太平洋戦争の戦前戦中、三度総理大臣の座に就いた近衛文麿は、昭和天皇に政務を上奏する時、椅子に座り、足を組んだままで、涼しい顔をしていたという。もちろん周囲の顰蹙を買ったが、このような不謹慎が許されたのには訳がある。近衛氏が藤原五摂家の筆頭だったからにほかならない。五摂家は7世紀の大物政治家・藤原不比等の4人の男子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂のなかの房前の末裔、藤原北家が5つの家に別れ(近衛、九条、二条、一条、鷹司)、平安時代以来、明治にいたるまで、代々摂政と関白を排出する一族として、貴族社会の頂点に君臨してきたのである。
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後続を殺めた数という点では藤原氏の右に出る者はいない。長屋王、安積親王、井上内親王など、正史が認めたもの、認めていないものも含めて、藤原氏は邪魔になった皇族をいとも簡単に闇に葬り去っている。幕末の孝明天皇の死にも不審な点がある。第121代孝明天皇(在位1846~66年)は若手公家たちが討幕運動に走る中、公武合体を推し進めようとしていた。京都守護職の松平容保、一橋慶喜(第15代将軍)らと手を組んで長州藩らの尊王攘夷派集団を排斥し、その直後に病死する。この死には暗殺説が根強く、例えば平凡社の『世界大百科事典5』(1984年初版)は、この年疱瘡を病み逝去。病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い。と指摘しているほどである。あえて百科辞典の記述を引用したのは、、それほどまでに暗殺説が定着している証だからである。
官中の密室殺人。しかもその密室は「藤原」の自宅のような場所であった。なぜなら、近世の公家はそのほとんどが藤原系だからだ。すなわち、この暗殺事件には、藤原が大きくかかわっていなければなしえないのである。このように天皇は長い間、藤原の私物であった。天皇をいかに操ろうが、藤原の買ってだったのである。近衛文麿の不遜も、その根源は藤原の歴史の中に隠されているのである。近代にいたっても、藤原による天皇家支配は続いた。明治天皇、大正天皇の皇后は、ことごとく藤原氏の女人であり、昭和天皇の皇后も藤原の血をひいていたから藤原による皇室支配は近代に引き継がれたのである。したがって、今上天皇が藤原とは無縁の美智子妃を選ばれた時、藤原氏の末裔は少なからず衝撃を受けたはずである。美智子妃が官中で散々嫌がらせを受けたという話はワイドショー的であまり詮索はしたくないが、その理由も「藤原と天皇家」の歴史を念頭におかなければ理解できるものではない。その点、今上天皇のご行動はご本人が意図的に選択されたかどうかは別として、歴史的な意味を持っていたのであって、またあ、多くの妨害があったであろう中での英断は、たたえられるべきものなのである。
謎に包まれた藤原氏の出自
藤原市最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、いまだに出自がはっきりしていないということである。少し歴史に詳しい方なら「日本書紀」の神話に中臣氏の祖神が登場するのだから出自は明白ではないかと思われるかもしれない。中臣氏の始祖は神話の中に見出すことができる。「日本書紀」神代上(かみのよのかみのまさ)大七段本文には、天照大神の天の岩屋戸神話があり、そこで中臣氏の祖神が大活躍をしている。
天照大神は不審に思った「私が岩窟に籠ったのだから、豊芦原中国は、かならず闇夜のはずなのに、なぜ天鈿女命(あまのうずめのみこと)は楽しそうに踊り狂っているのだろう」 そういってためしにと、磐戸をそっと開けてみた。その時待ち構えていた手力雄神が天照大神の手を取り、天石窟から引きずり出したのである。ここで中臣神・忌部神が端出之縄しりくめなわ(注連縄しめなわ)を引き渡し、「もう二度と中に戻されますな」と告げたのである。
こうしてみてくれば、日本でもっとも権威のある神・天照大神の天の岩屋戸隠れで、中臣氏の祖神・天児屋命が重要な役割を負っていたことがわかる。中臣氏の正統性は正史の中で証明されていたのである。では何が問題になってくるかというと3点挙げることができる。まず第一に、中臣鎌足の登場まで中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。第二に、その中臣鎌足も何の前触れもなく、唐突に歴史に登場する。しかも正史「日本書紀」を読んだかぎりでは、中臣鎌足の父母さえはっきりしない。第三に、中臣鎌足の末裔の藤原氏は、どういう理由からか、中臣鎌足は常陸国の鹿島からやってきたと捉えていたふしがある。正史日本書紀の中で証明された正統性をなぜ自ら疑ってかかったのか、説明がつかないのである。
歴史時代の中臣氏のさえない活躍
日本書紀の中で中臣鎌足以前の中臣氏のめぼしい行動を拾い上げていってみよう。神武即位前紀には、菟狭国造の祖・菟狭津媛が中臣氏の遠祖・天種子命の妻となったという話がある。垂仁天皇紀25年春2月の条には、5人の大夫の名が連なり、その中に中臣連の遠祖・大鹿島の名が見える。神功皇后が中臣烏賊津連らに仲哀天皇の崩御を秘匿するように命じる場面。日本書紀の記事は伝説の域を出ていない。6世紀の段階に入ると生々しい権力闘争の中に、中臣氏が登場してくる。欽明天皇紀13年10月には、仏教を導入しようと朝廷に働き掛ける蘇我稲目に対し、物部大連尾輿とともに中臣連鎌子(中臣鎌足とは別人)が、仏教を蕃神と罵りもし仏教を取り入れればおそらくは国つ神の怒りを買うに違いないと抗議している。敏達天皇紀14年3月の条には仏教をあがめようとする天皇に対し、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫が次のように奏上している。「なぜ陛下は我々の言葉をお信じになられないのでしょう。欽明天皇の御世より陛下の世にいたるまで疫病はちまたにはやり、人々が絶えてしまおうとしております。これはすなわち、蘇我臣が仏教を広めているからにほかなりません。」 こうして崇仏派と廃仏派の衝突が始まり、同年6月、物部弓削守屋大連や中臣磐余連は寺を焼き、仏像を捨てたと記す。舒明天皇即位前紀には、推古天皇の崩御を受けて、次期後継者問題が浮上する中、中臣連弥気なる人物が、蘇我蝦夷を推す田村皇子の即位に同意する発言を行っている。ここに現われる中臣連弥気は『新撰姓氏録』に中臣鎌足の父とある御食子と同一であろう、と考えられている。神代の大活躍が嘘であったかのように、中臣氏の記述は地味で目立たない。6世紀、排仏派としての中臣氏がクローズアップされるにすぎない。また、古事記にいたっては神話をのぞいて中臣氏はいっさい姿を見せないのである。
中臣鎌足の初出は皇極3年(644年)の神祇伯抜擢記事であった。ただ、ここで中臣鎌足はまったく前後の脈絡なく登場している。後世の大織冠伝や中臣氏系図の中で、中臣鎌足の父は御食子と明記されているにもかかわらず、なぜ鎌足の系譜ははっきりと示されなかったのであろう。大織冠伝では中臣鎌足はヤマトの高市郡の人で天児屋命の末裔であること。御食子の長子で、母は大伴夫人といい、推古34年(622年)に藤原で生まれた。大織冠伝は奈良時代後期の政治家・藤原仲麻呂の手で編纂された760年前後の歴史書である。一度没落した藤原氏を復興させ、独裁権力を手中にした藤原仲麻呂が藤原氏の正当性を喧伝し、自家の「輝かしい歴史」を後世に書きとどめようとしたのが大織冠伝だったわけだ。日本書紀は720年に編纂された。藤原不比等が確固たる政治体制を固めた時代だった。とするならば日本書紀は藤原氏の正当性、正統性を主張するために書かれた歴史書とみて見て間違いない
後世の藤原氏は中臣鎌足が常陸国の鹿嶋からやってきたのではないかと考えていた節がある。平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』には、次のようにある。ちなみにこの物語は藤原道長をはじめとする摂関家を列伝風に記したものである。大鏡は中臣鎌足はもともと常陸国の人だったというのである。さらに中臣鎌足出現以来、中臣の氏神が祀られる鹿島神宮には歴代天皇が即位されるに際し、必ず御幣の使いが出されてきた、と記録している。そして都が平城京に遷ってからは、鹿嶋は遠いので、都の東側の三笠山に勧請し、春日明神として祀るようになった、とする。この記述だけをもって藤原氏自身が中臣鎌足の出身を常陸と考えていたと決めつけることはできない。奈良時代、藤原仲麻呂が関わった大織冠伝には、自家の祖を日本書紀同様神代の天児屋命であったと主張している。ところが奇妙なのだが、藤原氏が祀る奈良の春日大社には、常陸の鹿島神宮と下総の香取神社の神が勧請されている。しかも、東国から招かれた二柱の神が藤原氏の祖である天児屋命よりも厚く丁重に祀られているのである。
中臣氏の出自をめぐる2つの仮説
第一の仮説 大鏡による常陸の国の鹿嶋説
 なぜ日本書紀がせっかく構築した天児屋命の末裔とする図式を無視する必要があるのか。
第二の仮説 大阪東大阪市の中臣氏の末裔説
 春日大社に鹿嶋と香取の祭神を勧請したという説明がつかない。
第三の仮説として
平安初期大同2年(807)に記された『古語拾遺』である。8世紀から9世紀、他の豪族を圧倒する藤原氏に対し、官人・斎部広成は中臣氏の祭祀独占に噛みつき古語拾遺を記した。平安初期にいたり、いくつかの古伝承やしきたりが失われたことを指摘し、御歳神の古伝承を付け加え、斎部広成自身の恨みとは、本来神道祭祀の同僚であった中臣氏が斎部氏を従者のように従えていることだという。大化の改新以来、中臣氏に権力が集中してしまったのだ。この結果、天平時代、神帳(各地の祭祀の実態を記録した帳簿)を作った時は、中臣氏が権力に任せ、小さな神社でも縁のあるものは取り上げ、大きな神社でも中臣氏と縁の無いものは切り捨てられたという。八世紀後半になると、中臣氏は勝手に奏上する詞を改変し、自家に有利な働きかけをし、斎部氏を従者に仕立て上げてしまった、というのである。
中臣氏が天皇家の三種の神器の一つ、草薙の剣を軽視し、ろくに祀りもしなくなってしまったと憤慨していた。なぜこのようなことになってしまったかといえば、おそらく、黒作懸偑刀を藤原不比等が持ち出したことと無縁ではなかろう。黒作懸偑刀の話は『東大寺献物帳』に載っている。それによればはじめ持統天皇の皇子・草壁が常に持ち歩いていたこの刀を、草壁皇子は藤原不比等に賜ったのだという。草壁皇子の死後、持統天皇が即位し、さらに草壁皇子の子・文武天皇の即位に際し、不比等はこの刀を献上した。慶雲4年(707)文武天皇崩御に際し、ふたたび黒作懸偑刀は不比等に下賜され、そして不比等は、首皇子(聖武天皇)に献上した、というのである。まるで黒作懸偑刀こそが草壁から孫の聖武に至る、皇位継承のレガリヤであるかのようだ。
藤原氏と神道祭祀にもっとも近い一族なのであれば、過去の権威を否定するような小道具を用意したのであろうか。藤原氏は本当の「神道」から疎外されていたのではあるまいか。本当の神道とは物部と出雲の作り上げた信仰形態である。中臣鎌足は、忽然と日本書紀に姿を現した。無位無冠の人間がなぜいきなり神祇伯抜擢という僥倖を得たのだろう。超一流の豪族・物部氏と密接な関係にあり、だからこそ朝廷の祭祀と深くかかわっていたこの一族はなぜ物部氏との因果を日本書紀の中で否定しまったのであろう。結論を先に行ってしまえば、中臣鎌足は、当時朝鮮半島の百済から人質として来日していた、百済王・豊璋その人ではないかと筆者は考えている。
【民族意識系】
2013.01.21|民族世界地図 1/2
2012.11.12 もっと知りたいインドネシア 2/3 ~地理と民族
2012.10.05|宋と中央ユーラシア 4/4 ~ウイグル問題
2012.04.25|美しい国へ 2/3 ~平和な国家(国歌)
2011.08.17: 実録アヘン戦争 1/4 ~時代的背景
2011.05.09: 日本改造計画1/5 ~民の振る舞い
2011.03.25: ガンダム1年戦争 ~戦後処理 4/4
2010.09.09: ローマ人の物語 ローマは一日して成らず
2010.08.02: 日本帰国 最終幕 どうでも良い細かい気付き
2009.08.20: インド旅行 招かれざる観光客
2009.08.14: インド独立史 ~東インド会社時代
2009.05.04: 民族浄化を裁く 旧ユーゴ戦犯法廷の現場から
2009.02.04: 新たなる発見@日本