巨大な木馬の話はイリアスではなくオデュッセイアに現れる。木馬の経略に関する逸話はオデュッセイアでも間接的かつ部分的に披露されるに過ぎない。木馬をめぐるエピソードの全容がどこで直接的に詳述されたかというと、すでに散逸していて今はもう読むことができない二篇の叙事詩で語られていた。すなわち木馬の考案と建造は「小イリアス」で奇襲攻撃の遂行は「イリオスの陥落」で伝えられていたのである。これらの作品は「叙事詩の環」に属している。叙事詩の環とは、いくつかの伝説圏に属する叙事詩グループの総称である。複数の伝説圏のうちで最も代表的なものがトロイア圏であり、トロイア圏の叙事詩の環には6篇の叙事詩が含まれ、それらはトロイア戦争に関する一連のさまざまな伝説を扱っていた。またオイディプスの物語のようにテーバイを舞台とするいくつかの伝説を題材とした叙事詩はテーバイ圏の叙事詩の環を構成していた。トロイア伝説の全体像は、トロイア圏の叙事詩の環の6篇の叙事詩に「イリアス」と「オデュッセイア」を加えた合計8篇の作品によって明らかになる。そのうち現在でも残っているのは「イリアス」と「オデュッセイア」だけであるが、二大叙事詩篇で扱われるのはトロイア伝説の一部分にすぎない。伝説中の人物の相関関係や錯綜した膨大な逸話が逐一詳述されるようなことはなく、物語は聴衆や読者が伝説の全貌を了解しているという前提で語られる。したがって伝説の全容を熟知していた古代人とは異なり、現代に生きる私たちには、ホメロスの二大叙事詩からただちにすべてを理解するのは難しい。そこでトロイア戦争の前史と攻防戦の戦後史の細部を補い、伝説の全貌を知る上で貴重な情報源になるのが叙事詩の環である。トロイア圏の叙事詩の環を年代順に並べると、キュプリア、アイティオピス、小イリアス、イリオスの陥落、帰国物語、テレゴニアとなる。イリアスで語られる事件は、最初から二番目、つまり「キュプリア」の内容の次に起こり、オデュッセイアで展開される出来事は、最後から二番目、「テレゴニア」の内容の前に起こる。
叙事詩の環の劈頭を飾るキュプリアでは、戦争前史から遠征隊のトロイアでの布陣までが語られる。トロイア王時パリスがヘレネを連れ去ったためスパルタ王メネラオスは妻の奪還を目指し、兄のミュケナイ王アガメムノンを総帥として遠征軍を結成する。次にイリアスではトロイア戦争を扱い、遠征10年目の50日ほどの間のさまざまな出来事を、アキレウスの怒りを主題に描く。トロイアの守り手ヘクトルの葬儀の場面で「イリアス」は終わる。その後、「アイティオピス」が戦地でのさらなる攻防を語る。この題名はエチオピア(ギリシア語でアイティオピア)の王メムノンが援軍としてトロイアに駆けつけたことに由来する。この作品ではアキレウスの死も語られ、彼の葬礼やその遺品をめぐる内紛なども記されていた。これに続く小イリアスはこの内紛の悲劇的な結末を伝えると共に、アテナ女神の支持による木馬の建造を語る。これに続いてイリオスの陥落が木馬による奇襲攻撃とトロイアの滅亡を伝える。イリオスはトロイアの別名である。帰国物語は、遠征軍の故郷への旅をつあえているが帰還は困難なものになる。オデュッセイアの主人公オデュッセウスも苦難に満ちた漂流を余儀なくされる。テレゴニアは、オデュッセウスと女神キルケの間に生まれた息子テレゴノスに由来する。この叙事詩ではテレゴノスが誤って父を殺害する経緯が語られていた。
では最後だから重要な創世記の系図を載せておこう。
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