究極の兵器 世界制覇の野望をいだく ドイツの原子爆弾研究
自然界に存在する放射性元素のひとつであるウランをピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)の中から発見したのは、ドイツ人のクラプロ
ートという人物で時は1789年のことだった
。時は移り第二次欧州大戦直前の1938年になってウラン235の核分裂を発見し
たのはドイツ物理学会のリーダーでありカイザー・ヴィルヘルム研究所の理事で、後にノーベル賞を受賞するオットーハーン博
士と同じ著名な物理学者フリードリッヒ・シュトラスマン博士だった。大戦2年目、ドイツ軍がロシアの冬将軍にてこずり始めた
1941年になると、兵器局は原子炉の建造によってウラン爆弾の製造が可能ではないかと考え始め、各種の実験を進めること
となった。だが原子炉があったとしてもその先には未知の実験領域があり、その実現は遥か彼方のことと思われていたのであ
る。他方、実験用の原子炉についてドイツの科学者たちは、占領地ノルウェーのリュウカンで合成アンモニア製造の過程から生
産される重水が入手可能だったため、重水を中性子の減速材として用いる原子炉建造を考えた
のである。この間、5つ以上の
研究組織で、それぞれが異なる理論と方式によって原子炉プロジェクトが進展していた。だが、それぞれの組織は秘密の壁に
阻まれて進展状況や結果を知ることができず統一した研究がなされなかった。まもなく原子力研究はハイゼンベルグの
率いるヴィルヘルム・カイザー研究所と陸軍兵器局に所属する研究所に集約されていき、ハイゼンベルグは原子力開発組織
の中でもっとも指導的な役割を果たした。実験計画ではハイゼンベルグと数名の科学者が開発の方向性を決定していたが、
そのテンポは非常にゆっくりとしたものだった。これは科学者たちがヒトラーがたくらむ世界制覇の夢の実現へ、未知の恐るべ
きテクノロジーと兵器をもって手を貸すことに科学者の両親としてのためらいがあったからだといわれている。
恐るべき神経ガス ドイツの化学・生物兵器
ドイツが初めて化学戦を戦ったのは第一次大戦中の1915年2月のことで、ポーランド戦場のロシア軍に対して、15センチ砲弾に
仕込んだキシリル臭化物(窒息性の塩素ガス)を使用した時とされる。だが、厳寒のポーランドの戦場では砲弾内の塩素ガスの固
体粒子が凍結してしまうという問題に直面し、効果をあげることはできなかった。ついで、西部戦線ベルギー西北部の有名なイーブ
ルの戦場では、塩素ガスとマスタード・ガス(イペリット・ガスともいい、油性の液体で肺の損傷と失明や死を招く)が用いられた。しか
し毒ガス散布との連携作戦がうまく行かず戦術的には失敗とみなされ、ドイツは化学戦でさまざまな課題を残すこととなった。信頼
すべきデータによれば一次対戦中の戦死者8,555,290人で、負傷者21,199,467人とされ両軍の毒ガス使用量は125,000トンだっ
た。また毒ガスによる死者は91,198人で重傷者は1,205,655人であり、毒ガスによる死者は1.07%、負傷者は5.69%だった。この
データが示すとおり化学戦の開発には膨大な費用がかかり、かつ毒ガスは決定的な兵器とは言い難く、毒ガス兵器の価値はむし
ろ心理的な面にある
のだと一次大戦後、英国の調査報告書は結論づけていた。
 1930年代半ばのドイツは人口が増大し、国民の食糧供給が最重要事となり、増産のための農業用殺虫剤や除草剤の需要が
高まり、効果的な農薬の研究が行われた
。その家庭でジメチル・アミド・フォスフォロ・シアン化物が発見され、さらに研究を進める
とこれが強烈な神経ガスとなることが分かった。のちにこれはタブン(燐とエステルの化合物)となり、専用の生産工場が設けられ
た。この工場は現在のポーランドのブロツワウ付近にあって、ドイツは敗戦時までに生産された1500トンというタブンをソ連軍の
占領前に処分した。だが、後になって工場設備はそっくりソ連に運び去られている。各種の毒ガスは大別して5つに分けられる。
1.臭素ガスは刺激が強烈だが致死性は低い。
2.窒息性ガスは塩素、ホスゲンなどで肺の組織を破壊する。
3.人体の酸素吸収を妨害するアルシン、塩化シアンなどの細胞を破壊するガス。
4.マスタード・ガスのように皮膚に危険な外傷を負わせる糜爛性ガス。
5.肺と呼吸器系を侵す神経ガス、タブン、サリン、ソマン。ソマンは1-2分で昏睡、そして死に至る強烈なガスだった。
実際、ドイツでは1930年代に生物兵器の知識自体は十分蓄積していたが、使用にあたって自らの防御体制が確立できなかった
ことと、陸続きの大陸国家間で生物兵器の使用は双方にとって極めて危険で使用したさまざまなバクテリアがドイツに再び戻らな
いという保証が無かったことである。
役立たなかった秘密兵器
ドイツの兵器研究が広範囲に、そして優れた成果を上げたことはまぎれも無い事実である。だが大戦末期の秘密兵器と呼ばれ
るものがなぜ有効な兵器となりえなかったのか
、その原因について、戦後の英国のCIOS(英国知的情報委員会)の技術調
査報告書と英国の調査団だったサイモン大佐の報告書中に多くのヒントが見られる。秘密兵器の多くは無責任な発明者が組織生
産と実用面を考えずに開発を行ったもので権力闘争を兵器の保有競争に置き換えたナチ党幹部たちの下心
ある支援が無かった
ならば、このような兵器の開発が行われることはなかったであろうと述べている。陸軍は新対戦車砲を、空軍は対空砲を、海軍も
艦載対空砲をそれぞれに連携も無く3つの異なるソースから、3つの同じような兵器が多数の技術者を投入して異なるコンセプト
で開発され、3箇所に同じ設備が導入されて生産される結果となった。これがもっとも大きな原因であるが、ドイツの戦略に大き
な混乱を与えたのはほかならぬヒトラーの方針
だった。まず1940年の初期電撃戦の成功により、ヒトラーが防御用兵器は不要
だという方策を策定し、さらに向こう一年以内に実用化できる保証の無い兵器の研究・開発を中止するように命令したのである。
この命令により1941年から有効ないくつもの研究と開発が中止され特に後になって深刻な影響を受けたのがレーダー研究であ
った。指令からわずか2年後の1943年後半になると連合軍の空の優位は動かし難い事実となり、ヒトラーは自らの指令を忘れた
かのように、科学者たちを召集し、ドイツは電子戦面で技術的に連合国に迅速に追いつく必要があると述べて、資金が豊富に投
入され、挙句に研究所の活動を監視する委員会まで設置された。ドイツが失った2年間の研究ブランクは大きく、レーダー・テクノ
ロジーの優位を取り返すことはできなかった。
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