蔵省に準ずる高いステイタスを持つからにすぎないのであって、彼がインドに格別の関心ないし抱負を持っていたからでは無いのである。
インドは、政治的、経済的、軍事的にきわめて重要な地位を占めていたのであって、大英帝国はインド抜きでは考えられないといってよい程であった。自ら大蔵、外務、内務、通商などの機能を持ち、あたかもミニ政府の観を呈していた。また独自の歳入財源を持っていたために、大蔵省や議会からのコントロールも比較的弱かった
インド省入省から半年後のケインズの手紙
僕は新しい局が好きだ。ここでは何でも僕が目を通すために回ってくるシステムになっていて、僕はそれを読んでいる。実際読むべきものが多すぎて、僕の時間の全てが取られている。中にはけっこう夢中にさせられるものもある-外務省のドイツとの通商交渉、ペルシャ湾におけるロシアとの紛争、中部インドにおける阿片の取締り、中国の阿片に関する申し出-僕はこの二日間これら全てに関する膨大な資料を読んだ。
それは当時のインド省の雰囲気を生き生きと伝えると同時に若きエリート官僚として「豪華な気分」にひたるケインズの得意然たるポーズを示すものとして、まことに興味深い。
さらに半年後のケインズの手紙
僕は今の地位に完全に嫌気がさしており、辞めたいと思っている。今は目新しさもすっかり色あせ、職場で過ごす時間の9/10はうんざりさせられており、残りの1/10は、自分流に過ごせない場合、我ながら不当なほど苛立っている。自分の考えの正しさを確信している人間を無力にしてしまう30人もの人たちと一緒に居ると気が狂いそうだ。自らの保身のみを考える官僚の属性は救いがたい。何らかの責任を取ることへのドレイク(歳入・統計・通商局次官補)の恐怖は哀れなぐらいだ。もちろん、それはいかなる独創的なあるいは冒険的な提案も無視されることを意味する。このような機構のもとでは、なにごとにせよ性急にあるいは無謀にことが運ばれるようなことはまったく無い。それゆえ、インド省内で自由な言論をはいたためにインドに危険を及ぼすというようなことは全然無い。自由な言論をはくものはおそらく「鼻であしらわれる」だろう。ああ! 僕の思索は今もっぱら確率論に注がれている。
かくして、ケインズのインド省勤務は、わずか1年半で終末を迎えることとなった。
> 究極の自己責任である個人投資も好きだったみたいだから、慎重すぎる省の仕事は肌に合わなかったか・・・
第一次世界大戦、大蔵省入省
1913年の春、ケインズはインド省時代の上司たるホルダーネス卿から新設する「インドの金融・通貨に関する王立委員会」の委員への就任要請を受け、これを受諾した。そして、そのとき、同委員会事務局長として大蔵省から派遣されて、ケインズの卓越した能力をつぶさに見つめていたのが、バジル・ブラッケットであった。彼も後にイングランド銀行理事をつよめる人物であるが、大戦勃発当初には大蔵省に戻っていて、戦争に伴って発生した当面の金融・決済システムの動揺にいかに対応するかという差し迫った困難な問題に直面していた。1914年8月2日、ブラッケットから「君の頭脳を祖国のために貸してほしい」という手紙をケンブリッジで受取ったケインズの対応はきわめて早かった。
1918年秋には、連合国の勝利が濃厚となり、10月ドイツはウィルソンの14か条に則った休戦を申し入れ、翌11月、遂に降伏する。既に、戦争終結に備えて賠償問題を検討していたケインズのAディヴィジョンは、その調査結果を同11月末、閣議に提出した。その結露な、ドイツの賠償支払い能力は20億ポンドから最大限30億ポンドと推計した上で、連合国側が予備段階で請求すべき賠償額は40億ポンドである、というものであった。これに対し、オーストラリアのウィリアム・ヒューズ首相を委員長に、前イングランド銀行総裁カンリフらを委員に加えて独立の委員会は、同12月、戦争の総費用を240億ポンドとし、ドイツはその全額を支払うべきであるとする報告書を提出した。
以後、数ヶ月にわたり、不当かつ非現実的な要求を掲げる連合国側首脳達との間の悪戦苦闘が続くが、ついに会議の動向に愛想を尽かし、5月には大蔵省に辞表を提出する。
> 総統閣下もお怒りのドイツをダメにした「ベルサイユ条約」、第二次世界大戦の元にもなっただろう。
【国家創設の野望】
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