「日本書紀は嘘ばかり」というのを全編を通じて感情的に叫び続けており、最後のほうはあきれて飛ばし読みしたが、一応メモ程度に記録を・・・
文字文章はあった
神武天皇から仁徳天皇までの16代間を調べるのにどうしたらよいか。古事記、日本書紀以前の正確な資料はないか。そこまで考えて、古事記、日本書紀がいつ書かれたのかを調べたら、「なあーんだ」と馬鹿らしくなってしまった。古事記ができたのが712年、日本書紀は720年ではないか。聖徳太子が憲法17条を書き、日本に法律ができたのは、古事記や日本書紀より100年も前のことである。中国から仏教が渡ってきて、日本人が紙に筆でお経を写すようになったのは、さらに170年も前のことである。朝鮮から王仁博士が、千字文一巻、論語十巻を持って来て、儒教を教えたのは、何と古事記よりも300年も前ではないか。「魏志倭人伝」には卑弥呼女王時代文字があったこともはっきり記されている。それから数えたら500年である。少なくとも王仁博士渡来以後、古事記を書くまで300年もあった。その300年間に書いた資料などは、無理に探さなくても日本中どこにでもあるはずだ。調べているうちに、どうもその時の資料が皇室関係に今でも残っているらしい。そういう感じを受けた。というのは、皇室で現在色々行事をやっておられることは、日本書紀や古事記とは関係がなく、正しい歴史できちんとされておられることがわかった。しかし、これを貸してくださいと言っても無理だろうし、その線で私が調べることはできない。そうすると、ほかの日本中のどこにそういう記録があるだろうかと考えて、結局は神社には何かあるのではないか、少なくとも古事記以前、西暦712年以前、あるいは日本書紀十巻の応神天皇の項まで書き上げた持統天皇の時、以前に存在した日本の神社には、何か残っているのではないかということが、私の研究のもとになった。
712年以前に日本にまつられていた神社はおそらく3000から5000ぐらいあったのではないかと思われる。私のところで捜し出せたのは1631社だった。この神社に大体次の項目を当てはめてみた。
(1)いつ建てたのか、(2)誰をまつってあるのか、(3)誰がまつったのか、(4)どういう理由でまつったのか
日本に非常に多い八坂神社とか、熊野神社とか氷川神社とか三輪神社、賀茂神社、日吉神社、琴平宮、あるいは稲荷神社とか、神武天皇以前の人をまつった神社がたくさんある。それらを分類してみると、出雲系の素佐之男(すさのお)の一族をまつったのが大体8割ぐらいで、九州の高天原族、いまの天照大神、昔の大日霊女(おおひみこ)、それが女王になってから大日霊女貴尊(おおひみこむちのみこと)と申し上げた、九州の高天原族(たかまがはらぞく)の系統の神社は大体2割ぐらいしかない。そのどちらにも入らないというのは全体の1%ぐらいだった。
日本書紀は天武天皇の時、編集長1人、編集員12人、書記1人の14人に命じて勅令で書かせた本で38年かかってできた。その日本書紀が応神天皇の項まで書き上げた持統天皇の時に、ウソ八百の創作の歴史を書いて、それでもどうしてもごまかしきれないところは御伽噺のような神話形式にしてごまかした。そのウソ八百ででっちあげたもののばれることを恐れて、神社の古文書を二社取り上げ、あるいは本当のことを書いてあったと思われる系図を16家取り上げて没収した。691年のことである。それが残っていたら自分達の書いたウソがばれるということで、二神社、16家の系図を没収して抹殺してしまったという資料をつかんだ。
> だからどこにあったんだよ? それ漢文なのかよ? お前読めたのかよw
朝鮮経由の文化
一般に日本の文化や経済は、大陸から朝鮮を経て渡来したように考えられているが、調べてみると朝鮮をへてきた時代はごく短くて、分量としても極めて少ない。素佐之男時代は、出雲から北鮮、北満ルートだったし、南のほうも鹿児島湾、揚子江下流ルートだった。朝鮮半島の南部には韓民族という異民族がいて、この民族は必ずしも早く大陸文化を吸収してはいなかった。北鮮に続いている満州も、中国の漢民族ではないので、いわゆる中国の文化は陸続きには入ってこなかった。西暦前100年頃、前漢の武帝に支配された頃から平壌を中心に漢文化がひろまったのが半島文化の歴史である。従って、半島の文化はそんなに古いものではなく、あるいは出雲地方のほうが早かったのではないかとも考えられる。
日本の歴史はどの辺りからはじまったのか。出雲のスサノオノミコト(素佐之男尊)からはじまったと見るのが正しいようである。それまでは水の湧き出る盆地や川の傍に人が住む集落ができて、そこに村長のような支配者がいあるといった形で全国に大小何千と存在したと思われる。素佐之男尊は大体、西暦121年か2年頃に生まれている、いまの天照大神の日向のオオヒミコノミコト(大日霊女尊)が生まれたのは、それから32年くらい後で、西暦153年か4年頃と思われる。素佐之男の第5子で大和の国王になったニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と大体同時代に生まれている。素佐之男は出雲国沼田(ぬた)郷で生まれた。現在の島根県の平田市平田町である。この沼田郷は古い書物に「爾多」という字を使ってあり、堤防のできない以前は川幅があの辺りまで広かったのだろう。素佐之男の父はフツ(布都)といった。フツというのは蒙古、満州系の名前で、素佐之男の本名はフツシ(布都斯)で素佐之男は通称だった。

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