Chapter10. ベア・マーケット 1970-1981
「私はアメリカドルを二度と再び、国際投機家の犠牲にはさせまいと決意している」 リチャード・ニクソン
ブレトンウッズ体制の崩壊
ウォールストリートが弱含みの株式市場や金利の上昇を克服しようと頑張っているとき、国際経済に大きな問題が持ち上がった。ドルの通貨価値の問題はアメリカ国内では1960年代半ばまで忘れ去られていたが、ドイツマルクや日本円の通貨価値が高まり始めると、ブレトンウッズ体制下での各国通貨間の強弱関係が表面化してきた。イギリスポンドが通貨価値を下げ、それにともなってポンドの平価切り下げが一度ならず実施された。アメリカドルも国際収支の問題があり、この件で無関係ではなかった。国際通貨体制ではドル支配が25年間続いてきたが、アメリカの金利上昇と財政赤字がドルにマイナスの影響を及ぼし始めていた。
ニクソン政権はベトナム戦争の影響による物価の高騰を鎮める方法について何ヶ月にもわたって国民に言葉を濁し続けていた。そうした時期に、この金融事件はニクソン政権が打ち出した反インフレパッケージとして表舞台に出てきたのであった。投資銀行やブローカーは固定手数料の廃止問題や資金調達に神経を集中していたから、この国際舞台で起ころうとしていた金融事件に気づかなかったのも無理はなかった。
1971年8月15日、外国為替トレーダーたちが最も恐れていた爆弾発言を投げかけた。ドルの金への兌換を停止し、ドル平価を切下げるというのである。狙いは輸入品の価格を高くし、輸出品の価格を低くしようというところにあった。アメリカ国内では当初、ドル平価の切下げは給与や物価の統制に比べて、それほど深刻なこととは認識されていなかった。ニクソン演説の翌日、ウォールストリートでは株価の高騰が起こった。ダウ指数は32ポイント上がって889で引けている。しかし、海外の投資家達のドル平価切下げに対する認識は違っていた。彼らは厄介なことになったと判断しドルを売り始めたのである。外国為替市場は大混乱となり、この不安定な混乱は1年半にわたって続いていくことになる。その後、主要国の通貨は変動相場制を採用することになり、金本位制が放棄された。伝統主義者たちは変動相場制に移行して20年経ってもこの国際通貨システムについて嘆き続けていた。1991年フォーチュン誌は変動相場制20周年に関して「いまだに高いツケをわれわれに支払わせ続けている、半端な決断が行われた惨めな記念日」と書いている。
投資の世界は1970年代、小規模な変革は経験してきたが新種のミューチュアルファンドが金融界に与えた動揺は大きなものだった。当時、新種のミューチュアルファンドが売り物にしていたのは投機的な利益を前面に打ち出したものではなかった。名前からして、当時、さかんに購入されていたファンドのような魅力には欠けていた。ところがこの新種のミューチュアル・ファンドは数年間で何十億ドルという小口投資家たちの新規投資を誘い出し、銀行システムの安定を脅かし始めたのである。その新種のミューチュアルファンドとは、マネーマーケットミューチュアルファンド(MMMF)のことである。集まったファンドの資金は短期財務省証券やコマーシャルペーパーなど、短期資金市場の商品のみ投資されるようになっていた。MMMFの金利は当時の銀行金利よりも高く、1970年代を通して上がり続けた。当時、FRBが預金金利の率をレギュレーションQで制限していたので、銀行預金の魅力は色褪せ始めていた。そうした時期、MMMFは最近の利回りを広告するだけで現金が集まってきたのである。
> うーむ、確かにこれは革命的商品だ。中期国債ファンド(チュウコクファンド)、公社債投信、MMF、MRF。これはすげー商品だ。銀行預金する意味がわからんからなぁ。
Chapter11. 合併狂 1982-1996 (最終章Chapter11って何か嫌味でも言いたかったのだろうか?)
ルール415 企業が資金調達の必要性を事前に登録することを許可した。こうしておくと企業が資金を必要とした時、投資銀行にすぐに新規募集を組織させることができる。企業から指名を受けたい引受業者は一歩進んで証券を全額買い取ることに同意し、約束を交わしてからシンジケートを組織することになった。
新しく導入されたルール415は、ウォールストリートに日本人投資家達を引き寄せた。日本人投資家たちは1980年代からユーロ市場で存在感を示していたが、この時期ついにウォールストリートに進出してきたのである。日本人投資家達はロンドンで成功を収めていた。資本金が世界最大規模の証券会社である野村證券はユーロ市場に登場して数年も立たない間に債券引受の主幹事の座をドイツ銀行やCSFBと競うまでになっていた。野村證券がウォールストリートに姿を見せたとき、ウォールストリートの反応は冷たかった。野村證券はニューヨーク市場では、ユーロ市場のときほど容易には主幹事の座を奪い取ることができなかった。アメリカの証券会社と顧客とのつながりが予想以上に強かったのである。
ジャンクボンド市場が生まれたとき政界が登場してきたが、最高のタイミングだった。レーガン大統領が1982年、銀行法の規制を緩和すると発表したのである。結果、ガーン・セントジャーメイン法によって銀行や貯蓄金融機関、貯蓄貸付組合(S&L)も企業債券を買うことができるようになった。1980年に成立していた法律の条文を拡大したもので、銀行と証券分離したグラス・スティーガル法の成立以降初めての改正だった。
イギリスや日本などの海外の投資家達がアメリカの企業株を買い始めた。NASDの報告によるとこれらの投資家達はIBMやイーストマン・コダック、ジョンソン・アンド・ジョンソンなどの優良株を好んでいた。しかし、インフレはアメリカの産業界を大いに苦しめていて、企業株の多くは額面を下回っていた。こうした安価な企業群がM&Aの標的となった。過去8年のインフレによって、新規事業をゼロから起こすのはコストが高くつき、既存の企業を買収したほうが安上がりだった。結果、M&Aブームが起こった。M&Aブームの主役は投資銀行だった。ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレー、ファースト・ボストン、メリルリンチ、リーマン・ブラザーズ、ソロモン・ブラザーズなどのトップバンクである。1980年代、乗っ取りのスペシャリストたちは標的とされた企業から恐れられていた。攻撃的なグリーンメーラーだったカールアイカンは物腰は柔らかかったが、ハマーミル・ペーパーやタッパン、マーシャル・フィールド、フィリップス石油などの企業に接近して1億ドル近くを手にしている。オクラホマ生まれのトーマス”ブーン”ピケンズは、自身が経営していたメサ石油会社を使って遠慮会釈ない態度でシティズ・サービスやジェネラル・アメリカン・オイル社の株を取得し、これらの株をそれぞれに企業に買い取らせて1億ドルを稼ぎ出した。合併のスペシャリストが労働者の首切りをおこない、買収された企業の労働組合に大きな犠牲を強いたケースもあった。1985年のカール・アイカンによるトランス・ワールド・エアラインの乗っ取りでは労働組合が潰されている。
【金と金融の意義】
2012.05.08|銀行の戦略転換 1/2 ~メインバンクは劣後ローン
2012.03.28: 金融史がわかれば世界がわかる 1/6~銀本位制から金本位制
2011.09.30: 幻の米金貨ダブルイーグルめぐる裁判
2011.03.04: マルサの女 名シーン名台詞特集 2/3
2010.11.26: 初等ヤクザの犯罪学教室 ~銀行強盗成功のための傾向と対策
2010.09.28: 世界四大宗教の経済学 ~キリスト教とお金
2010.08.16: 株メール Q2.企業業績とは何か?
2010.07.09: 資本主義はお嫌いですか ~大ペテン師 ジョン・ロウ
2010.02.09: デリバティブ理論講座のお題
2009.12.30: 金融vs国家 ~金・金融の意義
2009.10.22: お金と人の行動の法則
2009.08.28: インド独立史 ~ガンディー登場
2008.10.10: あなたが信じているのはお金だけなの?
1 Response to ウォールストリートの歴史 8/8 ~ニクソンショック
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