ギリシア神話は意外なところでわたしたちの身のまわりに息づいている。例えば、晴れた夜空。見上げれば星座は神話の宝庫である。木星は太陽系の中で飛びぬけて大きい惑星である。古代の人々が木星に付けた名は最高神ゼウスであった。その英語ジュピター(Jupiter)は、ゼウスのローマでの名称ユッピテル(Juppiter)に由来する。木星以外の太陽系の惑星や個々の惑星の衛星も、そのほとんどすべてがギリシア神話から命名されている。ただ例外的に天王星(それ自体はウラヌス、ゼウスの祖父)の衛星の名称だけはシェイクスピアとポープの作品の登場人物に由来する。例えば天王星の最大の衛星はディスタニア。その次に大きい衛星はオベロンで、いずれもシェイクスピアの『夏の夜の夢』に登場する妖精の女王と追う名である。そのほかにも『ヴェニスの商人』のポーシャ、『ハムレット』のオフィーリア、『ロミオとジュリエット』のジュリエットなど、シェイクスピア劇でおなじみの名前の衛星によって天王星は取り巻かれている。ギリシア神話に起源を持つ名前が採用されたのは、後代に発見された天体だけではない。宇宙船や探査機で、人類初の有人月面着陸を果たした宇宙船アポロは、周知の通りギリシアの神アポロンにちなむ。金星の地図作成に関わった探査機パイオニア・ヴィーナス号は、金星の名であった美の女神アプロディテ(英語でヴィーナス)に由来する。1990年打ち上げ以来ずっと太陽を極軌道上から観測している探査機ユリシーズ(Ulysses)の名称は、オデュッセウスにさかのぼる。古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスは、ラテン語で方言形のウリクセス(Ulixes)になり、ルネサンス時代になると人文主義者たちがもとのギリシア語に近いウリセス(Ulysses)に変え、さらに17世紀以降、英語に借用されてユリシーズになった。ウリセスと聞けば、昆虫マニアなら、オーストラリアやインドネシアに生息するオオルリアゲハ(学名パピリオ・ウリセス・ウリセス)を連想するだろう。あるいはユリシーズからは20世紀の代表的小説であるジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)が想起されるかもしれない。
最初の名刺代わりにしては、いきなりハードなおたくパンチだが、天体、宇宙観測、そして昆虫と男のロマン目白押しだな。男同士の会話のお洒落なアクセサリーとしてギリシア神話を語りましょう。
哲学者プラトン(前427-前347)が音楽を教育課程に入れたように、古代ギリシア文化における音楽の比重は大きく、音楽関係の近代語にもギリシア神話や言葉に由来するものが多い。そもそも英語のmusicやドイツ語のMusikあるいはフランス語のmusiqueなど、近代ヨーロッパ諸語における音楽という言葉は、ギリシア神話の女神ムーサ(Mousa)に由来する。ムーサは九柱からなり、音楽だけではなく詩歌や舞踏、演劇、哲学、歴史、天文など芸術・学問全般をつかさどる女神たちである。そしてムーサの神殿を意味するギリシア語のmouseionがラテン語でmuseumとなり、さらにそれが近代の美術館、博物館になった。最古のオペラは、1594年初演のプロローグ付き一幕物の『ダフネ』である。カメラータに属するオッタヴィオ・リヌッチーニがその台本を書き、ヤコポ・ベーリが曲をつけた。『ダフネ』の基になったのは、ローマの詩人オウィディウス(前43-後17頃)の『変身物語』第一巻の中のエピソードである。ギリシア神話の神アポロンが河の神の娘ダプネに恋心を寄せたが、少女は神の求愛を斥けて懸命に逃げた。ついにダプネが父親の河の神に助けを求めると、彼女の体はたちまち月桂樹に変身した。この話は、多くの彫刻家や画家や詩人たちに芸術的霊感を吹き込んだ。
ほっほぅ、って話だよな。言語学、語源の話はけっこうおもしろいね。歴史と言語の関連を見るようで。
ギリシア神話とは一体何か。これまで多くの定義が提案されてきたが、万人が納得するような定義はまだない。古典学者のなかにはカークのように、「神話に関してすべてに妥当する定義、一枚板の理論、すべての問題と不確実性とに応えうる単一の名答などはあり得ない」と断言する人もいるくらいである。

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