もう、いまからは蘇我の土地も曾禰の土地もなくなるのだよ。大伴の兵も中臣の民もなくなるのだ。この大和の国のものになる
ということだ。土地も民もすべて国家のものになる。曾禰の里の者でさえ、土地も民も国のものになるということに抵抗をしめ
しているのだから、東国はなにが起きるかもしれないというのである。新任の国司は兵をともなっていない。地方権力を奪い、
土地と民を国家管理に移しかえるのは武力によってではなく、天皇の詔勅、それのみである。鎌足のめざす国家革新の戦略が
いかなるものか、子麻呂はじゅうぶんに理解できていないが、武力をいっさい使わない方針であるのは確かだった。国造、県主
あるいは稲置とよばれる在郷勢力があらたに天下ってきた国司の一行にしたたかに抵抗を見せ始めたのである。
東国と大和六県にたいし、公民、私有民を問わずすべての民の戸籍をつくることが指令され、あわせて田地の調査が行われ
た。このあと古人大兄による吉野の乱が鎮定されると、それを待っていたかのように人口調査が始まっている。
玄理の考えでは、天皇が宣せられる大化改新の第一条は 土地と民の私有を禁止する。これでなければならないと思っている。
すべての土地を天皇が統治する国家の公有地とし、すべての民を天皇が統治する国家の公民とするのである。これこそが大氏
族に支配されてきた大和の国を根本から変えるものであって、この条項なくして大化改新はありえない。そして国家の国民とな
った民は、国家から土地を与えられえ、見返りに税を納める。私民ではなく国民となったからこそ、国家に対する課役、兵役の
義務が生じるのである。
どちらかといえば穏健な考え方に傾きがちな日文からすれば、いかにも過激であり、改革を急ぎすぎているように見えるのであ
る。「私はやはり、太子の十七条の憲法第一条が好きだな。和を以って貴しと為す、大和の国らしくこういうのを第一条に入れ
ないか」といかにも日文らしい案を出してきた。
「そんなことより、隋、唐でいう均田法の仕組みをここで打ち出すかどうかだ。将来こうなるということをはっきりさせるために
条文に入れるべきだと思うのだが、どうだろう」 この点では玄理自身が迷っていた。
土地は公地として、民は公民とする、と宣するのはいいとして、現実にはまだ一片の土地も公地になっていない。大氏族や地方
の有力者がすべてを支配しているのは、蘇我全盛時代からなにも変わっていないのである。そんな現状を無視して、民衆に国家
から農地が平等に与えられる仕組みをいかに述べ立ててもむなしいのではない。
朝廷の重臣で大伴の当主、長徳、国博士へのあいさつということだったがなにやら思わせぶりな現れ方である。大伴長徳といえ
ば、冠位十二階の第二位、小徳をいただく重臣である。今は左大臣、右大臣につぐ第三の地位を占めている。
「内臣の話では、改新の詔が宣せられますと、大伴の有する部民はことごとく公けの民となって、大伴には一兵もあたえてもら
えないということでありますが、事実そうなるのでありますか」
玄理がだまってうなずくと、さらに、
「大伴の有する土地もまた、国のものとなって、大伴には一代の地も残らないとのことでありますあ、やはりそうなるのであり
ましょうか」
「大伴殿に申し上げるが、大化改新とは千年に一度の大改革である。大和の未来はこの改革の成否にかかっているのであって、
重臣の方々は率先してこれを推進していただかねばならない。」
「それはわかっておるつもりである。しかし古来、わが大君を護りたてまつるために有してきた土地と民と兵をとりあげられま
すと、あといかにしてお仕えすればよろしいのか、ということである。
「いうまでもなく、大伴も中臣も皆、官人となって朝廷に出仕することになります。毎日、朝堂あるいは宮廷に出仕して、国家
の人民のためにはたらくわけであります。」
氏族全員が官人(公務員)となるのが、この制度である。
「おききしたいのは、その見返りである。われらにはそのとき土地も民もなく、どうして生計が立てられるのか。」
玄理には、ようやく長徳がこの場に出てきた理由がわかってきた。土地と民をとりあげられた大氏族に対する補償を要求してい
るのである。
「じつをいえば、お二人をまもるため、けさから大伴の兵をこの屋敷に配しております。お二人の命を狙う輩が現れたためであ
りますが、われらから兵をとりあげられれば、こうしたこともできなくなりますぞ」と脅しをかけるように言った。
「その者何が狙いなのだろう」と半信半疑で玄理が問いかけると
「狙いはいうまでもない。国博士お二人を亡きものにして大化改新を潰す、これしかない」と言い切った。おそらくは長徳自身
の胸の内にも、この大改革への疑問がくすぶり続けており、刺客の狙いが心に映る影のようによみとれるのであろうと思われる。
「わかりました。ただし大伴の兵による警戒は解いていただかねばなりません」
「もしお二人をまもれなかったら、大化改新なるものはその時点で潰えますぞ」長徳の脅迫じみた言い方に動ずることなく日文は
「すぐに内臣にこのことをつたえ、大伴の兵にかえて朝廷の部隊を出動させてもらいたい」といった。国家の最高顧問たる国博
士をまもるのは、大和の国の正規の部隊でなければならないという、日文の毅然としたけじめある言説である。
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