「年老いた子連れの母猿が濁流に呑まれたとしよう。泳げないほどの幼い小猿と泳げる小猿とを連れていた。どっちを助ける?」
「小さい方さ、大きいのは泳げるんだろう?」
「ところがね、母猿は迷わず大きい方を助けるんだよ。何故か。母猿にはもう生殖能力がない。小さい子猿は生殖能力を得るのに時間を要する。種を保存する上で、一番適切なのは大きい方の子猿なんだ。生物の母性とはそういうものだ。危険を冒して小さい猿を助けても自分を含めて生き残れるかどうかわからない。しかし大きい子猿ならその確率は格段に高い。個体の愛情は遺伝子の命令に勝てはしない。いや猿はそもそも人間の言うのところの愛情なんてものは持ち合わせていない。それが生物として当たり前のことなんだ。だが人間は違ってしまった。種を保存することが唯一無二の目的でなくなってしまったんだ。それを文化と呼ぶか、知性と呼ぶか、人間性と呼ぶか、それは勝手だが、とにかく万物の霊長の奢りは、もう一つの価値を構築してしまった。これが同じ方向を向いているうちはいい。しかしまったく逆の方向を向いた時、我々は戸惑ってしまう。そしてそのズレを埋めるために怪異は存在するのだ」
「久遠寺といえば、ご城下でこそ御殿医とかいって名家ぶっていたが、出身の村では所謂、村八分だったという。つき合うものも少なく、婚姻など絶対にしないから親戚もいない。その理由が憑物筋だ。」
「憑物筋とはいったい何なんだ?この辺で言うオサキが憑くとか狐が憑くのと同じなのか?」
「ちょっと違うかな。憑物筋は憑くんじゃなくて、憑かせる。つまり憑くものを使役する家系。”オサキ持ち”とか”飯綱使い”とかいう術者が、血統として受け継がれると考えればいい。この家系の人は、他人にモノを憑依させて不幸にしたりする訳だ。共同体の中では当然忌み嫌われる。婚姻したりすると筋の血統を受け継ぐことになるからこれは厳しい禁忌とされる。」
「そんな不条理なことが実際にある訳がない!いずれにしても旧幕時代の遺物だろう?まさに迷信だ!」
「関口君、残念だが君は認識不足だよ。憑物筋の習俗は今も根強く生きている。これを無視することはできない。憑物筋というのは民族社会におけるひとつの装置だ。共同体内に不可解な出来事が発生した場合、それを解決する手段として設定されている民族装置なんだ。鬼の出自が異常出産でならなければならなかったように、村内の不幸は憑物筋のせいでなくてはならないわけだ。僕はね、共同体に経済という新しい価値が導入されたことが要因となって発生した民族装置が憑物だと考えている。それまで”富”はイクォール収穫だったから、共同体はそれこそ良いも悪いもその名の通り運命共同体だったわけだ。しかし貨幣の流通が一般的になると、共同体内部の富の分配が均等でなくなる。つまり同じ身分の中で貧富の差が生じてしまう。するとその差をなくす装置が必要になる訳だ。そこで人々は大昔から連綿と伝えられて来た神憑りの方式をそっくり戴いて憑物というものを創り出した。受け入れがたい現実-非日常を理解するには格好のものだったんだ。」
「呪いというのは、この世に本当にあるものなのか?」
「呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。何の意味のない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉こそ呪術だ。プラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪うという。呪いは言葉だ。文化だ。」
「文化論を聞きたいんじゃない。相手を呪い殺したり、不幸にしたりする所謂呪いが有効かどうか訊きたいんだ」
「少なくとも共通の言葉や文化を持つ集団の中では確実に有効だよ」
「超自然的な力が働くのか?」
「そんな馬鹿馬鹿しい力は働かないよ。呪いはいうなれば、”脳に仕掛ける時限装置”のようなものだ。まあ-解らんだろうな」
不倫は文化だ。って名台詞もありました。
座敷童子というのは家の盛衰、富の偏りを説明するという機能をもっている。これは実に憑物の持つ機能とまったく同じだ。ここで着目すべきなのは、座敷童子は家にいるときは気配だけで出ていくときに目撃されるという性質を持っていることだ。目撃譚の多くは家人以外の者によって語られ、それは家を出るとき、即ち家が滅びた時のものだ。つまりそもそも座敷童子は今まで栄えていた家- 多くは成り上がりの余所者なのだが - それらの没落した理由として語られてきたものなのだ。それが遡って、過去家が栄えた理由としても機能するようになる。今まで富を運んできたのは座敷童子というモノである、と考えた訳だ。その考え方が定着して初めて、今栄えているのは童子がいるからだ、という現在進行形の座敷童子が発生する。つまり座敷童子は本来出て行くことで憑物と同じ機能を果たす民族装置であったことが解る。
久遠寺家が憑物筋と考えられるようになった原因を考えていましょう。勿論陰陽道の丈夫という特殊な家系であったことの影響もある。だがそれ以上に富の偏りが大きな原因としてあったのではないかと僕は推測しています。民間伝承には異人殺しというモチーフがあります。訪れた余所者を殺し、財産を奪った結果家が栄える-しかしそのために代々祟りを受けるというものです。しかし、これは単なる誹謗中傷ではない。根も葉もない噂は伝承として定着しません。長い間語り継がれるには、共同体内部の論理に合致した説得力が必要なのです。
まさに宗教がそれだな。
地域の民族社会にはルールがある。呪いが成立するにも法則がある。民族社会では呪う方と呪われる方に、暗黙のうちに一種の契約が交わされている。呪術はその契約の上に成り立っているコミュニケーションの手段です。しかし、現代社会ではその契約の約款が失われてしまった。更に共同体の内部では呪いに対する救済措置もきちんと用意されている。努力した結果の成功も憑物の所為にされる代わりに、自分の失敗で破産しても座敷童子の所為にできる。都市にそんな救済措置はありません。あるのは自由・平等・民主主義の仮面を被った陰湿な差別主義だけです。現代の都市に持ち込まれた呪いは、単に悪口雑言罵詈讒謗、誹謗中傷の類と何ら変わらぬ機能しか持たないのです。
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