宇宙時代の扉を開いたV2ロケット
1944年9月8日の夕刻6時30分頃、ロンドン郊外チズウィック・ステブレー街の静かな住宅街に、突然雷鳴のような音
が轟いて、6戸ばかりの住宅が倒壊し3名が死亡、6名が負傷した。これはV2ロケットがが初めてロンドンを攻撃した時の
様子である。ロケット研究がベルサイユ条約の禁止条項になかったために、その開発ストーリーはかなり遡ることになる。
1927年に宇宙旅行境界(VfR)が設立されて小型ロケットの研究が始まり、1931年までに液体燃料小型ロケット
を飛翔させるまでになった。発射部隊はグルッペ・ノルト(北方部隊)とグルッペ・サド(南方部隊)の二つが編成され、北
方部隊は1944年9月8日にロンドンに初発射を行い、南方部隊もフランスとベルギーの連合軍をターゲットとしたが、パ
リに向けたV2は到達しなかった。V2は1359発が発射され、うち57発がロンドンへ落下し、27発がノーウイックへ達し
た。死者合計2754人で負傷者は6523人だった。
駄作兵器シリーズ
風と音の威力
 圧搾空気の塊を噴射する「風力砲」、炭塵爆発で人工的に旋風を発生させる「旋風砲」、音波を放射する「音波砲」
Ba349ナッタァー
 有人対空砲 発射台から打ち上げ実用上昇高度は16000メートル、パイロットは目標敵機に24基のR4Mロケット
 弾をいっせいに発射するが、ロケットの射程は短く70-100メートル
だった。ロケットで上昇する急加速度と急激な気圧
 の変化に起因する人体への影響の克服研究がなされず、また敗戦間際となりパイロットの訓練計画もままならず、発射
 場が限定されることや、ロケットの動力は一回限りの作動であり、かつ機は高速すぎて制御や機動性が悪く、さらに短時
 間での迎撃では会敵する機会が極めて少ない
といった点があげられていた。
ナイキミサイルの出発点 対空誘導弾C2ヴァッサーファール
 戦争が長引いてヒトラーの防御兵器不要論は消え、連合軍爆撃機はしだいに高々度を飛行するようになり、ドイツ爆撃
 の脅威が増し、現実に従来型高射砲の射程の限界を超えるようになっていった。ヴァッサーファールは理論としては完成し
 自動計算機と自動追尾装置による誘導がすでに実験されていて、今日のミサイル発展への揺藍期であった点にむしろ注
 目すべきだろう。だが、大戦末期になって膨大な資材を必要とする発射基地の建設は行われなかったが、もし発射基地の
 建設が開始されたとしても連合軍の航空偵察の眼により発見されて空からの攻撃により、早期に破壊されてしまったことで
 あろう

爆撃機を二機つないだハインケルHe111Z1
28トンの重量に耐えられる積貨量を持つ輸送手段は無く、出撃のチャンスはなかった
鼠という名の超重戦車 180トン戦車モイゼ
 1944年に188トンと言う空前絶後な戦車が製作されたが、このような巨大な戦車の出現は”大きな兵器が好き”という
 ヒトラーの好みから生まれたとされるがその背景にはもう少し奥行きがあった。100トン戦車の設計を国民者フォルクスワーゲ
 ンが生みの親として知られ、また兵器局の戦車委員長でもあったフェリディナルド・ポルシェ博士に命じたのが1942年3月
 21日で、以降プロジェクトはポルシェ・モイゼと呼ばれることとなった。速度が落ちても重装甲、強装備とするようヒトラーは念
 を押している。
Uボートの元になった潜水戦車 タオホパンツァー
 1941年、ドイツ軍はいっせいにロシアの国境を越えて大草原に進撃を開始した。バルバロッサ(赤髭)作戦の開始である。
 ポーランドのブレスト・リトブスク北西にあるブーグ川の渡河に成功。戦車が一両、また一両と河中に突入して姿を消し、後の
 水面上には鉄パイプを突出させてエンジンの排気の泡を残して水中を行く。やがて対岸につぎつぎと戦車が姿を現し、周囲の
 将兵が驚く中を全身から河水を滴らせながら黒い怪物のように斜面を駆け上り、砲口のゴムの防水蓋を吹き飛ばし前面の
 操縦用観測窓を開く。80両の潜水戦車はミンスクとスモレンスクめざして進撃していった。英本土上陸”あしか作戦”用に
 用意されたものであったが、ドイツ空軍は英本土上空の制空権を取ることができず、あしか作戦は無期延期
となってしまった。
変り種戦闘車両 爆薬運搬車から対空戦車まで
第二次大戦中にドイツが生産(1938~45年)した装甲戦闘車両の総数は89,254両であるが、回転砲台を搭載した
純戦車は26,925両で全体の30%に過ぎない。これは大戦に途中で参加した米国のM4シャーマン戦車の単一車種
48,000両にも及ばず、旧ソビエト一国でも戦闘車両は125,000両といわれ、さらに英国の生産分も加えた膨大な戦闘
車両群を相手に、ドイツ戦車は質と戦術をもって善戦敢闘したといわねばならない。
一方、戦車の車台を用いた箱型の装甲砲塔に戦車砲を搭載した生産の容易な突撃砲と駆逐戦車が15,670両で
17.6%、同じく戦車の車台に火砲を搭載した自走砲、そして制空権を連合軍に握られてしまい、空からの脅威に対抗する
ため、対空砲を搭載した対空戦車などが4,954両で5.6%であり、戦車と戦車の車台を用いた改造車の合計は62.6%
だった。残りは偵察用の装甲車4525両、半装軌装甲兵員輸送車と爆薬運搬車は35,277両である。純粋な戦車も
1~6号戦車とその派生型が多種多岐に渉っていて、M4シャーマン戦車一種で戦った米国と好対照をなす
ものであるが、そう
した多くの派生型や試作車両の一部には今日見ても驚くほどの斬新性や先見性を持ったものも多かった。
海戦兵器
第一次大戦以降、英海軍に対して劣勢なドイツ海軍がとった戦略は、Uボートによる英国補給線を絶つ、いわゆる通商破壊戦
だった。一方第二次大戦でドイツが就航させたUボートは1150隻でうち781隻を喪失し、215隻はドイツ敗戦時に自沈、
154隻は連合軍に降伏した。そして戦闘全期間中、大西洋、カリブ海などで2603隻、1357万トンを撃沈したこのUボート
の戦いは1936年~41年の高潮期、1942-43年の最盛期、1944-45年の退潮期とに分けることができるだろう。
大戦前半の高潮期に活躍したUボートも1942年の後半に入るとレーダーの発達により夜間浮上中の潜水艦多数が撃沈
される状況
となり、水中速力の増大と潜行時間を伸ばすことにより攻撃と脱出の機会が付与できるとしてヴァルター教授が提案
して検討された。

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